神明社(正徳町2)

二十番割神明社との関係は?

正徳2神明社

読み方 しんめい-しゃ(しょうとくちょう2)
所在地 名古屋市港区正徳町2丁目53 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 村社・十五等級
祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
アクセス あおなみ線「中島駅」から徒歩約10分
駐車場 なし
その他 例祭 10月第1日曜日
オススメ度

 正徳町に3社ある神明社のうちのひとつ。ここは正徳町2丁目の神明社だ。
 江戸時代前期の1646年(正保3年)から1649年(慶安2年)にかけて干拓によって開発した熱田新田三十三番割のうちの二十二番割に当たる。この神明社は二十二番割の氏神として勧請された。
 正徳町1丁目の神明社地図)は二十番割の氏神で、『尾張志』(1844年)によると宝暦年間(1751-1764年)の勧請という。
 正徳町1丁目神明社の由緒書きには、二十二番割神明社の分身を祀ったと書いてある。ちょっと信じられない気もするのだけど、それが本当だとすると、この正徳町2丁目神明社の創建は、熱田新田完成の1649年から宝暦年間(1751-1764年)までの間ということになる。
『尾張志』には勧請の年月についての記述はなく、『愛知縣神社名鑑』も創建は不明としている。熱田新田の二十二番割完成から間もなく建てられたと考えるのが自然なのだけど、不明となっているくらいだからはっきりした記録は残っていないのだろう。

 正徳町1丁目神明社のところでも書いたけど、二十番割神明社と二十二番割神明社に伊勢から御師(おんし)が来ていたという話が伝わっている。
 御師は下級の神職という立場で、伊勢の神宮(web)の布教活動をしながら参拝者のための旅行代理店業務のようなこともしていた人たちだ。伊勢の神宮に人を呼ぶために地方巡りをしていたからそのことは特に不自然なことではないし特別なことでもないのだけど、どうしてここだけそういう話が伝わったのかが少し気になる。神明社創建に伊勢の御師が関わったということがあっただろうか。
 気になるといえば、『愛知縣神社名鑑』にわざわざ神徳として火防せと厄除けと書かれている点だ。火防せといえば一般的には秋葉権現だし、厄除けといえば牛頭天王を祀る天王社が定番だ。境内社に秋葉社はあるけれど、それは普通のことだ。本社にはカグツチもスサノオを祀られていない。あえて神徳として記したということは、この神明社にそういう評判があったということなのだろう。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、現在神社がある場所に樹林のマークが描かれている。鳥居マークはないものの、すでに神社は今の場所にあったと考えていいのではないかと思う。田んぼの中なので、こんもりと木々が茂った小さな鎮守の森といった風景だっただろう。昔はそういう神社が日本全国にたくさんあったに違いない。
 1920年(大正9年)の地図から現在地に鳥居マークが現れる。
 1932年(昭和7年)の地図は、長い参道とともに鳥居マークが描かれている。周囲は田んぼだったのか荒れ地だったのか空き地だったのか判然としない。
 戦後の1947年(昭和22年)になると、西側(正徳5丁目)が住宅地になる。正徳町2丁目、3丁目の状況はあまり変わらない。
 1950年代の地図はないのでその頃のことはよく分からない。1968年(昭和43年)以降は区画整理もされて民家が建ち並んだ。

 熱田新田三十三番割にそれぞれ33の観音堂を建てて祀った。時が流れて江戸後期になるといくつは失われたり、一ヶ所にまとめられたりしたようだ。
 氏神はすべての番割にあったわけではなく、集落があった場所に限られていた。
『尾張志』によると、一番割の八劔社、四番割・五番割りの神明社、六番割・七番割の神明社、八番割・九番割の寶田社、十一番割の八劔社、十四番割の天王社、十七番割の神明社、十八番割の神明社、二十番割の神明社、二十二番割の神明社、二十八番割の神明社、三十一番割の神明社ということになる。
 氏神以外の神社もあったはずだけど、小さいものに関しては記録が残っていない。

 境内の囲み感が足りなくて、がらんとした感じを受けるのが少し気になった。
 社殿は変わったスタイルで、お堂のような拝殿と渡殿、本殿の覆殿が連結している。それぞれ瓦屋根で、神明造からはだいぶ遠い。
 熱田新田時代からですら多くの時間が流れた。神社もまた変わらずにはいられないし、今後も変わっていくだろう。

 

作成日 2018.7.29(最終更新日 2019.7.25)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

神明造からは遠い正徳町2丁目神明社

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