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田光八幡社

これはいい神社だなと思う

田光八幡社

読み方 たこう-はちまん-しゃ
所在地 名古屋市瑞穂区大喜新町3丁目23 地図
創建年 不明(782年または1069年とも)
旧社格・等級等 指定村社・十等級
祭神 應神天皇(おうじんてんのう)
仁徳天皇(にんとくてんのう)
アクセス 地下鉄桜通線「瑞穂運動場西駅」から徒歩約22分
駐車場 なし
電話番号 052-881-7776
その他 例祭 10月10日
オススメ度 **

 ここいい神社だなぁという思いが奥へ進むほどじんわりこみ上げてきて、本殿横の大楠を見て思いが溢れそうになった。うわぁ、すげえな、この神社、と。
 個人的にこの神社は好きだ。名古屋市内・市外の人だけでなく、県外の人にもおすすめしたい、名古屋を代表する神社のひとつといっていいんじゃないかと思う。
 特に巨木好きならここの大楠を見るためだけでも訪れる価値がある。もう一本の楠とあわせて名古屋市の都市景観重要建築物等に指定されている。

『愛知縣神社名鑑』はこう書く。
「創建は明かではない。『尾張志』に八幡ノ社田子(たこ)という所にあり、と記す。明治五年七月、田光八幡社と改め、村社に列格する。大正十年、供進指定社となる」
 非常にそっけない記述だ。まるで特に重要な神社ではなく、興味も薄いといったふうだ。
 それは江戸時代の書物でもそうで、『尾張志』(1844年)では「八幡社 田子(タコ)という所にあり」とだけで、『尾張名所図会』(1844年)では触れられてさえいない。大楠は江戸時代でもすでに大楠の木だったと思うのだけど、知られていなかったのだろうか。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の大喜村の項にはこうある(『尾張徇行記』(1822年)もほぼ同じ内容)。
「若宮八幡社 内ニ大日堂 前々除
 八幡社 前々除
 ともに当村之治兵衛持分」
 前々除とあるから1608年の備前検地以前からあったことは分かるものの、それ以上のことは分からない。
 熱田社にゆかりの深い神社でありながら、江戸時代前期の時点で熱田の支配ではなく大喜村のものになっているのが気になる。しかも、神官(太夫)ではない治兵衛という一般人の持分だった。

 これらの書物とは対照的に境内の由緒書きは詳しい。ただし、近づくことのできない拝殿に掛かっていて字が小さいため、肉眼で読むのはほぼ無理なのが残念だ。由緒書きを読むには双眼鏡か望遠レンズが必要になる。
 その由緒書きによると、奈良時代末の延暦元年(782年)に、熱田社神官の守部公彦正(もりべきみひこまさ)が社を建てたのが始まりという。
 守部氏は大碓命(おおうすのみこと)の子孫を称しており(大碓命の子の押黒弟日子王を祖とするという)、朱鳥元年(686年)に初代の守部宿彌孫谷(もりべのすくねひこや)が社職となり、明治4年(1872年)まで熱田社で大内人として勤めていたそうだ。
 宿彌(すくね)は、大和朝廷が有力氏族に与えた称号のひとつで、天武天皇は684年に八色の姓(やくさのかばね)を制定しているから、そのときのものだ。
 686年といえば、新羅の沙門(修行者)の道行が盗んだ草薙剣が熱田社に戻ってきた年だ。朝廷にあったものが天武天皇に祟ったとのことで戻されることになったと『日本書紀』はいう。
 
大碓命(オオウス)はヤマトタケル(日本武尊)の兄(双子とも)で、『日本書紀』では父である景行天皇の言うことを聞かないので美濃国に封じられたとあり、『古事記』ではヤマトタケルに殺されたとしている。
 豊田市の猿投神社にオオウスの墓とされるものがあり、猿投神社の主祭神となっている(ブログ記事)。
 熱田社は言うまでもなく草薙剣とヤマトタケルを祀る神社だ。
 そもそも、田光八幡社は創建当時、熱田社の遙拝所として建てられたという話がある。田光八幡社は直線距離で熱田社の約1.5キロ東に位置している。
 このあたりの事情はなかなか複雑で理解が難しいのだけど、まったく無関係だったとは思えない。
 守部氏が務めていた大内人(
おおうちびと)というのは、供御(くご/飲食を出すこと)を司る役割のことをいう。
 この時代の熱田社の大宮司といえば代々尾張氏で、そのあたりの関係性はどうなっていたのか。

 682年創建説とは別に、延久年間(1069-1073年)に第十九代の守部彦正が八幡社を勧請して社を建てたのが始まりというものもある。
 しかしこれはどうにも腑に落ちない。平安時代中後期のこの時期に、熱田社の神職だった 守部氏がどうして八幡社など建てたのか。考えられるとすれば、八幡神ではなく應神天皇を祀ったという可能性だけど、それもちょっとしっくりこない。
 少し気になる話として、江戸時代前中期の元禄(1688-1704)の頃まで熱田社の社僧が祭礼に大般若経を読んでいたらしいことだ。
 熱田社の神宮寺がいつ創建されたのかはっきりしないものの、仁明天皇(在位833-850年)の勅願で建てられたと『尾張志』や『尾張名所図会』などは書いている。
 平安時代以降、熱田社も神仏習合が進んでいっただろうから、熱田社に社僧がいて大般若経を読んだこと自体は充分あり得るとして、どうして八幡社でも読んだのか。
 熱田社と八幡神との関係がよく分からない。現在の熱田神宮内に八幡の神を祀るような社はない。
 それに、『寛文村々覚書』にあるように江戸時代前期の時点で八幡社は熱田社の支配でも、守部氏の持分でもなくなっている。にも関わらず、元禄の頃まで熱田の社僧が八幡社で大般若経を読んだというのはどういうことを意味しているのか。

 八幡社がある場所は周囲から一段高くなっている。北側は山手グリーンロードを通したときにごっそり削られているものの、ちょっとした小山だ。これは古墳ではないのか。
 瑞穂台地の西の縁に近く、古くは鎌倉街道がすぐ横を通っていたと考えられている。
 八幡社の300メートル南東に大喜寺(地図)があり、その南の田光町3丁目で遺跡が見つかって、田光遺跡と名付けられている。縄文時代の竪穴住宅の跡や縄文、弥生の土器、猿投窯で焼かれた陶器の破片などが発掘されており、古くから幾時代にも渡って人が暮らしていたことが分かっている。神社の周辺からも弥生時代の遺跡が発見された。
 八幡社の北にあった元興寺墓地の寺山からは鎌倉時代のものとされる尾張最古の石地蔵が見つかっている。明治に大喜寺に移された。

『尾張志』は大喜村についてこう書いている。
「大喜村 田光ノ庄 あるひは長根ノ庄といふ 和名抄に愛智郡大毛(オホケ)とあるはここなるべし」
『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』は平安時代中期の承平年間(931-938年)に源順(みなもとのしたごう)が編さんした辞書で、当時の郷名も載っている。
 尾張国愛智郡には中村、千電(千竈)、日部、大毛(太毛)、物部、厚田(熱田)、作良、成海、驛家、神戸があったことが分かる(写本によって違いがある)。
 ここにある大毛(太毛)が大喜村のことだといっている。
 大喜の地名の由来には諸説あり、熱田社神主の大喜五郎丸の居住地があったことからきていとか、近くの遺跡から大金寺と墨書された器が発掘されたことから大金が大喜になったなどという。
 田光の地名も古く、『日本書紀』にヤマトタケルが熊襲を討伐に行くとき尾張から従ったのが田光之稲置(たこのいなぎ)で、この人物が開いた土地が中世に田光荘と呼ばれるようになったともいう。
 この時代の稲置であれば姓(かばね)ではなく地方の首長といった意味だろう。

 熱田社と八幡社ならびにこの地区とのつながりをあらためて見てみる。
 先ほど出てきた大喜寺(真言宗)は本尊が大同年間(806-810年)のものと考えられることから、創建は平安時代、もしくは奈良時代までさかのぼるとされる。
 本尊の大日如来は弘法大師空海の作という話があり、もともとは熱田社の本地仏だったともいう。現在は秘仏で60年に一度開帳されるそうだ。
 八幡社にある大楠は、空海の手植えという伝説を持つ。空海は尾張を訪れた際に7本の楠を植えたとされ、5本は熱田社の中で、1本が八幡社のあるところ、もう1本は古井ノ坂だったという。
 空海伝説は日本各地にあってすべてが本当というわけではもちろんないのだけど、空海の名前がこれだけ出てくるとまったくの作り話とも思えない。
 神之内八幡社にある肴瓮石(なべいし)は、空海が高田村の海上寺を訪れたときに見つけたものという伝承がある。
 実際に楠を植えたのが空海であるかどうかは別にしても、八幡社にある大楠が樹齢千年を超えているのは事実だ。
 現在の八幡社の本殿は、かつて熱田神宮の龍神社の本殿だったものだ。明治6年(1873年)に龍神社が新築されることになり、古い本殿がここに移された。ここにも熱田社との深いつながりが見てとれる。
 熱田の龍神社では吉備武彦命を祀っていた。今は大伴武日命も一緒に祀っている。
 これはヤマトタケルの東征に従ったふたりだ。

 現在の田光八幡社の祭神は、應神天皇と仁徳天皇になっている。
 神社の由緒書きにはよると、「明治四十一年頃愛知郡呼続町大字瑞穂字寺山七〇番地の無格田光八幡社は 同郡同町同字田光二十七番地の若宮八幡社を合祀し村社格田光八幡社となりました」という経緯だったようだ。
 どうしてこんな重要なことを『愛知縣神社名鑑』は書いていないのか。この説明がないと仁徳天皇を祀っている理由が分からない。
 由緒では明治41年に無格社の八幡社に若宮八幡社を合祀して村社になったとあり、『愛知縣神社名鑑』では明治5年に田光八幡社と改めて村社になったとしている。どちらが本当なのかは判断がつかない。
 大喜村の古い絵図を見ると、村の中央北寄りに八幡社があり、その南東に大喜寺がある。そのすぐ南に若宮八幡宮と八劔宮が並んでいたことが分かる。村の北のはずれに白山社も描かれている。
 現在、田光八幡社にある八劔社と白山社も明治になってここに移されたということだろう。

 ここまで書いてきてもなお、田光八幡社というのはどういう神社なのかということが私にはよく分からない。
 熱田社の神職だった守部氏が創建に関わったのは確かだろうけど、奈良時代末の782年なのか平安時代中期の1070年前後なのかはなんともいえない。
 熱田社と深い関わりがある古社というなら『延喜式』神名帳(927年)に載りそうなものなのに載っていない。
 平安時代末に作られたとされる『尾張国内神名帳』にも出ていない。
『尾張国内神名帳』は熱田社の神宮寺だった妙法院の座主(ざす)が神事の前に読み上げるために作った尾張国の神社一覧と考えているから、その時代までにちゃんとした神社として成立していればその中に入ったのではないか。
 樹齢千年を超える大楠はひとつの物的証拠にはなるだろうけど、神社が先か楠が先かは分からない。このあたりに楠が自生するとも思えないから誰かが植えたのだろう。だとすればそれは平安時代前期から中期にかけてだ。もし空海だとすると、空海の生没年は774-835年だからその間ということになる。
 境内にあって御神木とされたからここまで切られずに残ったというのはあるにしても、大事に守られてきたのは間違いない。高台にあって遠くからもよく見えたため、鎌倉街道を通る人たちの目印になったという。
 大楠の根元では白龍神を祀り、もう一本の楠では黒龍神を祀っている。
 白龍神の横には龍神池もあり(今は枯れている)、ここの大きな岩は鳳来寺山(愛知県新城市)から運んだものだとか(昭和32年に造営)。

 境内には夫婦和合の木と呼ばれる椋(むく)と榎(えのき)の木がある。二本は絡み合うようにして成長しており、夫婦円満、子授けの願掛けをすると叶うとされる。
 しかし、誰が言い出したのか、浮気封じにも効くという話になっているらしい。
 丑三つ時(うしみつどき/午前2時から2時半)に木の周りを7周半して願掛けをするのだとか。

 この神社の成り立ちから今に至るまでの歴史を紐解くのはそう簡単ではなさそうだ。土地の歴史と人の思惑が絡み合って複雑なことになっている。
 ただ、そのうねりが良い波動となって境内を満たしているのがこの神社の特徴で、訪れる者を優しく包んでくれる。
 地域猫として野良猫を大事にしているのも個人的には好印象につながった。
 歴史の謎は抜きにしても、この神社はいい神社だと思う。機会があればぜひ一度訪れてみてほしい。

 

作成日 2017.9.17(最終更新日 2019.3.27)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

田光八幡社はすごくいい神社だなぁと思う

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