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日置神社

日置部か大山守か

日置神社境内と社殿

読み方 ひおき-じんじゃ
所在地 名古屋市中区橘1丁目3-21 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 郷社・八等級・式内社
祭神 天太玉命(あめのふとだまのみこと)
品陀和気命(ほむだわけのみこと)
天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
アクセス 地下鉄鶴舞線「大須観音駅」から徒歩約12分
地下鉄名城線「上前津駅」から徒歩約13分
駐車場 なし
電話番号 052-321-5241
その他 例祭 10月15日
オススメ度 **

『延喜式』神名帳(927年)の愛智郡日置神社とされる神社。
『延喜式』神名帳に載っている日置神社は、尾張以外に信濃、近江、若狭、加賀、越中、但馬にもある。
 日置は”ヒヲキ”または”ヘキ”と読ませる。日置の由来には諸説あり、はっきりしたことは分からない。
 日招きや日読みから転じたとする柳田国男や折口信夫の説、戸置という意味で民戸をつかさどるとする伴信友説、日にまつわる祭祀に関わる一族という説などがある。
 大和国葛上郡日置郷の他、各地に日置郷があった。
 日置部の部というのはヤマト王権における部民制(べみんせい)のことだ。特定の職業・技能集団をいう場合と、王族や豪族に従う一族をいう場合がある。
 今でも使うことがある語部(かたりべ)などもそうで、陶器を焼く一族なら陶部(すえべ)、錦の織物を織る一族なら錦織部(にしこりべ)というようにたくさんの部民があった。物部も本来は物(モノ)の部民ことで、モノは神であり鬼を意味した。
 一方、豪族に従う一族には、大伴部、蘇我部、尾張部などがいた。
 日置部については、はっきりしたことは分からないのだけど、祭祀を司った一族ということはいえそうだ。日を読むことから暦を作ったとか、日は火に通じることから鍛冶や土器作りを行ったともいう。

 名古屋の日置神社は『延喜式』神名帳にある愛智郡日置神社ではないと主張する説は聞かない。おそらく間違いないのだろう。
『尾張國内神名帳』では従三位としているものと従一位としているものがあり、従一位だとすればかなり高位の神社だったということになる。
 古代このあたりに日置部の一族が暮らしていて祖神を祀り、やがて日置荘にもなったというのが通説として語られる。
 しかし、個人的には少し違うのではないかと思っている。

 明治9年(1876年)に完成した『延喜式』神名帳の解説書、『特選神名牒』はこう書いている。
「日置神社(ヘキノ) 祭神 應神天皇 今按姓氏録に日置朝臣應神天皇々子大山守王之後也古事記(應神巻)に大山守命者幣岐君等之祖とあれば實は大山守を祭れるに應神天皇を配享せしが後に八幡と云るより主客をとりたがへて大山守命の御名はかくれ玉へるものなるべき姑附て後考に備ふ」

 現在の祭神は天太玉命(アメノフトダマ)となっているのだけど、これは明治以降のことで、江戸時代は日置八幡と称して應神天皇を祀っていた。
 ただ、『尾張志』(1844年)、『尾張名所図会』(1844年)はいずれも『延喜式』神名帳の愛智郡日置神社としているので、その認識はあったということだ。
『尾張名所図会』は日置朝臣が祖神として應神天皇を祀ったのではないかとしている。
『新撰姓氏録』は815年に完成した古代の氏族名鑑で、京と畿内に住む1182氏を出自によって皇別、神別、諸蕃に分類して紹介している。
 その中で日置朝臣は右京皇別として載っている。應神天皇の子の大山守を祖とするのが幣岐君、土形君、榛原君などで、日置は幣岐君のことだという。日置は本来、「ヘキ」ということだ。

 大山守(オオヤマモリ)は應神天皇の子で、大鷦鷯尊(オオサザキ/のちの仁徳天皇)や菟道稚郎子(ウヂノワキイラツコ)の異母兄に当たる。
 應神天皇は菟道稚郎子がお気に入りで、次の天皇とすべく菟道稚郎子を皇太子にしていた。しかし、年長である自分が選ばれなかったことを恨んだ大山守は、應神天皇が崩御すると菟道稚郎子を殺そうと企んだ。それが大鷦鷯尊に知られることとなり、菟道稚郎子と大鷦鷯尊の計略で菟道川(うじがわ/宇治川)を渡っているときに舟を転覆させられ逆に殺されたと記紀はいう。
 大山守の遺骸は考羅済(かわらのわたり)で見つかり、引き揚げられて那羅山(ならやま)に葬られたという。那羅山墓は奈良県奈良市に現存している。
 その後、菟道稚郎子と大鷦鷯尊の間でもいろいろモメて3年の間、天皇位が空白になってしまう。結果的に菟道稚郎子が死に、大鷦鷯尊が仁徳天皇として即位したというのが記紀が伝える物語だ。
 大山守の一族は各地に散らばり、土形君(ひじかたのきみ)や榛原君(はいばらのきみ)、幣岐君(へきのきみ)となったとされる。
 それらのうち、尾張にやって来たのが日置朝臣の後裔で、この地で祖神の大山守を祀ったのが日置神社だったということになるだろうか。
 これは想像であり、ひとつの可能性でしかないのだけど、古代に日置部が置かれたという話よりは現実味がありそうだ。

 ついでに天太玉命(アメノフトダマ)について少しだけ触れておく。
 アメノフトダマは、天照大神(アマテラス)が天岩戸(あめのいわと)に隠れてしまったとき、出てきてもらうための策を練るため天児屋命(アメノコヤネ)とともに占い(太占/ふとまに)をしたとされる神だ。
 一説では高皇産霊尊(タカミムスビ)の子ともされ、天孫降臨のニニギに随伴して地上に降り、アメノコヤネと一緒にアマテラスの神殿を守る役割を与えられたともいう。
 古代氏族の忌部氏(いんべうじ/のち斎部氏)の氏神とされる。
 明治になって正式に日置八幡を『延喜式』神名帳の日置神社にしようとなったとき、どうしてアメノフトダマにしてしまったのかはよく分からない。大山守は反逆の皇子ということで祭神にすることがはばかられたのか、単純に歳月の中で大山守が本来の祭神だったことが忘れ去られてしまっただけなのか。
 アメノフトダマは古代の尾張氏・海部氏と関係が深いという話もあるので、ここでアメノフトダマを祀ることに何かいわれがあるのかもしれない。

 境内の説明書きに、鎌倉時代あたりに山城国男山より八幡大神を勧請して合祀したとある。男山八幡は石清水八幡宮(web)のことだ。
 この頃はまだ大山守を祀るという認識だったのかどうかは分からない。鎌倉時代の石清水八幡の祭神は八幡神だっただろうけど、それが應神天皇とイコールという意識だったかどうか。
 いずれにしても合祀したということは本来祀っていた祭神があったということだ。時代が進むにつれて應神天皇が主になって八幡と呼ばれるようになったのだろう。

 1560年、桶狭間の戦いに向かう信長は、夜明け前に清洲城(web)を出て、美濃路沿いを馬で駆け、まず榎白山神社で戦勝祈願をした後、この日置八幡にも立ち寄り、戦勝祈願をして「敦盛」を舞ったとされている。
 すぐ南には父・信秀が築城した古渡城(今の東別院/web)があり、信長は古渡城で元服しているので、日置八幡も馴染みだったに違いない。
 信長が清洲城を出たのが夜明け前の午前4時くらいだったといわれている。熱田社(熱田神宮/web)に着いたのが午前8時。美濃路を真っ直ぐ行けば13キロほどで、自転車を普通に漕いでも1時間ちょっとで行ける距離だ。それを信長は馬に乗って4時間もかけている。途中で何をしていたかといえば、あちこちに立ち寄って戦勝祈願をしている。もちろん、味方の合流を待つとか、戦況を見極めるとかもあっただろうけど、それにしてはのんびりしている。すでに清洲を出たときには信長の頭の中に勝利の方程式ができあがっていたのではないだろうか。
 榎白山神社で戦勝祈願をしたのは、織田家の守り神がどうやら白山神だったらしいことと関係がありそうだ。熱田の宮には草薙剣があるし、地理的にも味方と合流するのにちょうどいい。
 日置神社は馴染みがあったという以外にも男山八幡から八幡神を勧請して祀る八幡社だったこともあったかもしれない。
 源頼朝は上洛した際、男山八幡と若宮八幡宮の二社で参拝を行っている。信長もそのことを知っていてあやかろうという気持ちがあっただろうか。
 それと、平安時代から戦国時代にかけてここが日置荘と呼ばれる荘園で、日置城があり、城主は織田家の寛定もしくは忠寛だったのも無関係ではなさそうだ。
 日置流(へきりゅう)と呼ばれる古い弓道の一派も信長に従っていたとされるから、その関係があったということも充分に考えられる。
 戦いに勝ったお礼として、神領に多くの松を贈ったとされ、以降、千本松八幡などと呼ばれるようになる。
 近くの松原の地名は、この千本松が由来だ。

 地名ということでいうと、ここは中区橘(たちばな)だ。
 橘の地名は尾張藩二代藩主の光友が名付け親とするのが通説となっている。名古屋城下時代、このあたりに古着を扱う商人が多く住んでいたことから『古今集』の「さつきまつ花たちばなのかをかげば昔の人の袖のかぞする」にちなんで名づけたとする。
 しかし、この場所が古代から日置朝臣もしくは日置部にまつわる土地だとすると橘の地名は古いかもしれない。
 イザナギはイザナミを迎えにいった黄泉の国で変わり果てたイザナミの姿を見て逃げ出し、「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊ぎをしたと日本神話はいう。
 一般的にこれは九州の博多湾とされているのだけど、日向も橘も小門も阿波岐原も、固有の地名ではなくもっと象徴的な意味なのかもしれない。
 橘でもうひとつ思い出すのは、田道間守(たじまもり)のことだ。
 第11代垂仁天皇(崇神天皇の子で景行天皇の父)に不老長寿の霊薬を探してくるように言いつかった田道間守は、ようやくの思いで非時香木実(ときじくのかくのこのみ)を見つけて持ち帰ったところ、垂仁天皇はすでに崩御していたという話で、非時香木実は橘のことだったとされる。
 実は熱田社神官の田嶋家は田道間守の末裔という話があり、熱田はかつて不老不死の神仙の住む蓬莱島と呼ばれたことからすると、何か関わりがあったとも考えられる。
 日置、垂仁天皇、尾張との絡みでいうと、葛城の鴨氏が阿治須岐託彦根(アジスキタカヒコネ)を祀るのに対して、日置氏はこの神の妻・阿麻乃弥加都比女(アマノミカツヒメ)を祀ると『尾張国風土記』逸文にある。
 垂仁天皇の子の品津別皇子(ホムツワケ)は7歳になっても言葉が話せず、皇后の夢に阿麻乃弥加都比女が現れて、自分にはまだ祝(ほふり)がいないので自分を祀ってほしい、そうしたら品津別は口がきけるようになるだろうと告げた。
 そこで垂仁天皇は日置部の祖の建岡君にその神を探すように命じ、建岡君は美濃国の花鹿山に行って榊で鬘(かずら/髪飾り)を作ってうけい(誓約)をし、その鬘が飛んでいった尾張国丹羽郡で祀ったのが阿豆良神社(一宮市あづら)だという。花鹿山の花長上神社と阿豆良神社はともに式内社で、天甕津日女命を祀っている。
 これらの話は名古屋の日置神社と直接関係はないのかもしれないけど、間接的に絡んでいるかもしれない。
 日置神社がある場所は、熱田台地の中央部で、古渡の北、前津小林の南に当たる。
 松原町遺跡、旅籠町遺跡岩井通貝塚などの存在が知られていることから、弥生時代にはすでに人が暮らす場所だったのは間違いない(これらの遺跡は調査が行われていないため詳しいことは分かっていない)。
 江戸時代に名古屋城ができて、城下町が上書きしてしまったので余計に分からなくなってしまった。
 日置神社に関しても、日置朝臣が大山守を祀るために建てたといった単純なものではなかったかもしれない。

 千本松原は明治29年(1896年)に最後の一本が枯れてもう残っていない。
 明治42年(1909年)に神社北西にあった神明社を合祀した。祭神に天照大神が入っているのはそのためだ。
 社殿は第二次大戦の空襲で焼けてしまった。
 祭神から大山守の名前が消え、八幡だったのも過去の話だ。
 今の日置神社に残ったものは何なのか。
 何か言いたげな感じも受けるのだけど、神社は黙して語らない。我々は声なき声に耳を傾けるべきなのだろうか。

 

作成日 2017.3.5(最終更新日 2022.9.16)

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