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大我麻神社

新田開発の鎮守神は地域の守り神となった

大我麻神社鳥居と拝殿

読み方 おおがま-じんじゃ
所在地 名古屋市北区楠町大字大浦新田字会所東2 地図
創建年 1827年(文政10年/江戸時代後期)
旧社格・等級等 不明
祭神 不明(天照大神か?)
アクセス 城北線「比良駅」から徒歩約30分
駐車場 なし
その他  
オススメ度 **

 長年の苦難を乗り越えて開かれた大浦新田の氏神として勧請されたのが、この大我麻神社だ。
 大井神社はかつてこのあたりの大井の池のほとりにあったと伝わっている。
 その後、あまりにも水害が多いため、鎌倉時代に1キロほど東に村ごと移った。
 現在でも大山川や合瀬川など、中小の川が複雑な流れを作って入り組んでいる。江戸時代までは蒲(ガマ)が生い茂る沼地だったという。堤防工事のおかげで水が流れ込み、大きな池ができた。大浦池と呼ばれた池は周囲4キロもあったという。
 この地に新田を開発しようという試みがなされたのは江戸時代初めのことだった。その壮絶ともいえる物語は、沢井鈴一氏の「水との凄絶な闘い──大蒲池と新田開拓」に詳しく書かれている。

 1687年に新川洗堰(あらいぜき)の開削工事が完成すると、まずは1693年に大浦で開発が始まった。しかし、湿地帯で水の流入に苦しめられ、いったん断念せざるを得なかった。
 開発が再開されたのは1717年で、萱津村の平八という人物がこの地に入り、1753年に愛智郡の戸部下新田の喜惣治に売却された。10年後の1763年、農民が入植して本格的に新田開発が始まり、喜惣治新田と呼ばれるようになる。
 その東を開発したのが豊場村(今の豊山町)の佐々木磯吉で、入植したのは1820年(文政3年)のことだった。
 名古屋で酒造業を営んでいた三輪惣右衛門の支援も受け、7年かけて大浦新田の開発が成った。
 神社は新田開発者の佐々木磯吉が豊場村伊勢山神社(今の豊山町の神明社)から勧請したもので、当初は大浦神社といっていた。現在の大我麻神社と改称したのは明治13年(1880年)のことだ。
 神明社からの勧請ということで祭神はアマテラスだろうけど定かではない。

 大我麻の名称は大蒲(おおがま)から採られている。
 現在の町名の会所町(かいしょちょう)は、昭和47年に楠町大字大浦新田の一部より成立したもので、会所は村の集会場があったことから来ている。

 鳥居前に大きな椎の木がある他、巨木の切り株が残っている。切られる前はいかにも鎮守の森といったたたずまいの神社だったことが想像される。広がる田んぼの中にこんもり生い茂る小さな森に鎮守神が鎮まっていたのだろう。かつてはすぐ西を大山川が流れていた。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)のものを見ると、まだ江戸時代の名残が色濃いので当時の様子を想像できる。
 氏神と鎮守神は正確に言うと少し違っている。氏神というのは氏子たちが共同で祀り守っていく神社で、鎮守神は土地神を抑え込むために呼ばれた神だ。他から助っ人として呼んでくるわけなので、土地神よりも弱くて負けてしまうと困る。負ければ住人が祟られかねない。
 大我麻神社の場合、氏神というより鎮守神といった色合いが濃いように思う。水難や天災に負けない強い守り神である必要があった。
 アマテラスなら最高神だから申し分ないのだけど、他にもっとここでの役割に合う神様がいたような気もするけどどうだろう。
 境内に社が置かれていたと思われる土台だけが残っているのが少し気になった。かつて合祀していたという水神の社だろうか。
 沼を埋め立てて田んぼにした三輪惣右衛門の家では当主が代々早死にすることが続き、沼の神が怒って祟っているのではないかということになり、沼に水神を祀ったという。大我麻神社ができたときその社を合祀したというのだけど、それがあったのがあの土台のところだったのかどうか。もしそうなら、もう一度社を作って祀り直した方がいいかもしれない。

 かつての新田は住宅地となり、もはや面影さえ残っていない。神社の隣には団地が建ち並び、水路を越えた北側には名古屋中央卸売市場北部市場がある。
 名残といえば、境内に建つ大蒲新田開発記念碑や三輪惣右衛門の碑くらいだ。
 時は流れ、時代は変わり、水害や天災に苦しめられることがなくなった今、神社は平和の内に鎮まり、地域の人たちを見守っている。

 

作成日 2017.3.8(最終更新日 2019.1.3)

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