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稲荷神社(大松町)

江戸から引っ越してきて村の鎮守となった稲荷社

大松町稲荷神社

読み方 いなり-じんじゃ(おおまつちょう)
所在地 名古屋市東区大松町2-12 地図
創建年 不明(1741年に江戸から遷座)
旧社格・等級等 村社・十五等級
祭神 宇賀魂神(うかのみたまのかみ)
アクセス JR中央本線「千種駅」から徒歩約22分
駐車場 なし
その他 例祭 6月5日
オススメ度

 JR中央本線の千種駅と大曽根駅の間の線路脇にある小さな稲荷神社。特に興味を持たなければそれだけでしかない。ただ、この神社が江戸から住民ごと引っ越してきたということを知って興味が湧いた。そういう例は他に聞いたことがない。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「創建については明かではない。寛保元年(1741)2月、江戸より遷座、社殿を建造し祀る。共に江戸より来住の18名たち一小路を構え稲荷小路と称し、氏神として崇敬した。明治5年、村社に列格した」

 家康の命令で清須から人も家も寺社仏閣もすべて名古屋に引っ越した清須越しはよく知られているけど、江戸から神社ごと名古屋城下にやって来た集団がいたことは知らなかった。
 稲荷神社のある場所から見て名古屋城(web/地図)は西3キロほどのところにある。
 名古屋城の城下町は南東に広がっていて、城に近いところに藩の主要な建物や上級藩士の屋敷が建ち並び、離れるほど中級、下級武士というふうに定められていた。東区白壁のエリアに武家屋敷だった頃の名残をとどめている。
 豊田太郎左衛門の屋敷が当時としては珍しい白塗りで、それが美しいと評判になり皆が真似をしたことから白壁の地名がついたといわれている。
 白壁の東は中級・下級武士の屋敷が集まっている地区だった。百人組同心の屋敷があった場所は、のちに百人町という町名がついた(明治9年)。
 稲荷神社があるところは百人町の更に東の城下の外れだ。そのすぐ東はかつて矢田川の流れが削った谷になっている。現在、JR中央本線の線路が通っているところがそうだ。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ても、城下町は谷の西側までだったことが分かる。

 どういう身分の人たちが江戸からわざわざ名古屋城下に引っ越してきたのかは分からないけど、十八名という人数は一家としては多いし、村としては少ない。親族単位といったところか。
 氏神として崇敬していた稲荷神を祭る稲荷社を建て、家を建てた場所を稲荷小路と称して住みついたというから、ここにすっかり腰を落ち着けたということだろう。
 稲荷を氏神としたというのであれば、やはり武家ではなく町民もしくは農民だったのだろう。
 明治5年(1872年)に村社に列格したということは、一族は江戸時代を通じてこの地に定住して稲荷社も村の鎮守としての地位を築いていったことになる。江戸期に数多くあった稲荷社が他の神社に合祀されずに単独で残って村社にまでなることはあまりなかった。
 稲荷神社のある大松町は昭和56年(1981年)に誕生した新しい町名で、現在の大松交差点の南にあった大きな松が由来だ。ただし、その大松は大正期の道路拡張の際に切り倒されてしまって残っていない。
 昭和の時代までは大松通商店街は賑わいを見せていたというのだけど、今は店も少なくなり、すっかり寂しくなってしまっている。
 稲荷神社を訪れる人も多いとはいえない。

 江戸時代に流行ったこんな言葉がある。

「江戸に多いもの、伊勢屋、稲荷に犬の糞」

 伊勢から江戸に出てあちこちに看板を掲げた伊勢屋と、道に転がる野良犬の糞、そしてやたら目につく稲荷社というくらい、江戸期に稲荷社が爆発的に増殖した。鎌倉以降の流行神(はやりがみ)が八幡なら、江戸期は稲荷神だった。
 元を辿れば百済から日本に渡ってきて帰化した秦氏(はたうじ)が、京の稲荷山(伊奈利山)に祀った神が起源とされる。
 技術集団であり、農耕の技術や知識を広めるとともに朝廷にも近づいて政治的な力を発揮するようになる。
 都が京に移されると、あらたに建てられることになった教王護国寺(東寺/web)のための材木や資材など秦氏が提供したことで稲荷神は真言密教と結びつき、仏教のダキーニ神(荼枳尼天/ダニキ)と同一視されたこともあり、神仏習合の歴史を辿ることになる。稲荷社が神社にも寺にもあるのはそのためだ。
 現在、稲荷神はウカノミタマ(宇賀魂神/宇迦之御魂神)とされることが多い。
『日本書紀』の表記では倉稲魂命となっているように、稲や穀物の神とされる。「ウカ」も穀物や食物の意味としている。性別はないとされながらも女神というのが一般的な認識だ。
 稲荷社の総本社は京都の伏見稲荷大社(web)であるのだけど、最初に祀ったのは稲荷大神だったとしている。奈良時代初期の711年(和銅4年)に秦一族の伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ/深草の長者)が元明天皇の勅命で稲荷山に祀ったのが始まりとされる。
 これとは別に、古くから伊勢の神宮(web)では食物神として御倉神(みくらのかみ)を祀っていた。
 外宮の主祭神も、食物の神とされる豊受大御神(とようけのおおみかみ)だ。
 ウカノミタマが稲荷社で祀られるようになるのは室町期以降といわれている。
『古事記』ではスサノオ(須佐之男)とカムオオイチヒメ(神大市比売/大山津見神の娘)との間に生まれた子としていて、兄に大年神(おおとしのかみ)がいる。
『日本書紀』ではイザナギとイザナミが飢えているときに生まれた子としている。
 ウカノミタマは、別名を三狐神(みけつかみ)ともいい、ここから狐(キツネ)が稲荷神の使いということになったとされる。
 保食神(うけもちのかみ)もウカノミタマの別名とする説もある。
 このような経緯を辿ったことで、稲荷社の祭神には様々なバリエーションが生まれることになった。ウカノミタマを主祭神としているところが多いけど、保食神だったり、仏教系のところでは吒枳尼天(ダキニテン)を祀っている。

 油揚げで酢飯を包んで食べる稲荷寿司の起源ははっきりしていない。江戸時代になってから初めて売られるようになったという話がある一方、伏見稲荷では初午祭で稲荷神に捧げる供え物にしていたともいう。
 稲荷の語源は、稲成り、稲生り、が転じて稲荷になったとしている。
 東日本では俵型の稲荷寿司が一般的だけど、西日本では三角形が多いらしい。名古屋は俵側で三角形のものは見たことがない。三角形はキツネの耳を表しているのだとか。
 仏教系の稲荷に油揚げを奉納するのは、稲荷寿司からの連想であって、キツネが油揚げを好んで食べるわけではない。そもそも、稲荷神の使いであるキツネに供え物をするも筋違いに思えるし、稲荷神やダキニテンだって別に油揚げが欲しいわけではないだろう。

 農耕神として始まった稲荷神は、商売の神、工業の神など、あらゆる人々に現世利益を与えてくれる神として広まっていった。
 主祭神として祀る神社だけでも全国で3,000社ほどあり、小さな社や祠などをあわせると10万以上といわれる。民家の庭先やビルの屋上にあるのを見かけたりもする。
 これは勧請手続きを簡易にしたせいもあった。申し込めば誰でも分祀してくれる手軽さが受けた。
 稲荷社の幟(のぼり)によく正一位(しょういちい)と染め抜かれているのを見ると思う。あれは勧請元の伏見稲荷大社が正一位なので、だったら勧請したうちも正一位だと勝手に名乗っているだけだ。本来、神階というのは勧請では引き継げないことになっているのだけど、稲荷社はそのあたりもゆるいことになっている。
 ただし、稲荷神は恐ろしい面も持ち合わせているので、軽々しくつき合うのは控えた方がいいかもしれない。
 ダキニ(荼枳尼)はもともとインドの夜叉で、裸で空を駆け巡り、人肉を食らう魔女とされている。それが日本に入ってきて天(天部)の位を与えられ仏となった。我が子を育てるために人間をさらって食べ尽くしたのちに改心して仏になった鬼子母神に似たところがある。
 そんな魔女と、スサノオの娘と、人をだますこともあるキツネとの三点セットは、考えてみればちょっと恐ろしい。
 実際、ときどきだけど、稲荷社の鳥居をくぐっているとき、ちょっと怖いような思いをすることがある(大松町の稲荷神社はまったくそんなことはなかった)。
 つき合うと決めたら一生つき合っていく覚悟が必要かもしれない。途中で乗り換えたり浮気したりすると、さてどうなるか。
 江戸から名古屋に移ってきた人たちも、ひょっとするとそういった祟りを恐れたからかもしれない。
 さらわぬ神に祟り無し、という言葉もある。

 

作成日 2017.3.28(最終更新日 2019.2.19)

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