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牛毛神社

牛毛村で牛頭天王を祀った天王社

牛毛神社入り口

読み方 うしげ-じんじゃ
所在地 名古屋市南区元鳴尾町218 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 指定村社・十三等級
祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)
誉田別尊(ほんだわけのみこと)
アクセス 名鉄常滑線「本星﨑駅」から徒歩約30分
JR東海道本線「大高駅」から徒歩約30分
駐車場 なし
その他 例祭 11月8日(10月第2日曜日?)
オススメ度

 牛毛神社とはまた変わった名前だ。牛の毛が何か関係あるのだろうかという素朴な問いが浮かぶ。
 実はそうではなくて、かつてここが牛毛村だったことが神社名の由来となっている。
 じゃあ、村名の由来が牛の毛かといえばそうでもないようで、津田正生『尾張国地名考』にこうある。
「牛毛は正字 海潮池の釣るなるべし」
 海潮池は「うしおいけ」か「うみしおいけ」だろうけど、それを略したものという説だ。現在の神社名は「うしげ」となっているけど、江戸期の村名は「うしけ」だったようだ。
 それにしても、何故、牛毛などという字を当てたのだろう。
 現在の地名は元鳴尾となっている。西隣には鳴尾がある。
 さかのぼるとかつては海だったところだ。鳴海の地名が海鳴から来ているように、鳴尾の地名も鳴海の尾から来ているのだろう。
 くさび形をした笠寺台地の南で、天白川が運んできた砂によってできた砂洲だ。時代が進むにつれて土地が広がり、集落が出来、江戸時代に新田開発が行われた。
 鳴尾村は明治9年(1876年)に、牛毛荒井村や鳴海伝馬新田、源兵衛新田などが合併して誕生した村で、村名としては古いものではない。ただ、鳴尾の地名自体はけっこう古いかもしれない。
 牛毛荒井村について津田正生は『尾張国地名考』の中でこう書いている。
「【箕浦賢屯曰】牛毛と新井は二村なり 文化年間より官府にては一串に牛毛新井とよぶ
【正生考】新井は天白川と鳴海宿の扇川とを堀わるに付て呼る名にや猶尋ぬべし」
 牛毛村と荒井村は合体してひとつの村扱いされていて、荒井村は新井村とも表記したことが分かる。
 荒井村の氏神が若宮八幡社(元鳴尾町)で、牛毛村の氏神がこの牛毛神社だった。

『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「古くて創建は明かではない。『尾張志』に天王社、牛毛むらにあり、牛頭天王社と称せし頃の地名今に残る。明治5年7月、村社に列格し、明治40年10月26日、供進指定社となる」
『寛文村々覚書』(1670年頃)の牛毛荒井村の項に、「社弐ヶ所内 天王 八幡 当村祢宜 喜大夫持分 社内五畝拾歩 前々除」とある。
 前々除ということは1608年の備前検地以前からあったということだ。
 境内の由緒書きには文政5年(1823年)創建とあるけど、それはちょっとないだろう。この年に何かあったとすれば、遷座か修造だったのではないか。
 由緒書きによると、牛毛海岸に毎年のように津島天王社(津島神社/web)の神符が流れ着いたため、これは神意に違いないということで村人たちが村の守り神として牛頭天王を祀ったという。
 ここは天白川と扇川の合流地点近くで、津島市の津島神社とはまったく関係がないので単なる作り話だろうと思いつつ、関係がありそうな話が引っかかった。
 牛毛村の村民は農業を中心としながら平田船という独自の船で漁もしており、万場の渡しや津島天王祭の船役を務めることがあったというものだ。
 平田船というのは、底が平らで細長い格好をしていて、浅瀬でも航行できるという特徴がある。
 尾張津島天王祭は500年以上の歴史を持つ尾張を代表する祭りのひとつで、たくさんの提灯を付けた何艘もの巻藁舟(まきわらぶね)を天王川に浮かべて漕ぎ渡るというものだ。信長、秀吉も見たとされる。
 その祭りに牛毛村の船を使ったというのであれば、津島から牛頭天王を勧請して村に天王社を建てたというのもごく自然なことといえる。
 あるいは、いつの頃か村で疫病が流行って、津島天王社から牛頭天王を勧請したということかもしれない。
 一度か二度くらい、村人が海岸で津島天王社のお札を拾ったことあって、そこから由緒の物語が作られたというのはありそうな話だ。

 神社の横を流れる天白川は、もうだいぶ河口に近く、わずかに潮の香りがした。
 牛毛海岸だった頃の面影はまったくないけれど、神社に伝わる話にその風景を思い浮かべることができるような気がした。

 

作成日 2017.5.5(最終更新日 2019.8.11)

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