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金明竜神


名古屋城下を見守り続けて400年のムクノキ



金明竜神

読み方きんめい-りゅうじん
所在地名古屋市中区丸の内2丁目2-18 地図
創建年不明(戦後)
旧社格・東急等不明
祭神不明
アクセス地下鉄鶴舞線/桜通線「丸の内駅」1番出口から徒歩約5分
駐車場 なし
その他 
オススメ度

 名古屋で一番大きな椋の木(ムクノキ)が名古屋城下の丸の内2丁目に残されている。マンションの駐車場の一角にその木はある。
 まずは那古野神社地図)と名古屋東照宮地図)を目指す。長島町通を挟んだはす向かいに白い説明板が立っており、「ムクノキ・横井也有宅跡」とある。それが目印だ。
 その左横の赤茶色いマンション(東照ビル)のエントランスを通って(たぶん大丈夫なのだと思う)先に進むと目の前の駐車場にムクノキの巨木が立っている。まさかこんなところにと思うだろう。
 余談ながらついで書いておくと、名古屋城下は家康の命で碁盤割に町作りが行われ、南北の道を「通」、東西の道を「筋」といった。
 現在、高速道路の高架がある東西の外堀通りは、かつては水の入った外堀だったところだ。
 愛知縣護國神社地図)の南東の本町橋の北に本町御門があった。そこより北が丸の内の城内で、南が城下ということになる。
 本町御門から南に真っ直ぐ伸びた道が本町通で、名古屋城下のメインストリートだった。城下で最も賑わった通りであり、この道沿いに店を出すことがステータスだった。
 本町通の一本西が長者町通、その西が長島町通、その西が桑名町通で、それらはかつての町名から来ている名前だ。町の名前としては残らなかったものの、通りの名前として残った。
 長島町、桑名町、伊勢町というのは、それらの町から清須城下に移った人たちが住んでいた町の名で、名古屋城ができて清須越で町ごと引っ越してきてそのまま町名も引き継いだ。長者町も清須越の町名で、清須時代に金持ちが集まる町だったという。



 ムクノキの高さは約21メートル。幹周りは約5メートル。
 名古屋城築城の1610年より以前からあった木で、樹齢は400年を超える。
 周りをビルに囲まれた駐車場の中ということで環境は決してよくない。やや傷みが出ている以外はまだ元気なので、当分伐られる心配はなさそうだ。
 この木の下に金明竜神を祀ったのは戦後のことという。誰がどんな神を祀ったのが始まりかはよく分からない。竜神とはいいつつこの木に蛇でも棲みついていたのかもしれない。
 名古屋城下は空襲で一面焼け野原になったにもかかわらず、この木は生き残った。名古屋にはそういう木が他にも何本かある。



 入り口の説明板にもあるように、ここは尾張藩士で俳人の横井也有(よこいやゆう)の出生地だ。
 江戸時代中期の1702年、尾張藩代々の重臣だった横井家に生まれ、若い頃から文武両道で多芸多才を発揮した。和漢の学問を修め、絵画や琵琶、歌なども堪能で、兵法にも通じていたという。
 26歳のときに父の死で家督と知行1000石を継ぎ、29歳で御用人となり、40歳のときに大番頭兼御用人となった。後に寺社奉行も兼務することになる。
 しかし、53歳のときに地位や生活の安定よりも自分の好きな生き方をしたいという思いが強くなり、病気を理由に隠居して、気の合う下男で弟子の石原文樵とふたりで前津に知雨亭という草庵を結んで移り住んだ。
 そこで人々と交流し、俳文や和歌、漢詩、狂歌、茶道などをしつつ気ままに暮らし、82歳まで生きた。
 生前に『羅葉集』、『管見草』、『美南無寿比』、『的なし』、『蘿隠編』、『行々子』など多くの著作も行い、死後に弟子達によって出された俳文集『鶉衣(うずらごろも)』が代表作となった。
 題名は鶉(うずら)の羽毛のように見栄えのしない文章の集まりという意味で名づけられたという。
「化物の正体見たり枯尾花」はよく知られている。
 東山植物園(web)内にある也有園は、この横井也有にちなんで作られたものだ。日本庭園の中に也有にゆかりのある植物を植え、50の句碑が建てられた。
『尾張名所図会』(1844年)に「長榮精舎 九老尚歯會之圖」と題された絵がある。おじいちゃんが9人集まって絵を見ながら酒かお茶か何かを飲んでいるところが描かれている。
 1781年に長栄寺で開催された詩歌連俳句の会の様子を描いたもので、メンバーがすごい。主催は
内藤東甫で、千秋斎104歳、集木軒93歳、君山85歳、幸山84歳、明星庵83歳、無孔笛82歳、鳥集軒80歳、白雲居89歳で、80歳の也有も参加している。江戸時代の80歳超えは今の80歳とはまったく違う超人レベルで、それぞれ長栄寺まで集まってこられただけでもすごいことだ。
 長栄寺の本堂前にある「蘿塚(らづか)」は、石原文樵が也有の生前に也有の恩義に報い、後世に名を残すために髪と爪をもらって埋めたものだ。也有が好んだ青蘿(あおかずら)を植えたことから蘿塚と呼ばれるようになった。



 表の説明板の横に明倫尋常小学校跡の石碑がある。
 横井宅の跡地に明治5年(1872年)に開校した尋常小学校で、昭和20年3月に空襲で焼けるまでここにあった。
 尾張の藩校である明倫堂の流れを汲む学校で、明倫堂は1782年に第十代藩主の宗睦が作ったものだった。武士だけでなく、町民や農民にも開かれた学校だった。
 明倫堂の碑は名古屋東照宮の境内の一角にある。
 明倫堂は明治4年の廃藩置県ともに廃校になり、その跡地に明治8年に移されたのが名古屋東照宮だ。



 名古屋城ができる前からこのムクノキはここにあり、名古屋城下が賑やかになって、時が移り、空襲で焼けて、戦後の発展まで、400年以上名古屋城下を見続けてきたことになる。
 金明竜神を祀らずとも、この木そのものに神が宿っているといっていい。
 名古屋城から歩いていける距離なので、知らなかった名古屋の人も、市外から名古屋に来た人も、機会があれば会いにいって欲しい。



 草刈の手に残りけり祭笛



        横井也有




作成日 2018.9.2(最終更新日 2019.3.13)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

樹齢400年を超えるムクノキと金明竜神

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