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六所社(下飯田)

最初から六所社だったのか途中からなのか

下飯田六所社鳥居と境内

読み方 ろくしょ-しゃ(しもいいだ)
所在地 名古屋市北区下飯田町1丁目1 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 村社・六等級
祭神 伊弉諾神(いざなぎのかみ)
伊弉冉神(いざなみのかみ)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
月読神(つくよみのかみ)
素戔嗚尊神(すさのおのかみ)
蛭子神(ひるこのかみ)
アクセス 地下鉄名城線「志賀本通駅」から徒歩約5分。
駐車場 あり
その他 例祭 10月10日
オススメ度

 北区を中心に、東区、西区の名古屋市北部に点在する六所社の中のひとつ。
 六所社とは何かということは成願寺の六所神社のときにも検討したのだけど、あまりにも分からないので気持ちが悪い。
 奥州(宮城県)の鹽竈神社(web)から勧請した六所明神の流れがひとつありそうだ。ただ、それだけではない。徳川家の祖とされる松平親氏が勧請して松平郷に建てた六所社が関係しているのかどうか。静岡県浜松市に集中する六所神社は何を表しているのか。武蔵国総社の大國魂神社(web)とは無関係と言い切れるのかどうか。
 名古屋北部の六所社の祭神、イザナギ・イザナミのファミリー六柱というのは明治以降に六という数字から当てはめたものかというと必ずしもそうではないようで、江戸時代にはすでにその認識があったようだ。
 ある時期、この地域で六所社が流行って、それまで違う神社だったのが六所社に変わった可能性はある。古い式内社とされる味鋺神社別小江神社大乃伎神社なども江戸時代は六所明神と呼ばれていて明治になって戻したという経緯がある。現在六所社を称しているところは戻せなかっただけかもしれない。
 ただ、すべての六所社が上書きされたものとは言い切れず、最初から六所明神を祀る神社として創建された可能性も否定できない。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではないが、天明年間(1781-1788)、社殿造営の棟札を社蔵する。明治5年村社に列格し、明治40年10月26日供進指定村社となる。大正2年6月7日、当町内鎮座の無格社・神明社・八幡社・熊野社・山神社・天神社・弁天社・金刀比羅社・稲荷社・天王社・御嶽社を境内社に合祀した。昭和54年10月、社殿を防災構造に改造築する。昭和61年11月第一大鳥居『耐候性鋼板造り』にて竣工(旧桧材の大鳥居腐朽のため取りこわし)」
 ここからは創建についてのいきさつや経緯などは分からない。

『尾張志』(1844年)の下飯田村の項はこうなっている。
「熱田社 神明社 以上二社同所 六所社 八幡社 以上二社同所 神明社 天神ノ社 八龍社 山神ノ社 八社ともに下飯田村にあり」
 熱田社と神明社が同じところにあって、これが村の氏神だったようだ。
 六所社と八幡社も同じところにあり、のちにこれが合併して六所社が主で八幡社が従という格好になったのだろう。
 他の神社は『愛知縣神社名鑑』にあるように大正2年にまとめて六所社に移された。

『尾張徇行記』(1822年)の下飯田村の神社についてはこうなっている。
「社六ヶ所内大神宮二社界内三畝三歩前々除 六所八幡天神熊野権現八龍宮界内三畝三歩前々除 社人森筑後守書上ニ、六所明神社末社八幡界内東西概八間南北三十五間前々除 清蓮寺書上ニ、熊野社内九歩(村図ニ十二歩)天神社内十二歩八龍社内二十歩倶ニ御除地 熱田社家大原与七太夫書上ニ、氏神熱田八劔大明神社内東西三十六間四尺南北二十四間半御除地村図ニ二畝十五歩御除 寺社方帳ニ、社内一反四畝廿歩トアリ、右界内神明宮一社アリ」
 これを読んでも氏神は熱田社もしくは八劔社だったようなのに、どうしてそちらではなく六所社に神社を集めたのか、ちょっと分からない。

『寛文村々覚書』(1670年頃)によると大神宮二社は熱田祢宜の大原与七太夫の持分で、六所・八幡、天神、熊野権現、八龍宮は西志賀村祢宜の森伊像佐持分となっている。
 江戸時代末から明治にかけて下飯田村において熱田社家の力が弱まったのだろうか。

 祭神六柱のうち、ヒルコというのはどういう経緯で入れられたのだろう。なんとなく数合わせようにも思える。
 イザナギとイザナミの間に生まれた三貴神のアマテラス、ツクヨミ、スサノオはいいとして、ヒルコは最初に生まれながら不具の子として海に流したと日本神話は伝える。いなかったことにされた子をファミリーの一員として祀るのは少し不自然だ。
 ヒルコは蛭子または水蛭子と書き、アハシマ(淡島)とともに最初に生まれたものの不具の子だったため『古事記』では葦の舟に乗せられてオノゴロ島から流されてしまったとし、『日本書紀』では三歳になっても脚が立たないので天磐櫲樟船(あめのいわくすふね)に乗せて流したとしている。
 つまり、ヒルコは神の子として認められていない。流された先で拾われて育てられたのちに神として祀られたという話は各地にあるものの、イザナギ・ファミリーの一員には入れてもらっていない。ヒルコを入れるならアハシマも入れないと変だ。
 アハシマが流されたあとどうなったかは民間伝承としていくつか説はあるものの、『古事記』、『日本書紀』には描かれていない。
 ヒルコ伝承ひとつに摂津国に流れ着いて夷三郎と呼ばれて育ち、のちに西宮神社で祀られたというのがある。恵比須神と習合してめでたい神とされ、今でも西日本を中心にヒルコ=エビス信仰が残っている。
 ただ、名古屋北部の六所社のようにイザナギ・イザナミのファミリーの一員として祀っている神社が日本各地にあるかどうかは知らない。

 下飯田の地名はわりと古くからあったようで、南北朝時代(1336年-1392年)の記録に尾張国山田郡下飯田郷として出てくる。
 そのことからして下飯田の六所社も古くからあった神社かもしれない。
 下井田という表記もあることから、田んぼから水がわき出てくるような土地ということで井田と名付けられたともいわれる。
 それとは別にちょっと面白い説がある。
 尼ヶ坂の片山天神境内にあった杉の枝を、近隣の5つの村に分けたことから下枝とという村名になり、のちに下飯田(下井田)に転じたというものだ。
 片山天神にあった杉は、森に住んで暴れ回っていたという伝説の天狗が腰掛けたとされる大杉で、普通の杉ではない。残念ながらその杉は切り倒されてしまったのだけど、切り株とされるものが現在も片山神社の本殿脇に残されている。
 近くにある神社同士のつながりというのは無視できないもので、たとえ創建時期や祭神がまったく違っていても、どこかで関わっていることがある。片山神社と六所社を結びつけて考えることは無理があるとしても、一時は六所明神と称していた別小江神社や味鋺神社などとの関わりが六所社の謎を解く手がかりには違いない。
 他の六所社とあわせて六所社問題は検討する必要がある。

 

作成日 2017.3.30(最終更新日 2019.1.6)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

下飯田の六所社とヒルコの話

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