中村区日ノ宮町(ひのみやちょう)の日吉公園(ひよしこうえん)の一角に、日之宮神社はある。 入り口に「日吉丸生母祈願の跡」の説明板が立っており、次のように書かれている。 「日の宮神社はもと日吉権現といわれ、豊臣秀吉の母大政所が、男子を授かるよう日参した社で、秀吉は天文五年(1536年)元旦、日出ずるところ、力強く産声を発したといわれる。 幼名を日吉丸といったのは、この日吉権現の霊験によるところから名付けられたと伝えられる。 名古屋市教育委員会」 日吉権現に男子を授かるように祈願した仲(なか)が、生まれた子供に日吉丸と名付け、それが後に豊臣秀吉となった、ということだ。 しかし、この日之宮神社がいつ建てられたのかはよく分からない。祭神についても調べがつかなかった。
日吉権現は日枝山(比叡山)の山王権現のことだ。現在の日吉大社(web)にならって大山咋(オオヤマクイ)や大己貴(オオナムチ)を祀ることになっているのだろうか。それとも秀吉を祀るとでもしているのか。 もとの日吉権現は、秀吉が大坂に持っていったとも、家康によって取り壊されたともいわれ、江戸時代にはすでに廃社となっていた。 『尾張志』(1844年)には、「日ノ宮ノ社ノ舊址 楠樹一本たてり」とあり、『尾張徇行記』(1822年)は、「村ノ南ニ日吉社旧蹟アリ、今ハ田中に楠一株ノコレリ、是ハ太閤ノ母此神ニ祈願シテ、太陽懐ニ入ルト夢ミテ秀吉ヲ生ミ、因テ小字ヲ日吉ト称スト也」と書いている。 このときの楠が今も残っていれば大樹になって保存樹に指定されいるはずだけど、神社や公園にそれらしきものはない。 日吉公園は昭和10年(1935年)に作られたものだから、今の日之宮神社もそのとき再建されたものかもしれない。
秀吉の出生についてはよく分かっていない。 一般的な説として、尾張の中村に生まれ、父は足軽の木下弥右衛門で、母は仲、幼い頃に父の木下弥右衛門は亡くなり、母は竹阿弥(筑阿弥)と再婚するも、継父と折り合いが悪く、尾張を飛び出して遠江に行き、後に織田信長の小姓になったということがよく語られる。 実は天皇の落胤(らくいん)だったなどという説もあるけど、これは作り話だろう。秀吉自身のというより、関白を与えるときの口実だっただろうか。 百姓の子供で身分が低かったから素性を明らかにできなかったともされるけど、実際のところは、父親が誰か分からなかったのかもしれない。 もし父親が木下弥右衛門で、百姓兼雇われの雑兵だったというのであれば、それほど隠すことではないのではないか。いくら生まれの身分が低くても、関白にまでなったのなら出自の低さをひた隠しにする必要はないように思う。 父親が分からない、もしくは明らかにできないというのであれば、出生を語れなかったというのも納得がいく。 母の仲は、美濃の鍛冶・関兼貞(または関兼員)の娘で、御器所村の生まれとされる。 木下弥右衛門に嫁いだというのはどうやら本当のようなので、秀吉はその前に別の男性との間にできた子供だったかもしれない。それが言えない相手だったのか、分からなかったのか。 信長がいくら偏見のない人間だからといって、まったく素性の知れないような男を小姓として取り立てるだろうかということもあるし、秀吉の才気は本物のなわけで、父親は優秀でちゃんと人だったという可能性は充分にありそうだ。 秀吉は読み書きもできて教養もあった。大人になってから習い覚えたことはあるにしても、幼少時代に何らかの教育を受けていたのではないか。 仲は男子が生まれることを望んだというエピソードが伝わっていることからも、それが望まない子供ではなかっただろう。むしろ相手の子供を生まなければいけないと考えたのではないか。 仲の再婚相手の竹阿弥は、信長の父の信秀の同朋衆だったとされる人物だ。同朋衆というのはそば近くに仕えて雑務や芸能に関することを行う人をいう。 そのことからして、秀吉の父は当時百姓以下の身分とされた道々の輩(みちみちのともがら)と呼ばれるような人物だったかもしれない。芸能や技術者や採取者といったような人たちだ。 秀吉自身も若い頃、山で端柴(はしば)を拾い集めて売っていたことがあり、羽柴秀吉の羽柴(はしば)はそこから名付けたなどという話もある。
秀吉の出生地については、中村公園に隣接する常泉寺(地図)とする説と、同じく中村公園内の豊国神社近く(地図) とする説、もうひとつは下中八幡宮がある押木田公園の北、中村中町2丁目(地図)にあったとされる弥助屋敷とする説がある。 中村公園内には出生地の碑などもあり、一般的にはここが秀吉の生まれた地とされる。しかしこれは、明治になって上中村の人間が反対を押し切って強引に建てて半ば既成事実化したもので、無条件に信じていい話ではない。 仲が日之宮に日参したということが事実だとすれば、中中村の方が地理的に合っているように思える。 秀吉の若い頃について書かれたものとして、『太閤素生記』(たいこうそせいき)がある。江戸時代前期の1625年から1676年にかけて幕府旗本の土屋知貞 によってまとめられたとされるもので、それによると秀吉の生まれは愛知郡中中村という。 中村は平安時代にまとめられた当時の辞書『和名抄』にも出てくる古い地名で、戦国時代は上中村・中中村・下中村に分かれていた(江戸時代は上中村と下中村になる)。中村公園があるあたりは上中村なので、中中村生まれということと矛盾する。中中村に当たるのが弥助屋敷があった場所ということになる。 ただし、弥助屋敷の弥助は木下弥右衛門の別名なので、木下弥右衛門が父親ではないとすれば、ここで生まれたというのも違ってくることになる。 『太閤素生記』は江戸時代になって関係者から話を聞いてまとめたもので、必ずしも正確とはいえないとされる。 ついでに書くと、秀吉の母の仲は清須生まれで、男子を望んで祈願したのは清須市にある清須山王宮日吉神社(web)だったという説もある。 ただ、そうなると秀吉は清須生まれということになってしまうのでそれはなさそうだ。 秀吉の正室となるねね(おね)は清須の朝日村の生まれとされる。 出生地候補のひとつとされる常泉寺は、1606年に加藤清正が秀吉の廟堂として日誦上人を開山として建てたとされる日蓮宗の寺だ。 秀吉の産湯に使った井戸や、秀吉が植えたとされる柊(ひいらぎ)などがある。 その常泉寺の南にある妙行寺(みょうぎょうじ)は、加藤清正が生まれたとされる地で、1610年に清正が名古屋城(web)築城に参加した際、余った木材で移築再建したとされる。 中村公園内にある豊国神社は、有志たちによって明治18年(1885年)に建てられたものだ。 徳川政権下において秀吉を神格化することは禁じられていたこともあって、秀吉にまつわる足跡は故郷の中村にもほとんど残っていない。
いずれにしても、秀吉は中村生まれで、仲さんは男子が生まれることを望んで神社にお参りしたというのはまったくのでたらめではないだろう。それがこの神社だったかどうかはさほど重要ではなく、大事なのはそういったエピソードが語り継がれるための装置として神社がひとつの役割を果たしてきたということだ。 そういった神社なり生まれた場所なりを自ら訪ねたとき、歴史の教科書で読んだ過去の偉人は、かつてこの場所に確かにいて、そこらを歩き、暮らしていたということを実感として感覚することができる。 神社がもたらす縁結びというのは、そういうことでもある。過去と現在の時間をつなぎ、昔の人と今の我々をつないでくれる。
作成日 2017.11.12(最終更新日 2019.5.8)
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