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和爾良神社

王仁吉師と和珥氏が関わっているのかいないのか

和爾良神社鳥居と境内

読み方 わにら-じんじゃ
所在地 名古屋市名東区猪高町猪子石原1丁目503 地図
創建年 1592年?(安土桃山時代後期)
旧社格・等級等 村社・十二等級
祭神 誉田別命(ほんだわけのみこと)
武内宿禰(たけうちのすくね)
王仁吉師(わにきし)
大山祇神(おおやまつみのかみ)
木之花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
アクセス 地下鉄東山線「一社駅」から徒歩約60分
名鉄瀬戸線「小幡駅」から徒歩33分
市バス/名鉄バス「猪子石原停留所」から徒歩約5分
駐車場 あり(無料)
その他 例祭 10月10日
オススメ度

『延喜式』神名帳(927年)の山田郡和爾良神社の論社のひとつ。
 他の論社は6社あり、和爾良神社(春日井市上条町)、朝宮神社(春日井市朝宮町)、両社宮神社(春日井市宮町)、天神社(春日井市牛山町)、神明社( 名古屋市名東区本郷)、景行天皇社(長久手市長湫宮脇)が候補として挙げられている。7社も論社がある式内社は名古屋ではこの神社だけだ。それだけよく分からないということを示している。すでに失われた可能性も高い。
 この猪子石原の和爾良神社の創建は1592年と境内の由緒書きにはある。この地にいた武内宿祢の子孫が建てたという。それが本当であれば、式内社の可能性はまったくない。
 論社のひとつ、名東区本郷にある神明社(藤森)が山田郡和爾良神社で、そこから1593年(文禄2年)に勧請して建てたと『猪高村誌』は書いているので、そのあたりが論社とされている理由のひとつかもしれない。
 春日井市内の論社4社については、春日井エリアが山田郡だったかどうかという郡境問題があり、にわかには信じがたい。
 そうなると残る候補は長久手市の景行天皇社ということになる。
 津田正生は『尾張国神社考』の中で【野部茂富曰】として、「今は愛智郡長久手村(もとは山田郡)に和爾坂とよぶ處あり、猶尋べし」と書いている。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書く。
「創建は明かではないが、社伝往古当村の首長は武内宿祢三代の孫で即ち斎庭の連らの祖であると後に宿祢の称を給うとあり。『和名抄』に尾張国山田郡原の里は縁由のある所で当神社を氏神として祀る。附近に古墳多くあり、社の伝来は神社より南の方石棺在り此の中に委細の伝来書あるという。『延喜式神名帳』に山田郡和示良名神とあり、『本国神名帳』に従三位和示良天神とある神社なり。明治5年7月、村社に列格し明治41年5月13日、字西ノ切1186番地無格社浅間社(境内266坪)と字欠ヶ下634番地無格社山神社(境内126坪)を本社に合祀した」

『愛知縣神社名鑑』(神社本庁)はこの猪子石原の和爾良神社を『延喜式』神名帳の山田郡和爾良神社とする立場のようだ。その根拠として石棺の中にこの地の首長が武内宿祢の子孫云々と書いた伝来書があるといっていて、それなら決まりとなりそうなのに実際にはそうなっていないというのはどういうことなのか。
 石棺というからには古墳なのだろうけど、名東区のこのあたりに古墳が多いという話は聞いたことがない。矢田川を越えた北には小幡古墳群があるけど、神社の南の方というと千種区の東山エリアで、ここからも古墳は見つかっていない。
「斎庭の連らの祖」というのもよく分からない。斎庭(ゆにわ)というのは、神祭りを行うために斎(い)み清めた場所のことで、「斎庭の連」というのは意味不明だ。

 明治9年(1876年)までにまとめられた式内社の注釈書『特選神名牒』はこう書いている。
「今按今愛知郡藤森村白山社の二十間許西に舊社とて俗にをねら。わねら。うにら。わにら。など云處あり又同郡長久手村三社の杜を和爾良社と云ひ春日井郡猪子石原村天神社を和爾良社なりと云傳ふ右の村々は何れも古へ山田郡ならむと云り又春日井原新田八幡の東方三町ばかりにわにしみづ。かにしみづ。と云地この社の舊趾にて則和爾良社なりと云へども是は正しく春日郡の地なれば従ひがたし」
 藤森神明社の西というのは藤森神明社の旧地とされるところで、猪子石原と長久手の論社を挙げてここは山田郡だから可能性はあるとしつつ、春日井市の神社は旧春日部郡(春日郡)なので違うだろうといっている。
 ここだと特定はしていない。

 猪子石原の和爾良神社と藤森の神明社は3キロほど離れている。この二社の関係がひとつ鍵を握っている。
 先ほど書いたように、名東区、千種区で古墳は見つかっていない。小さなものはあったかもしれないけど、大型の前方後円墳などは知られていない。ただ、このエリア一帯で1000基を超える窯跡が発見されている。時代としては古墳時代から鎌倉時代初期にかけてだ。
 名東区のほぼ全域と千種区東山一帯の窯跡を東山古窯群と呼んでいる。
 そこでは日用品としての土器だけでなく、古墳のための土器や須恵器などが焼かれていた。
 同じエリアから大量の鏃(やじり)や石斧などの石器類が見つかっていることから、縄文・弥生時代から人が暮らしていた土地だったことが分かっている。
 この地に古墳が築造されなかったことが逆に謎なのだけど、少なくともある時期、この地に陶工集団がいたことは確かで、彼らと関わりのある古い神社があっても不思議はない。

 和爾良の表記と読み方についてはいくつかあってはっきりしない。
 猪子石原の和爾良神社は『愛知縣神社名鑑』では「わにら」とルビを振っているから、神社本庁への登録がそうなっているということだろう。
 境内の由緒書きは和示良神社(かにらじんじゃ)としているけど、これは漢字も読み方も間違っている。
「爾」は音読みで「ジ」・「ニ」、訓読みでは「なんじ」・「そ」で、あなたとかそれとかいった意味の字で、使うとすれば「尓」を使って「和尓良神社」としなければいけない。
「わにら」なのか「かにら」なのかはわりと重要で、「わにら」だとすると和珥氏(わにうじ)が関わった可能性が出てくる。
「和邇」、「丸部」などとも書き、孝昭天皇の皇子、天足彦国押入命(あまたらしひこくにおしのみこと)を祖とする古代の中央豪族だ。
 2世紀頃に日本海側から大和に進出した一族とされ、5世紀から6世紀にかけて大和国添上郡和邇(天理市和爾町)を本拠として力を持っていた。
 鍛冶集団ともいい、朱を生産する一族だったともいう。
 その後、小野、柿本、春日、
粟田、和仁などに分かれたとされる。柿本人麻呂はこの一族だ。
 そのうちの一集団が陶工として尾張の地にやって来て焼き物を焼いていたという可能性は考えられる。和珥氏の祖の孝昭天皇の皇后は世襲足媛で、これは尾張連の祖・瀛津世襲の妹に当たることからしても無縁ではない。
 祭神の中に王仁吉師(わにきし)が入っているのも見逃せない。
『古事記』では和邇吉師と表記し、『日本書紀』などによれば、応神天皇の時代に百済から来た渡来人で、倭国に『論語』や『千字文』をもたらし、文章博士として朝廷に仕えたという。
 渡来の際に、冶工、醸酒人、呉服師も連れてきている。
 百済から来てはいても百済人ではなく百済経由で来た中国人だったともいわれる。
 吉師は海外使節の氏族の姓で個人名ではないので、そういった集団が来たということだ。
 この王仁吉師(和邇吉師)と和珥氏との関係は定かではないのだけど、同族とも考えられる。孝昭天皇の子孫は自称に過ぎないともされる。
 祭神として王仁吉師を祀るとしているということは、何らかの根拠があるということか。
 別の説として、菅原道真から社名が来ているというものがある。
 道真は土師氏(はじうじ)の出で、その祖は野見宿禰(のみのすくね)とされる。野見宿禰は垂仁天皇の陵墓に埴輪(はにわ)を納めたことで土師氏の性を賜ったという。
 そこから「ハジ」、「ハニワ」に和爾良を当てて社名としたというのだ。
 かつて神社に菅原道真像があったそうなのだけど、境内社としても天神社はなく、本社にも祀られていないところをみると、それは失われてしまっただろうか。
 和爾良の本来の読み方が「かにら」だとすると、由来はちょっと分からない。

 神社の由緒書きにある1592年創建説については何とも言えない。かなり唐突な話に思える。
 ただ、主祭神が武内宿祢だというのであれば、神社創建の根本的な部分なので無視はできない。
『古事記』、『日本書紀』によれば、武内宿祢は第8代孝元天皇の曽孫で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇の大臣を務めたとされる伝説上の人物だ。紀氏、巨勢氏、平群氏、葛城氏、蘇我氏はそれぞれ武内宿祢を祖としている。
 武内宿祢と猪子石原の和爾良神社がどう関わってくるかなのだけど、もとの祭神が武内宿祢だとすれば、式内の和爾良神社とは切り離して考えるべきなのかもしれない。
 江戸時代までは原の天神と呼ばれていて、和爾良神社を称したのは明治以降のことだ。

 江戸時代の書の猪子石原村(猪之越原村)の項を見るとそれぞれこうなっている。

『寛文村々覚書』(1670年頃)
「社三ヶ所 内 天神 富士 山神 社内弐反七畝歩 前々除」

『尾張徇行記』(1822年)
「庄屋書上ニ天神社内東西十五間南北三十間 浅間社内東西十二間南北二十六間 山神社内東西四間南北十二間共ニ御除地 又山神社内東西十間南北十一間年貢 何レモ勧請年紀不知」

『尾張志』(1844年)に猪子石原村の神社が見つけられない。
 和爾良神社については和爾土と表記することもあるとだけしかなく、どこの神社とも書いていない。ただ、藤森村の神明白山相殿社と長久手村の明神社の項で、それぞれ社人が和爾良神社と称する理由などを書いている。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、和爾良神社は猪子石原村の集落から外れた西の道沿いに位置していたことが分かる。周囲に樹林の記号があるので、鎮守の杜の中に社があったのだろう。
 集落の東には猪子石引山の集落が、西には猪子石新屋敷の集落があったことも見てとれる。
 猪子石村は香流川の南で、別の村だ。

 明治末の神社合祀政策を受けて、明治41年(1908年)に西ノ切にあった浅間神社と欠下にあった山神社を合祀した。

『延喜式』神名帳の和爾良神社が論社の中のどこの神社だったかも気になるところではあるのだけど、どういう集団がどんな神を祀る神社として建てたかの方が重要な問題だ。本当に王仁吉師(和邇吉師)と和珥氏に関係があるのかどうか。この地にいた陶工集団が神社と関わっているのかいないのか。
「ワニラ」の「ラ」は何を意味しているのかも引っかかっている。和爾神社ではなく和爾良神社としたのにも必ず意味があったはずだ。
 庄内川沿岸勢力が前方後円墳を築いたのに対して矢田川沿岸の勢力はそれをしなかったということは、やはり別の勢力と考えるべきなのだろう。
 名東区にいた集団がどういう一族だったのかを知らないと、名東区の神社についても見えてこない。

 

作成日 2017.2.8(最終更新日 2019.1.26)

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