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白山神社(小幡)

バラバラのピースが上手くはまらない

小幡白山神社鳥居と境内

読み方 はくさん-じんじゃ(おばた)
所在地 名古屋市守山区小幡中1丁目13-8 地図
創建年 伝・600年頃(飛鳥時代前期)
旧社格・等級等 指定村社・五等級
祭神 伊邪那美命(いざなみのみこと)
天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
大己尊命(おおなむちのみこと)
火具土命(かぐつちのみこと)
大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと)
天照大神(あまてらすおおみかみ)
豊受姫命(とようけひめのみこと)
建御名方命(たけみなかたのみこと)
アクセス 名鉄瀬戸線「小幡駅」から徒歩約10分
駐車場 あり
その他 例祭 10月17日
オススメ度

 守山区には白山神社が3社ある。それぞれを区別するために地名を頭に付けて小幡白山神社、市場白山神社西城白山神社と読んでいる(牛牧にも白山神社の参集殿があるようだけど一般的な神社とは違うようなので勘定に入れない)。
 いつの時代か、このあたり一帯で白山信仰が流行ったことがあったのだろう。ただし、これらすべてが最初から白山神社だったとは限らない。

 小幡白山神社は、名鉄瀬戸線小幡駅からほど近い瀬戸街道沿いを少し北へ入ったところにある。
 瀬戸街道は江戸時代には水野街道と呼ばれていた。尾張藩初代藩主の義直が鷹狩りをするため瀬戸の水野方面に向かう使う道として整備された。その途中、大森村で桶を担いだ力持ちの農家の娘を見初めて側室とし、生まれた子供が二代藩主・光友になった(実際は大森出身の女中だったという)。
 義直の遺言で瀬戸の定光寺(web / 地図)に埋葬されたため、尾張藩の歴代藩主がこの道を通って瀬戸へ通った。そこから殿様街道とも呼ばれるようになった。
 それ以前に小幡というのは早くから開けた土地だった。北の庄内川と南の矢田川に挟まれた台地で、古代、すぐ西側は入り海だった。
 神社の北800メートルほどのところで牛牧遺跡(地図)と呼ばれる縄文時代の集落跡が見つかっている。出土品から古墳時代まで長く使われた集落だったことが分かっている。
  西600メートルほどのところにある瓢箪山古墳(地図)は5世紀末から6世紀初頭に造られた大型の前方後円墳で、西2キロほどのところには4世紀後半とされる100メートル級の守山白山古墳(地図)がある。
 小幡白山神社は小幡南島古墳と呼ばれる直径33メートルの円墳の上に乗っている。築造されたのは6世紀頃というだけで詳しいことは分かっていない。
 小幡には古くから人が住み、大型の前方後円墳を造れるだけの権力を持った豪族がいたことを意味する。出土品からヤマト王権とつながっていたことも指摘されている。古い神社の一つや二つあっても当然といえば当然だ。
 ただ、小幡白山神社についてはやや複雑な経緯があり、分からないことが多い。

 明治43年(1910年)に、東城にあった白山神社、常燈の神明社、北屋敷の諏訪社を、現在の場所にあった愛宕社のところに持ってきて合祀し、名称を白山神社とした。
 神社合祀政策の勅令が出たのが明治39年(1906年)のことで、これによって小さな神社は軒並み合祀されて一気に数を激減させることになる。小幡村の神社合祀もそれを受けてのものだったと思われる。
 社格の問題として、旧・白山神社は明治5年(1872年)に村社になっているのに、どうして無格社の愛宕神社のところに持ってきたのかがちょっと分からない。旧・白山神社があった東城というのがどういう場所だったのかは不明なのだけど、敷地の問題として愛宕社のあった場所の方が適当という判断だったのだろうか。

 旧・白山社にはこんな伝承が伝わっている。
 平安時代前期の815年に編さんされた古代氏族名鑑の『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』によると、600年頃に欽明天皇の皇子・小墾田王(おはるだおう)がこの地にやって来て神社を創建した、というものだ。神社の由緒書きでもそう紹介している。
 ただ、『愛知縣神社名鑑』の説明は少し違っている。
「欽明天皇の皇子の小墾田王がこの地に住んでいたので、村名を小治田といっていたのが、縮まって小幡になった。そして、小墾田王の子孫を産土神として祀ったと伝える」
 もしそれが本当であれば、最初は白山社ではなかったはずだし、祭神として小墾田王もしくはその祖神などを祀るのが筋だ。しかし、現在の祭神の中にそれを思わせる神は入っていない。

『尾張志』(1844年)にはこうある。
「小幡むらにありて白山愛宕八幡を合せ祭る」
 江戸時代後期の時点ですでに白山と愛宕と八幡をあわせ祀るとあるのはどう理解したいいのだろう。明治43年まで東城にあった白山社はこれとは別なのか。
 張州府志(『尾張志』の前に編まれた藩史)には神名帳の多奈波太神社ではないかとしているけどそれは違うと言い、
「当村には松林多し 村民小社を建てて鎮守とし皆山神と号している むかし小治田の連等が住みし里なれば其祖神を祭りし古社なるへし」としている。
 江戸時代の村人が松林の中に小さな祠を建てて山神として祀っていたという祠こそ小墾田王の末裔の小治田連が祖神を祀ったものという理解だったようだ。これは白山愛宕八幡とは別の社ということだろうか。

 小墾田王というのは欽明天皇の系図にはない名前だ。しかしながら、小治田連と称する有力豪族が小幡にいた可能性は考えられる。
 欽明天皇の在位が539(531)-571年ということを考えると、欽明天皇の皇子が600年頃この地にやって来たというのは無理がありそうだ。欽明天皇が何歳で崩御したのかは分からないのだけど、その30年後というのは時期的に遅すぎるように思う。
 6世紀前後に築造されたとされる古墳も小墾田王やその一族のものではないということになる。小幡一帯の古墳が尾張氏のものなのか別の勢力のものなのかは何とも言えない。当然ながら志段味古墳群とあわせて考えなければならない問題だ。
 そもそも小墾田王が本当に実在したのかという話なのだけど、それが間違いとなると話が進まないので、とりあえずそこはいたという前提にしておく。
 だとして、小墾田王や小治田連が白山の神を祀る理由があるかといえば、それはたぶんない。一族の祖神を祀るのが自然だ。
 ではいつ白山社となったのかだけど、これはもう分からない。推測することも難しい。
 創建時期についても不明としか言いようがない。白山社の元になる神社ということでいえば600年頃というのもなくはないか。

 小治田/小墾田についてもう少し考えてみる。
『日本書紀』(720年)の中で小墾田宮(おはりだのみや)が出てくる。豊浦宮(とゆらのみや)で即位した推古天皇は603年に新宮として小墾田宮を造営して居を移したとある。
 小墾田はあらたに開墾した田、新しい土地という意味の言葉でもある。尾張(ヲハリ)の地名は小墾(ヲハリ)から来ているとする説もある。
 津田正生は『尾張国神社考』の中で小幡は尾張戸が縮まったものだといっている。
 推古天皇は欽明天皇の皇女で、小墾田王が実在したとすれば異母兄弟ということになる。在位が593-628年なので、小墾田王が小幡に来たという時期と重なる。
 あるいは小治田氏という観点から見ると、欽明天皇の時代に小治田の鮎田を開墾した功績を認められて小治田連の姓を賜った一族がいた。こちらも時代的には合う。この小治田氏は石上と同じ祖で、つまり物部一族ということになる。
『続日本紀』(797年)では、尾張山田郡人の小治田連薬ら8人に尾張宿禰の姓が与えられたという記事もある。
 はっきりしたことは分からないまでも、小幡に小墾田(小治田)の影が見え隠れすることは確かだ。

 元からこの場所にあった愛宕社に関して詳しいことは伝わっていない。名古屋は愛宕社が少ない土地なので気になる存在ではある。
 古墳と無関係とは思えないけど、古墳の上に乗っていたのかいなかったのかによっても多少意味は違ってくる。
 いつ頃から古墳の上に社を祀ることが行われるようになったのだろう。
 本来、神社は死を穢れ(ケガレ)として嫌うのに、人の墓の上に神社を建てるという発想はなかったのではないか。
 古墳は墓であると同時に祭祀の場でもあった。そういうことでいえば、祭祀の場に社を建てて祀るということは不自然ではないのかもしれないけど、それにしてもかなり時代が下ってからではないかと思う。平安、もしくは鎌倉時代以降かもしれない。

 祭神については合祀の関係でやや混乱が生じているようだ。
 神社にある由緒書きではイザナミ(伊邪那美命)、カグツチ(火具土命)、ククリヒメ(菊理媛命)、アマテラス(天照大皇神)、タケミナカタ(建御名方命)になっているのに対して、『愛知縣神社名鑑』では、イザナミ、アメノオシホミミ(天忍穂耳命)、オオナムチ(大己尊命)、カグツチ、オオヒルメノムチ、アマテラス、トヨウケヒメ、タケミナカタになっている。
 諏訪社、神明社、愛宕社を合祀したから、タケミナカタとアマテラス、トヨウケヒメ、カグツチは問題ないので横に置いておく(愛宕社の祭神は本来、愛宕権現で、火産霊(ホムスビ)を祀るとしていたはずだけど、明治の合祀以降はカグツチになってしまったようだ)。
『愛知縣神社名鑑』は神社本庁への登録を元にしているはずなので、そちらの方が正しいことが多い。たまに間違いもあるけれど、この場合、白山神であるククリヒメが抜け落ちて、アメノオシホミミが入っているのがポイントだ。
 白山神社の総本社は加賀国一宮(石川県)の白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ/web)で、主祭神をククリヒメ(白山比咩大神)として、イザナギ、イザナミと一緒に祀っている。これが全国の白山神社の基本形ともなっている。
 それとは別に白山信仰というものがある。
 717年に泰澄(たいちょう)が白山に登り、妙理大菩薩を感得して平泉寺(へいせんじ/web)を建立したことに始まる。
 その後、白山信仰は神仏習合の歴史を辿り、明治の神仏分離令によって廃寺になったり無理矢理神社にさせられたりした。平泉寺も神社にさせられたパターンで、平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ)として現在も続いている。
 この祭神がイザナミ(伊奘冊尊)であり、左右にアメノオシホミミ(天忍穂耳尊)とオオナムチ(大己貴尊)を祀っている。
 つまりは、旧・白山神社は神道系の白山神社ではなく仏教系の白山神社から勧請したことを意味する。神社の由緒書きにククリヒメが入れられているのは、白山神社なのにククリヒメがいないのはおかしいということで後から付け加えたからではないだろうか。

 明治43年(1910年)に移された東城の白山神社、常燈の神明社、北屋敷の諏訪社のそれぞれの位置が知りたいところなのだけど、今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ても確認できない。
 現在の三菱電機新守山寮になっているところにひとつ鳥居マークが描かれている。これが生玉稲荷神社でないとすると、東城の白山神社があったのはここかもしれない。その少し北西に西城の白山神社がある。
 北屋敷は生玉稲荷神社の西に北屋敷公園があるので、そのあたりだったのだろう。
 常燈は白山神社の南東に小幡常燈という町名(地図)が残っているから(平成6年に字常燈の全域と字宮ノ腰の一部により成立)、かつてはそこに神明社があったようだ。
 何故、古墳がある場所に愛宕社だったのかも謎として残った。
 今の白山神社が乗っている小幡南島古墳には誰が葬られているのか。
 バラバラに散らばったピースが上手くはまらない感じだ。

 

作成日 2017.3.26(最終更新日 2021.12.18)

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