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神明社(猪子石)

猪子石村の氏神だけど始まりは不明

猪子石神明社

読み方 しんめい-しゃ(いのこいし)
所在地 名古屋市名東区神月町602番地 地図
創建年 伝・834-848年(平安時代前期)
旧社格・等級等 指定村社・九等級
祭神 天照大神(あまてらすおおみかみ)
豊受姫神(とようけひめのかみ)
アクセス 地下鉄東山線「上社駅」から徒歩約51分
名鉄瀬戸線「喜多山駅」から徒歩47分
市バス/名鉄バス「猪子石原停留所」から徒歩約7分
駐車場 あり(無料)
webサイト 公式サイト
その他 例祭 10月体育の日
オススメ度

 猪子石村の氏神。
 猪子石の正式な読み方は「いのこいし」なのだけど、地元ではだいたい「いのこし」と呼んでいる。地名の由来とされるふたつの石があり、それぞれ猪子石神社地図)と大石神社地図)として祀っている。
 他の神明社と区別するために猪子石神明社と称している。同じ名東区の本郷に神明社があり、そちらは藤森神明社地図)と呼ばれている。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではない。『尾張志』に神明ノ社天照御大神、豊受大神を祭る境内に鍬神社あり、当村の本居神なり。という明治5年7月、村社に列格し、明治40年10月26日、供進指定社となる。同年12月5日、字蓬莱洞89番地無格社八劔社(日本武尊 境内707坪)を本社に境内神社として合祀する。当社飛地境内に「猪子石」の名前発祥と呼ばれる猪に似た雄牡(ママ)の石が有る(愛知県教育委員会)」

『尾張志』(1844年)の猪子石村の項にはこうある。
「八劔ノ社 猪子石村にあり日本武尊を祭るといへり 境内に観音堂一宇あり十一面観音を安置す此社地を蓬莱洞といひ観音堂を蓬莱山と呼也堂内に慶長年中に書る繪馬二枚あり又此社蔵に天文年間の鐘盤慶長中の鐵の䦰筒(クジヅツ)あり修験密造院これを掌る
 神明社 天照大御神豊受ノ大神を祭る 境内に鍬ノ神ノ社あり當村の本居神也
 山ノ神ノ社 此地名を東脇とひふ
 山ノ神ノ社 神明社より東の方にあり」

『尾張徇行記』(1822年)では観音堂の中に八劔宮と山神があるという書き方をしている。神仏習合で一体化していたのだろう。
 八劔宮の創建年月は不明で、元和2年(1616年)に再建したとある。
 神明祠については「境内一町四方御除地、此祠創建ノ年暦不知、再建ハ元和八戌年也」とする。元和8年は1622年だ。

『寛文村々覚書』(1670年頃)には「社三ヶ所 内 神明 八劔 観音 山伏 成学院持分 社内弐反歩 前々除」とある。
 前々除としているので、神明、八劔、観音は1608年の備前検地以前からあったことが分かる。

『尾張名所図会』(1844年)には『猪子石 蓬莱谷』と題して絵図が描かれている。
 画面中央に「かなれ川」が流れており、手前の道を馬に荷を背負わせた人が歩き、川のほとりに牡石が描かれている。
 川向こうが猪子石村で、牝石は小山の山頂に祀られるようにして置かれている。
 山並みには蓬莱谷(よもぎだに)とあり、その中腹あたりに観音と八劔宮が並んで描かれている。
 八劔宮は現在の蓬来小学校(よもぎしょうがっこう/地図)のあたりにあったから、香流川の北から南方向を向いて描いたものだろう。
 猪子石も宅地造成で野山を大きく削ってしまっているから、本来の地形が分かりづらくなっている。
 蓬莱谷(よもぎだに)の由来は、熱田がかつて蓬莱(ほうらい)と呼ばれており、八劔宮があることからそう名づけられたとも、古い仏の肩に蓬(ヨモギ)が生えていたからともいう。

 神社公式サイトの由緒では、平安時代前期の承和年間(834-848年)の創建としている。
 そういう言い伝えがあるということだろうけど、そのまま信じていいのかどうか判断がつかない。
 神明社の600メートルほど西北に和爾良神社(地図)が、2.3キロほど東南に藤森神明社地図)があり、『延喜式』神名帳(927年)の山田郡和爾良神社の論社とされている。
 周辺から大型の古墳は見つかっていないものの、和爾良神社の参道にかつて小さな円墳があったとされる他、猪子石神社の牡石は古墳の石室の一部ではないかともされている。
 名東区全域から千種区東山あたりの丘陵地では1000基を超える古窯跡が見つかっていることから、古墳時代から鎌倉時代初期にかけてこの地に陶工集団がいたことは間違いない。
 大量の鏃(やじり)や石斧などの石器類も発掘されており、縄文時代から人が暮らしていたと考えられる。
 そういった歴史を踏まえれば平安時代に神社が建てられた可能性はあるだろうけど、最初からアマテラスとトヨウケを祀る神明社だったとは思えない。
『尾張志』が村の本居神は鍬神社だといってるけど、これはおそらく志摩国の伊雑宮(神宮別宮)発祥の御鍬さま信仰から来ているか、もしくは外宮の御師あたりが伝えたものだろうから、それほど古い神ではなさそうだ。江戸時代に入ってからだろう。
 平安時代前期に猪子石村の集落ができていたかどうか。もしできていたとすれば、それはどんな勢力で、どんな神を祀る神社として創建したのか。その正体を探り出すのは難しい。

 神社の由緒はこう続ける。
「花園天皇時代(1308-1318/鎌倉時代後期)には猪子石字水汲坂に鎮座されていた。御所より奥三河猿投山中に御巡幸の途中、香流川の清水を汲み御休憩された所と伝えられる」
 字水汲坂の地名は残っていないのだけど、水汲坂公園(地図)などに名残がある。鎌倉時代には今よりも西にあったようだ。
 花園天皇が猿投山に巡行したというのは史実なのだろうか。公式の記録に残っているのか、日記『花園天皇宸記』に書かれていれば本当なのだろうけど、どういう理由で猿投山なんかに行ったのだろう。
 信心深くて学問に秀でた人物と伝わっているから、何か理由があったはずだ。三河国三宮でヤマトタケルの双子の兄弟の大碓命を祀る猿投神社にでも用があったのだろうか。
 鎌倉時代は京都と鎌倉を結ぶ鎌倉往還があったとされ、詳しいことは分かっていないものの、萱津、中村、露橋と通り、その先は北の御器所、島田経由と南の熱田、笠寺、鳴海経由で二村山に到るルートが想定されている。猿投山方面に向かうのであれば、後の美濃路から名古屋城下を通って山口街道を東に向かうコースはあり得る。そうであれば、猪子石村を通ったというのは充分考えられることだ。
 神社はその後、香流川が氾濫して被害を受けたため、江戸時代前期の1622年(元和8年)に現在地に移ったという。『尾張徇行記』がいっている元和8年の再建はこのことのようだ。
 その当時、香流川は今の神明社のすぐ南を蛇行しながら流れていた。お年寄りの昔話で、子供の頃は西に隣接する月心寺の境内から香流川に飛び込んで遊んだというのを聞いたことがある。それはちょっと大げさな気もするけど、今昔マップの古い時代のものを見ると、確かに香流川は神明社のすぐ南を流れていたことが分かる。今のように流れを付け替えたのは昭和40年代だったと思う。
 月心寺の創建は不明ながら鎌倉時代初期には猪子石村西脇にあって、延命寺と称する天台宗の寺だったとされる。
 その後、蔵福寺と改名し、江戸時代前期の1662年に大永寺の末寺となって曹洞宗に改宗し、現在地に移されて月心寺と名を改めた。
 ここに移ってきたのは神明社が先で、月心寺が後ということになる。この高台には猪子石城があったという伝承があるも、詳しいことは分かっていない。

 猪子石村にあった山神社がどうなったのかは分からない。神明社の境内社に山神社があったかどうか。
 八劔宮は『愛知縣神社名鑑』にあるように明治40年に神明社境内に移された。
 八劔宮と一緒にあった観音堂は明治18年(1885年)に月心寺の境内に移築されている。
 境内社に龍耳社がある。これは明治の初めに耳がある蛇が捕らえられて、それを祀ったものだという。
 境内の資料館では祭りに使われた馬の塔(オマント)の馬標(ダシ)や棒の手の武具などが保存展示されている(普段は開いていない)。
 9月の秋分の日には八剣祭が行われ、今でも子供相撲をやっている。
 今年2019年は亥年ということで初詣に猪にまつわる猪子石の神明社や猪子石神社を訪れた人が多かったようだ。

 

作成日 2017.3.19(最終更新日 2019.1.27)

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