大森八劔神社

熱田や尾張氏とのつながりが見えそうで見えない

大森八劔神社階段下

読み方 おおもり-やつるぎ-じんじゃ
所在地 名古屋市守山区大森二丁目1721番地 地図
創建年 伝793年(奈良時代末)
社格等

村社・八等級社

祭神

日本武命(やまとたけるのみこと)
建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
天之火明命(あめのほあかりのみこと)

 アクセス

・名鉄瀬戸線「大森・金城学院前駅」から徒歩約1分
・駐車場 あり(無料)

webサイト  公式サイト
オススメ度

 この神社の歴史をざっとまとめると以下のようになる。
 ・第50代桓武天皇時代の793年(平安京遷都の前年)に、この地方を支配していた豪族の山田連(むらじ)が大森北八劔に創建したと伝わる。
 ・江戸時代中期の1760年に、矢田川と天神川の合流点に近い大森中ノ町田(現在の大森中央公園の西側あたり)に遷座した。
 ・その後、度重なる水害、地震の被害、盗難などもあり、昭和2年(1927年)に現在の高台に移ってきた。
 ・昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で拝殿、手水舎などが大破。
 ・昭和35年(1960年)、拝殿再建。
 ・昭和54年(1979年)、本殿改修。

 特に気になる点はない神社だけど、古いには古いらしいというのが一般的な認識だろうと思う。
 でも、個人的には引っかかる点がいくつかあるので、順番に見ていくことにする。

 まずは創建について。
 必ずしも疑うわけではないけど793年創建というのは本当だろうかというのがある。
 大森という土地は、北にある小山と南を流れる矢田川に挟まれた平地で、早くから人が暮らしていたことが分かっている。縄文時代の出土品などもあり、古墳も何基か見つかっている。だから、古すぎて不自然ということはないのだけど、この年代と山田連というのがどういうことなのだろうというのが気になる点だ。
 尾張における山田氏は、清和源氏の流れをくむ一族とされる。満政(みつまさ)を祖として浦野重遠(源重遠)の代に美濃あたりから尾張に進出してこの地を支配したとされる。それは平安時代中期から後期にかけてのことだ。なので、793年に創建したとされる山田連はこの一族ではないということになる。
 連(むらじ)というのは大和王権時代に中央と直接関わりがあった地方の有力豪族に与えられた姓(かばね)のひとつで、当初は中央に近い豪族の臣(おみ)とともに最高位とされていた。
 その後、天武天皇時代に制定された八色の姓(やくさのかばね/684年)の制度ではランクが下がって7番目になっている。
 このときの山田連とはどういう一族だったのか。最初からヤマトタケルとスサノオを祀る八劔神社という名前の神社を創建したのかどうか。
『愛知縣神社名鑑』には「山田の連が祭祀した」とある。祭祀というからには社殿を創建したのとは違ったのかもしれない。
 山田連は奈良時代、もしくはそれ以前からこの地に住んでいたのか、どこかからこの地にやってきて神社を創建(祭祀)したのか。

 この神社にまつわる一族がもうひとつある。
 平安時代前期の武士で、尾関勘八郎という人物がいた。
 神社から少し東へ行ったところにある法輪寺の縁起によると、860年に大森城主の尾関勘八郎が天台宗の尼寺「正宗庵」を創建したことに始まるとある。これがのちの法輪寺で、現在地の南1キロほどのところにあったとされる。
 大森城を築城したのも尾関勘八郎と考えられていて、場所は現在の大森中学から大森住宅にかけてのあたりだったとされる。江戸時代に八劔神社が遷座するのが大森中央公園の西なので、そのすぐ北西あたりだ。
 天神川から水を引いて一重の水堀を作り、土塁で囲んだ東西南北それぞれ70メートルほどの規模の館城だったとされる。
 応仁の乱が始まった年の1467年に、志段味や尾張旭の新居城を支配していた水野宗国と争って敗れ(砂川合戦)、落城したのち廃城となったとされる。
 土塁や堀の一部が近年まで残っていたようだけど、宅地開発によって消滅した。
  尾関氏は清和源氏の流れをくむ尾張氏の一族とされる。
 中世、尾関氏が尾張氏の祖神であるアメノホアカリ(天之火明命)を八劔神社に合祀したとされている。
 アメノホアカリは、東谷山の山頂にある尾張戸神社の祭神でもあり、この地方では重要な神だ。
 創建に関わったとされる山田連が平安時代以降に浦野重遠から別れた一族でないとするならば、古代の山田連とは何者なのか。古くは渡来系の一族が山田を称したという話がある。もし、大森にいた山田連がそうだとすれば、祀った神はヤマトタケルやスサノオではなかったかもしれない。一族の祖神の方が自然だ。それが「祭祀した」ということではないのか。
 八劔神社は尾張に多い。これはまず間違いなく熱田神社八劔神社(延喜式神名帳に愛智郡八剱神社とある)と関係がある。つまりは、草薙劔であり、ヤマトタケルであり、尾張氏と関係があるということを意味する。

 熱田神社と八劔神社は、もとともは別々に別れており、その関係性と現在に至る経緯は複雑だ。
 八劔の「八」は数字の八のことではなく、「彌」のことで、「ヤ」とか「イヤ」などと読み、いよいよ、ますますといった意味だ。
「彌劔(やつるぎ)」は、永久の剣といった感じだろうか。
 熱田の八劔神社は、草薙剣を納めていたところとか、新に剣を鋳造するために建てられた社だとか、草薙剣が盗難にあったとき(天智天皇668年)、戻ってきた草薙剣を皇室に置く代わりに贈られた剣の名前が彌劔だったなど、いろいろな説がある。
 創建されたのは和銅元年(708年)という。
『延喜式神名帳』が編さんされた927年時は「小社」だったのが、平安時代末には正一位にまで上り詰めている。その間に何があったのかは謎だけど、これは普通のことではない。
 現在の熱田神宮では、別宮・八剣宮として他の摂社よりも一段上の扱いになっている。
 もともとまったく別系統の神社だったものを、のちに熱田神社が取り込んだという構図も見え隠れする。
 熱田神社から勧請して創建した各地の熱田社と、八劔神社から勧請して創建した各地の八劔社は別物と考えた方がいいのかもしれない。

 大森八劔神社は、誰がどんな祭神を祀って創建したのか、そして、いつ八劔神社になったのか。
 いくつかのキーワードでつながるようでつながらない。まだ全体像や真相が見えてこない。
 創建が本当に793年で、由緒のある神社だったのであれば、『延喜式神名帳』に載っていても不思議ではない。延喜式の編さん開始が905年だから、その頃にはもう100年以上経っている。けど、そういった形跡もなく、神名帳にそれらしい候補の神社も載っていない。
 実質的な創建は、鎌倉時代か室町時代の尾関氏によるものと考えた方がいいだろうか。アメノホアカリを祀ったということはもっと時代が古くてもよさそうではあるけれど。
 八剱問題に関しては、熱田の八剣宮のところでもう一度考えることにしたい。

 毎年8月の第一日曜日に、天王祭が行われる。
「天王車」と名付けられた名古屋型の山車は明治の中頃に東区古出来の須佐之男神社(東之切)から購入したものとされる。
 お囃子や神楽が奉納され、山車を曳いて町内を練り歩く。山車にはからくり人形も乗っている。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

大森八剱神社で続・初詣
大森天王祭は想像していた以上に本格派

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