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七所社(千音寺稲屋)


社殿がカッコイイけどよく分からない七所社



千音寺稲屋七所社

読み方ひちしょ-しゃ(せんのんじ-いなや)
所在地名古屋市中川区富田町大字千音寺稲屋4157番地 地図
創建年不明
旧社格・等級等村社・十四等級
祭神日本武尊(やまとたけるのみこと)
若帯日子尊(わかたらしひこのすめらのみこと)
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
軻遇突智神(かぐつちのかみ)
宇迦御魂尊(うかのみたまのみこと)
宮酢姫命(みやすひめのみこと)
乎止与命(おとよのみこと)
アクセスJR関西本線「春田駅」から徒歩約50分
駐車場 なし
その他例祭 10月9日
オススメ度

 中川区の北西端、海部郡大治町との境界近く、旧佐屋街道沿いの南側に神社はあり、入り口は東側で社殿は東を向いている。
 今昔マップ(1888-1898年)を見ると、かつては神社入り口は北の街道側にしかなかったようだ。集落からは少し外れている。
 このあたりは住所にまだ大字(おおあざ)が残っていて、ここは富田町大字千音寺稲屋になる。
 稲屋という地名がいつからあったかは調べがつかなかった。江戸時代は千音寺村(せんのんじむら)といっており、以前は赤星村といったという話もある。
 津田正生は『尾張国地名考』の中で、今(江戸後期)はすでにないけどかつてあった千音寺という寺が地名の由来ではないかとしている。
『なごやの町名』は、聖武天皇勅願寺とされる行雲寺の別名が千手観音寺だったからそこから来ているのではないかという『富田のあゆみ』の説を紹介している。
 平安時代後期の11世紀には富田荘(荘園)が成立し、その支配権は後に北条家から鎌倉の円覚寺(えんがくじ/web)に移った。
『愛知縣神社名鑑』にこうある。
「この地富田の荘は弘安四年(1281)より鎌倉円覚寺の寺領となり二百有余年の間、国司親ら祭祀を行ったという。稲屋の鎮守の神として崇敬ふかく、明治5年、村社に列格する。明治24年、社殿を改築する」



 神社の北を通っている佐屋街道は、尾張藩初代藩主の徳川義直が1634年に開いたとされる。
 その後、東海道の脇街道として多くの人たちが利用することになるのだけど、日本武尊(ヤマトタケル)の伝承が残ることからも元になる道はかなり古くからあったと考えられる。
 佐屋街道沿いに残る3つの七所社がいずれも古い時代の創建とされるのもひとつの証となるのではないか。
『延喜式』神名帳(927年)にある御田神社ともいわれる岩塚の七所社地図)を西に進み、庄内川を万場の渡しで渡ってしばらく行くと国玉神社地図)がある。この神社も式内社とされている。
 佐屋街道はそこから進路を北西に変え、新川を渡って北上した右手に大治町の七所神社(地図)がある(今は十二所神社と合併している)。
 そこから西に進み、ほどなくして左手に千音寺稲屋の七所社(地図)がある。
 その後、佐屋街道は大治町をかすめ、七宝町に入り、津島市神守を通って佐屋方面へと向かう。大治町西條には八劔社(地図)がある。
 3つの七所社がたまたま佐屋街道沿いの近い場所に建てられたとは思えない。
 では七所社とはどんな神社かというと、それがよく分からない。



 祭神の顔ぶれからして、熱田神宮(web)と関係がありそうではある。
 岩塚七所社は、もともと熱田社の神田があったところに御田神社を建てて、そこにあとから熱田の七社の神を勧請して祀ったとしている。
 大治町の七所神社は十二所神社と合体していることもあって創建のいきさつはよく分からない。
 ここ千音寺稲屋の七所社は富田荘だったことと関係があるのかどうなのか。
 熱田社関連と断定できない理由は、祭神が必ずしも熱田の神というわけではなく、それぞれの七所社が異なっている点にある。
 岩塚七所社は、日本武尊、天照大神、倉稲魂命、天忍穂耳尊、高倉下命、宮簀姫命、乎止與命。
 中川区千音寺稲屋の七所社は、日本武尊、若帯日子尊、素盞嗚尊、軻遇突智神、宇迦御魂尊、宮酢姫命、乎止与命。
 大治町の七所社は不明。
 ちなみに、少し離れた
中川区伏屋の七所神社は、日本武尊、足仲彦命、乎止与命、稲依別命、宮酢姫命、迦具土神、草薙御劔御霊となっている。
 それぞれの祭神が違っているのは、創建のいきさつが違うからだろうか。
 千音寺稲屋についていえば、熱田社関連なのかヤマトタケル関連なのかはっきりしない。 若帯日子尊(ワカタラシヒコ)は成務天皇のことで、ヤマトタケルから見て異母弟に当たる。
 この七所社も、伏屋の七所神社と同様に「ひちしょ」とフリガナを振っている。「しちしょ」ではなく「ひちしょ」としたことに何か意味があるのだろうか。



『寛文村々覚書』(1670年頃)の千音寺村の項を見るとこうなっている。
「社三ヶ所 内 神明 大明神 天神 中郷村祢宜 孫大夫持分」
 大明神はおそらく赤星神社のことで、天神は天神社(千音寺)のことだろう。神明社は今の千音寺にないから、この神明が七所社のことかもしれないけど判断がつかない。
『尾張徇行記』(1822年)も「神明社 大明神社 天神社」としている。
 ただ、「赤星大明神内一反前々除、外ニ社領上田三畝備前検除、此社勧請ノ年暦ハシレサル由 天神社内三畝前々除、七所大明神社内二反八畝二十一歩前々除、外ニ社領上田三畝備前検、除田二反村除、此二社勧請ノ年暦モ不知由」と、七所大明神が載っている。後ろの方の文章では神明について書かれていないので、七所社は神明社と呼ばれていた可能性は残る。
『尾張志』では赤星神社以外の千音寺村の神社を見つけられなかった。
『愛知縣神社名鑑』がいうように、鎌倉時代は国司が自らが祭祀を行ったというのであれば、古くて格式のある神社ということになりそうだけど、鎌倉時代は幕府が派遣した地頭が荘園を支配していたから、国司が荘園内の神社祭祀を担うことができたかどうか、やや疑問が残る。



 ここは社殿がなかなか素晴らしい。『愛知縣神社名鑑』に「明治24年、社殿を改築する」とあるから、その当時のものだろうか。
 拝殿と弊殿を朱塗りの橋で結ぶという変わったスタイルで、本殿の柱に凝った龍などの彫刻が施されている。



 名古屋市内だけでなく佐屋街道沿いの神社という広い視点で見なければ街道沿いの神社は理解できないかもしれない。大治町の七所社についてももう少し調べてみないと関連が見えない。
 七所社とは何かという根本的な部分も含めて、引き続き調査することになる。




作成日 2017.6.18(最終更新日 2019.6.1)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

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