児子八幡社

ひょっとしてここが綿神社なのか

児子八幡社

読み方 ちご-はちまん-しゃ
所在地 名古屋市北区志賀町1-65 地図
創建年 不明
社格等 村社・十一等級
祭神

應神天皇(おうじんてんのう)

 アクセス

・地下鉄名城線「黒川駅」から徒歩約8分。
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度 **

 成願寺六所神社から旧木曾街道を南下しているとき、たまたま見つけて立ち寄った。まったく予備知識がなく、この神社の存在そのものを知らなかった。
 拝殿前の社票に児子社とあり、南鳥居の前の社票が八幡社となっているので戸惑った。
 児子社と呼ばれることが多いようだけど、愛知県神社庁への登録名称では八幡社となっている。
 鳥居をくぐって参道を進み、蕃塀を越えて拝殿、本殿をしげしげと眺めながら、なんだこのいい神社は、と心の中でつぶやいた。今までこの神社のことを知らなかったのが不思議なくらいで、ここはもしかしたらすごく由緒のある重要な神社じゃないだろうかとそのとき思った。
 帰宅してからまずネットで検索してみると、あまり情報が出ていない。誰もがこの神社を重視してるふうでもなく、褒めているのも見かけない。自分の印象は間違った思い込みだろうかと思いつつ、史料を当たってみると、『尾張国神社考』の中で津田正生が「綿神社はこの児子の宮なり」と書いていて、やっぱりか、と根拠もなく納得してしまった。膝を打つとはこのことだ。
 しかし、津田正生の説を頭から信じて疑わないのは危険というのはこれまでで分かっている。もう少し調べを進めてみる必要があると思った。

 いくつか分かってることがある中で、遷座について2つの説がある。
 ひとつは『名古屋市史』などがいうところの、「綿神社の東、志賀公園近くの西志賀村にあり、明治7年(1874年)に移転した」というものだ。現在地にはもともと天神社があり、そこへ八幡社と児子社を移したという。
 もうひとつは、綿神社に隣接する霊源寺の門前に児御前の社としてあり、中世に現在地に移転し、児子社と改めたというものだ。
 これは地図を見れば分かることだけど、綿神社の東の西志賀村というのはおかしい。綿神社は遷座したという記録や言い伝えはなく、現在の元志賀にあったと考えられる。その綿神社の東なら東志賀で今の児子社があるあたりだ。かつて平手政秀の邸宅があった志賀公園が綿神社の西の西志賀村になる。
 江戸時代後期に出た『尾張名所図会』を見ればさらにはっきりする。中央に綿八幡(綿神社)が描かれ、西北に平手政秀の碑、東南に児宮(児子社)という現在と同じ配置になっている。
 後編の出版は資金難で明治13年(1880年)にずれ込んだとはいえ、原本は江戸期に完成していたはずだから、明治7年移転というのは違うのではないか。
 ただ、近年に移転したという話が出てくるということは、何らかの移転や合祀などが行われた可能性はある。天神社のあるところに八幡社と児子社が移されたというのは話が具体的だ。
 となると、中世に一度遷座し、明治にもう一度今の場所に移されたということだろうか。
 もともと綿神社とは別の古くから西志賀にあった産土神だったという話もあり、実際のところどうだったのかはよく分からない。

 綿神社、霊源寺、児宮、この関係性が鍵になる。
 霊源寺の創建ははっきり伝わっていないものの、曹洞宗の古い寺といわれる。ただ、綿神社が式内の綿神社だとすれば、霊源寺の方が後の可能性が高いか。
 児宮は寺の門前にあって児御前の社と呼ばれていたといい、綿神社の別社ともされる。それぞれの創建順が分かればいいのだけど、それは分からない。
 児宮の名が示す通り、古くから子供の守り神として人々に崇敬されてきたとされる。
 尾張徳川藩は特に大事にして、藩主がたびたび参詣した他、幾度も修繕費を出し、代々の藩主は幼少時に虫封じのお守りを授かったと伝わる。
 戦前までは参拝者も多く、赤丸神事には一日に二万人が訪れたこともあったという。
 すぐ東を走っている稚児宮通の名前は、この神社から来ている。
 いつから児宮は子供の守り神とされるようになったのかが問題だ。どこまでさかのぼることがきるのか。

 児子社の祭神は現在、応神天応となっている。これは八幡社を合祀したからで、当然ながら本来の祭神ではない。
 かつては天之御中主神(アメノミナカヌシ)を祀っていたようだ。
 天地開闢のとき現れた五柱の別天津神(ことあまつかみ)の一柱で、高天原(たかあまはら)に最初に出現したとされる古い神だ。タカミムスビ(高御産巣日神)、カミムスビ(神産巣日神)とともに造化三神と呼ばれる。
 それに対して津田正生は、「戦国の後、社人(みやもり)も其由縁をわすれて、兒(ちご)の宮を別物と想ひて本社より巽(たつみ)一町に遷(うつ)して、天乃御中主神などいふめるは笑うべし 兒(ちご)の宮こそ綿のみやしろなれ」と書いている。
 戦後というのは戦国時代の後のことで、神社の人間さえどの神を祀っていたのか分からなくなって天之御中主神を祀るなんてちゃんちゃらおかしいと笑い飛ばしている。
 更に続けて、「やはた大神は後世鎌倉以来の時勢神(はやりかみ)なり」とも書いている。
 その津田正生はどの神を祀っていると考えているかというのが次の箇所だ。
「海童(わたつみ)三神を祀る成るべし、兒(ちご)の宮とは、海童(かいどう)の字より轉(うつ)りて呼べるなるべし」
 ここのところがよく分からない。海童は「わたつみ」のことなのだけど、これがどう転じると児宮になるというのだろう。童を「わらべ」のこととして、海の子といった意味なのか。
 ワタツミ三神というのは、イザナギが黄泉の国から帰って禊(みそぎ)をしたときに生まれたソコツワタツミ(底津綿津見神)、ナカツワタツミ(中津綿津見神)、ウワツワタツミ(上津綿津見神)のことを言ってるのだと思う。
 それ以外に海の王の大綿津見神(オオワタツミ)もいるからちょっとややこしい。
「ワタツミ」は、「海=ワタ」、「ツ=連体助詞」、「ミ=霊」から成る言葉というのが定説となっている。海の神、もしくは海そのものを指すともいわれる。
 それがどうして子供の神となっていったのかが分からない。海の神と子供の神がつながらない。
 祭神は綿津見とせず、海童としたのは、文字通りワタツミの子供という可能性もあるのか。
 海幸彦に借りた釣り針をなくして困っていた山幸彦は、綿津見大神こと豊玉彦(トヨタマヒコ)の元を訪れ、その娘の豊玉姫(トヨタマヒメ)と結婚して、日子波限建鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズ)を産んでいる。そのウガヤフキアエズの育ての親で、のちに結婚するのが豊玉姫の妹の玉依姫(タマヨリヒメ)だ。そしてその子が初代天皇・神武天皇として即位する。
 子供の守り神としてはワタツミよりも玉依姫(タマヨリヒメ)の方がふさわしい。綿神社のかつての祭神がタマヨリヒメだったというのも、ここで話がつながる。本来はワタツミを祀っていたはずなのに何故か途中でタマヨリヒメに代わってしまっていて、それが不思議だった。その謎が解けた気がする。
 深読みをするならば、本来の綿神社である児宮から祭神のタマヨリヒメと式内社を本社が奪ったとも考えられる。故意かどうかは別にして。

『特選神名牒』は、綿神社の項で、兒宮を綿神社とする説に言及しつつ、こう書いている。
「本社宝(寶)物に奉納綿神社願主政秀と彫りつけたる鏡一面あり、政秀は平出氏にて享禄(1528年から1531年まで)の頃の人と思ゆ其頃より綿神社と唱ふることなれば、その神社と定めて難なかるべしと云うに従う」
 綿神社本社に、綿神社に政秀が奉納したと彫られた鏡があり、この鏡はおそらく平手政秀のことで、戦国時代の人がここを綿神社と言ってるのだから間違いないんじゃないのという理屈だ。
 ただ、平手政秀がそう言ったからといって無条件に信じていいはずはないし、政秀が志賀に屋敷を構えたときは、綿神社はすっかり荒廃していて、それを見かねた政秀が修繕費を出して建て直させたという経緯を考える必要がある。
 その頃はまだ児宮は移される前で、霊源寺前にあった可能性が高い。
 政秀は、信長の父から息子・信長の守り役を任されていたジイだ。信長があまりにも素行不良で暴れ回っていて言うことを聞かないものだから政秀はほとほと困り果てていた。そこで近くにあった綿神社に鏡や手彫りの狛犬を奉納して信長が改心してくれるようにと願ったのだ。
 それはもしかしたら、児宮の方ではなかったのか。その頃すでに児宮が子供の疳の虫を封じる霊験あらたかな神とされていたならば、ジイにとって信長は聞き分けのない子供のようなもので、願うとしたら児宮こそがふさわしいと考えるのが自然ではないか。
 そのとき、本社は何の神を祀るどんな神社だったかは分からない。鎌倉以降、すでに八幡社になっていた可能性はある。
 そして、児宮が本社の別社で、本社の人間が管理していたとすれば、政秀が奉納した鏡などは本社で保管していてそのまま伝わったのかもしれない。
 戦乱が続き、児宮が移されることになったとき、鏡は本社に残ったままとなり、児宮は何の神を祀っていたのか分からなくなってしまった。
 元を辿れば、綿神社本社でワタツミ(綿津見命)を祀り、別社の児宮でタマヨリヒメを祀っていた、そう考えると丸く収まるような気がするけどどうだろう。

 わずかな手がかりと想像で以上のような話を考えてみた。もちろん、まったく的外れの可能性も大いにある。
 境内を一般道が横切っていて分断されていたり、必ずしも手入れが行き届いているわけではない神社ではあるのだけど、それでも何か感じるものがあったのは間違いない。
 ここが実際、式内の綿神社だったとしても驚かないし、違っていたとしても好きな神社に変わりはない。
 津田正生の言い回しを借りるならば、「後の好士なほ考え訂為(ただす)べし」ということになるだろうか。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

児子社が綿神社という可能性はなくもない

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