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歴史を知るということ

 二周目の直しは、中村区の諏訪社(諏訪町)神明社(稲葉地町)

 昨日途中だった諏訪社(諏訪町)を仕上げた。
 結局、いつ誰が建てたのかは分からないのだけど、一周目よりは手がかりも掴めて、内容的には少し深まった。現状分かるのはここまでだ。

 林順治『「日本書紀」集中講義 天武・持統・藤原不比等を語る』を読む。
 ひと言で言うと、非常によろしくない。内容以前の問題だ。
 歴史の中心というのは非常に特殊な状況で、ある意味では特別な人間たちが特異な論理で作りだしているものなので、一般人の常識的な論理では決して解き明かせるものではない。分かったと思った瞬間に罠に落ちて真実から遙か遠くに飛ばされてしまう。
 歴史を学ぶ者は常に謙虚でなければならない。謙虚さとは何かといえば、結局のところ本当に何があったかは分からないということを認識するということだ。
 歴史は調べたり考えたりして分かるものではなく、教えられるもの、もしくは知らされるものだ。それでしか知りようがない。
 知らされるということがどういうことか分かる人は知らされる人だし、どういうことか分からなければ残念ながら知らされない人ということになる。
 謙虚さを持たない歴史家はただの空想家でしかない。

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