第50代桓武天皇時代の793年(平安京遷都の前年)に、この地方を治めていた山田の連(むらじ)が大森北八劔に創建したと伝わる。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「創建については明かではないが、延暦十二癸酉年(793)の頃、山田の連が祭祀を行ったと伝えられる。明治5年7月、村社に列し、明治40年10月26日、供進の指定をうける。元字中町田669番地に鎮座したが、大正15年10月13日許可をうけ、昭和2年4月15日今の所に遷座した。昭和34年9月伊勢湾台風により、拝殿、手水舎を大破せしも昭和35年10月拝殿を復旧す。昭和47年境内を改修整備、昭和54年10月本殿を改修弊殿を新築し、昭和55年3月向拝を増設し、同年4月、11等級を8等級に昇級した」
神社公式サイトの由緒によると、山田の連は尾張氏の一族で、熱田の八劔社(現・八剣宮)に由来する神社だろうけど、いつ頃から八劔神社と称するようになったかは分からないとしている。江戸期の書には「大明神」とあるので、必ずしも最初から八劔神社ではなかったのかもしれない。 建速須佐之男命と日本武命は八劔神社の祭神で、尾張氏の祖とされる天之火明命を山田の連が祀ったのが始まりではないかとする。その後、中世に大森城主の尾関氏が受け継いだのではないかという。境内社の尾関社の祭神も天之火明命となっている。
神社がある大森村は、もともと矢田川右岸(北側)、現在の元郷に集落があった。元郷という地名がそれを表している。 江戸時代に入って、尾張藩初代藩主の義直が瀬戸の定光寺(地図)に鷹狩りのために通うための道(瀬戸街道/水野街道)が整備されて後、集落はその街道沿いに移った。義直は自らの意志で定光寺に葬られることを望んだだめ、定光寺に廟が建てられ、歴代の藩主は定光寺に通うことになった。そのためこの道は殿様街道とも呼ばれた。 その義直は大森村の村娘を見初め、名古屋城に連れて帰り、その娘との間に生まれたのが二代藩主の光友だった。大森にある大森寺(だいしんじ / 地図)は光友の母ゆかりの寺だ。 八劔神社はもともと、集落の西側にあったというから、今の302号線が通っているあたりだろうか。 そこから1760年に集落の東に移したのは水害を逃れるためだったかもしれない。しかし、そこもたびたび水害に遭ったため、北の高台に移されたのが昭和2年のことだ。
大森村がいつ頃できたのかは分からない。793年創建(創祀)が本当だとすれば、奈良時代にはあったと考えていいだろうか。 矢田川と北の丘陵地とに挟まれた平地には古くから人が暮らしていた痕跡が見つかっている。大森の西の牛牧遺跡はこの地方を代表する縄文遺跡として知られている他、小幡、守山地区には古墳が集まっている。 山田連というのが何者かは分からない。八色の姓(やくさのかばね / 684年)以前の連(むらじ)はヤマト王権に近い渡来系有力氏族に与えられることが多かった。尾張氏も当初は連だった。八色の姓以降でいうと、地方豪族に与えられたもので、上から7番目なのでさほど高いわけではない。 この神社がもともと山田連によってアメノホアカリを祀ったものであれば、尾張氏の関係氏族ということになるだろう。 山田の連が大森に土着した一族だったのか、他からやってきた一族だったのかは知りようがない。
尾関氏についていえば、平安時代前期の武士で、尾関勘八郎という人物がいる。 神社から少し東へ行ったところにある法輪寺(地図)の縁起によると、860年に大森城主の尾関勘八郎が天台宗の尼寺、正宗庵を創建したことに始まるという。これがのちの法輪寺で、現在地の南1キロほどのところにあったとされる。 大森城を築城したのも尾関勘八郎と考えられていて、場所は現在の大森中学(地図)から大森住宅にかけてのあたりだったとされる。江戸時代に八劔神社が遷座するのが大森中央公園の西なので、そのすぐ北西あたりだ。 天神川から水を引いて一重の水堀を作り、土塁で囲んだ東西南北それぞれ70メートルほどの規模の館城だったとされる。 応仁の乱が始まった年の1467年に、志段味や尾張旭の新居城を支配していた水野宗国と争って敗れ(砂川合戦)、落城したのち廃城になったと伝わる。 土塁や堀の一部が近年まで残っていたようだけど、宅地開発によって消滅した。 尾関氏は清和源氏の流れをくむ尾張氏の一族とされる。なので、最初にアメノホアカリを祀ったのはこの尾関氏という可能性も考えられる。だとすると、もともと八劔社として創建されたということになるだろうか。 アメノホアカリは、東谷山の山頂にある尾張戸神社の祭神でもあり、この地方では重要な神だ。
八劔社とは何かということについては熱田の八剣宮のページに書いた。 結論としては分からないということになるのだけど、何故か、本体ともいえる熱田社よりも八劔社の方が人気が高く、名古屋では八劔社から勧請して建てた八劔社が多い。 草薙剣盗難事件(668年)の後、代わりの剣を新造して祀ったのが始まりというのが一般的によく言われていることなのだけど、それだけではないように思う。少なくとも、中世の人たちにとっての八劔神は単なる代わりの新剣というものではなかったようで、大明神と呼んでいたくらいだから、力のある格式の高い神という認識だったのだろう。
大森村の江戸時代の神社を見ておくと、『尾張志』(1844年)は「八劔社二所 大森村にあり 末社に神明社熊野社白山社山神社荒神社あり」と書いている。森孝新田村は大森村の支村という位置づけだったので、八劔二社のうちの一社は森孝の八劔神社をいっているだろうか。 江戸時代前期の『寛文村々覚書』(1670年頃)では、「大明神 八幡 山神四ヶ所」となっている。 このうち、北八剱の八幡と定納と西新田にあった山神社が明治11年(1878年)に八劔神社に移された。斎穂社も境内に移されたという話があるのだけど、今は境外末社として大森5丁目にある。 『尾張徇行記』(1822年)はそれぞれの神社についてもう少し詳しく書いている。 「八劔社人浅見久太夫書上ニ、八劔大明神社内五畝歩前々除、勧請年紀ハ不知、応永元戌年明応三寅年修造アリ 末社神明 熊野 洲原白山 山神 金神 神田一段歩前々除 村内八幡社内一畝歩村除八劔ニアリ 山神社内三畝歩村除、向山ニアリ、又山神社内十二歩村除、大清水ニアリ、又山神今社ナシ、社地十二歩村除、今尻ニアリ、又八神社ナシ、社地十二歩村除、花池ニアリ 神主宅地七畝歩村除」
八劔神社は、誰がどんな祭神を祀って創建したのか、そして、いつ八劔神社になったのか、いくつかのキーワードでつながるようでつながらない。全体像や真相が見えてこない。 創建が本当に793年で、由緒のある神社だったのであれば、『延喜式』神名帳(927年)に載っていてもおかしくはない。しかし、尾張の国内神名帳にも載っていないことからすると、それほど古い神社ではないのかもしれないとも思う。
毎年8月の第一日曜日に、天王祭が行われる。 「天王車」と名付けられた名古屋型の山車は明治の中頃に東区古出来の須佐之男社(東之切)から購入したものとされる。 お囃子や神楽が奉納され、山車を曳いて町内を練り歩く。山車にはからくり人形も乗っている。瀬戸街道を通行止めにして行われ、大森駅近くには露店も並ぶなかなか本格的なお祭りだ。
作成日 2017.3.11(最終更新日 2019.1.18)
|