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八幡神社(吉根)


普通の八幡社ではない



吉根八幡社

読み方はちまん-じんじゃ(きっこ)
所在地名古屋市守山区吉根南808 地図
創建年不明
旧社格・等級等指定村社・十一等級
祭神譽田別命(ほんだわけのみこと)
比咩大神(ひめおおかみ)
須佐之男命(すさのおのみこと)
菊理姫命(くくりひめのみこと)
大山祗命(おおやまつみのみこと)
アクセスゆとりーとライン「小幡緑地」から徒歩約40分
小幡緑地から高蔵寺行きバス「下島」停留所下車
駐車場 なし
その他例祭 10月15日に近い日曜日
オススメ度**

 吉根にある八幡神社。江戸時代の吉根村だったところだ。
 これを「きっこ」とはなかなか読めない。
『尾張国地名考』の中で津田正生は「吉根は正字桔梗村なるべし」と書いており、吉根音頭では「桔梗原から桔梗の地名」と唄われていることからも、もともとは桔梗(ききょう)や桔梗原などと呼ばれていたのが「きっこ」になり、吉根の字が当てられたということのようだ。
 しかし、このあたりに桔梗の花がよく咲いていたからといってそれが地名になるかというと疑問だ。さらに遡れば「きっこ」、「きっこう」などと呼ばれていたところに桔梗の字を当てたということも考えられる。「きっこう」であれば亀甲などという言葉も思い浮かぶ。あるいは、桔梗の花ではなく桔梗の形から来ているかもしれない。
 桔梗といえば桔梗紋を使った安倍晴明を連想するけど、このあたりに安倍晴明伝説は伝わっていない。
 ちなみに桔梗の語源は、桔梗の根が漢方に使われ「キチコウ」と呼ばれていたことから来ているという説がある。キチコウは根が硬いことから名づけられ、それがキキョウに転じたとされる。



『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではないが、明暦元年(1655)霜月吉祥日再建の棟札がある。往昔は字山沖に鎮座したが、度々の洪水に住民と共に山寄りの現在地に移った。明治5年7月、村社に列格し明治40年10月26日供進指定社となる。大正6年12月10日許可をうけ字上畠甲356番地に鎮座無格社神明社、又字笹ヶ根566番地に鎮座山神社の両社を大正8年2月9日に合祀した。その後昭和48年8月、右の神明社を元の鎮座地に還座した。(注)寛文村の覚書に山田庄吉根村、社三ヶ所、八幡、神明、山之神社、内五反二畝十二歩前々除。尾州府志に八幡社吉根村に在り、天王、白山を配享す。神明社同村にあり」



 江戸期の書の吉根村の項は以下のようになっている。



『寛文村々覚書』(1670年頃)
「社三ヶ所 内 八幡 神明 山之神
 社内五反弐畝弐歩 前々除」



『尾張徇行記』(1822年)
「社三ヶ所 八幡祠官長谷川助大夫書上ニ、氏神八幡社内松林東西四十二間南北十六間前魔女、上田五畝十歩備前検除、神明社内松林四五間四面前々除、山神社内松林七間四面前々除、何レモ勧請年紀不知」



『尾張志』(1844年)
「八幡社 吉根村にあり 天王白山を配享す」
「神明社 同むらにあり」



 吉根村には八幡、神明、山神の三社があり、前々除となっていることからも江戸時代以前に創建されたのは間違いなさそうだ。
 八幡に関してかなり古いとされており、一説では鎌倉時代かそれ以前まで遡るという。
 当初は800メートルほど北東の八幡ヶ嶺にあったとされる。平池の東辺りで、昭和59年の区画整理によって山が削られてしまったので跡形はない。
 中世に入って八幡ヶ嶺の上から500メートルほど西の山沖と呼ばれる場所に移された。そこには本宮の石碑があったのだけど、昭和59年の区画整理のときにかさ上げされて元地は消滅している。
 遷座後、たびたび庄内川が氾濫して被害にあったため、江戸時代前期の1655年に現在地に移された。明暦元年の棟札はそのときのものだ。
 大正6年(1917年)に神明社と山神社を八幡社に合祀した。
 昭和48年(1973年)に神明社(吉根)は元の場所(地図)に戻されている。



 今昔マップを見ると、吉根村は南北に非常に長い村だったことが分かる。東を下志段味と接し、龍泉寺(地図/web)があるあたりまで村域だった。東の東谷山(地図)から続く丘陵地帯と北を蛇行しながら流れる庄内川(玉野川)に挟まれた土地だ。
 古墳集中エリアの志段味と、西の小幡・守山地区との間に当たる。笹ヶ根古墳群、深沢古墳群、東禅寺古墳群、日の後古墳群などが見つかっており、いずれも古墳後期の小型円墳ということで、志段味や守山の前方後円墳を築いたのとは別の勢力かもしれない。
 神明社のある上島周辺から見つかった上島古墳群は7世紀後半ということで古墳終末期に当たる。
 吉根の集落の中心は当初、庄内川に近いあたりにあり、水害がひどいのでだんだん南の山側に移っていった。
 吉根の西にはかつて和爾良村(わにらむら)があり、庄内川を挟んで北には尾張の天台宗の中心だった密蔵院(地図/web)がある。そこは古くから熊野や神領と呼ばれた土地だ。
 吉根の西南端にある龍泉寺は平安時代に最澄が建てたとされる古刹で、空海が熱田社web)にあった三剣を納めたという伝承もある。
 和爾良の地名や和爾良神社は、おそらく古代の有力氏族のひとつ、和珥氏(わにうじ)から来ている。志段味から守山にかけて古墳を築いた集団は、火上山や熱田の尾張氏とは別の勢力だったはずで、その勢力図は複雑に入り組んでいたかもしれない。
 そういった古代からの流れを汲む集団がこの地で暮らしていたとすれば、吉根にも当然古い神社があったに違いない。それが吉根八幡神社の前身とは考えられないだろうか。
『尾張志』が「天王白山を配享す」と書いていることから、白山だったかもしれないし、別の神を祀るものだったかもしれない。中世に入って八幡が流行ったときに八幡神を祀るようになった神社は少なくない。
 そう考えると、この吉根八幡神社が中世以前まで遡るという話は荒唐無稽なことではないと思えてくる。この土地の歴史を考えてもそうだし、むしろ古い神社がない方がおかしい。



 山沖に建っていた石碑は、現在八幡神社の境内に移されて、本社の裏手に一之御前社(いちのみさきのやしろ)として祀られている。これは祭神の荒魂(あらみたま)としている。
 一之御前というと、熱田神宮の本殿奥にあって熱田大神の荒魂を祀るとする社だ。ずっと禁足地だったのが2012年に突如一般公開された。
 八幡社で荒魂を祀るというのは聞いたことがない。やはり吉根八幡神社は一般的な八幡社とは違う部分がある。
 特殊神事として疫神除(えきしんよけ)というものが今も伝わっている。
 毎年8月に行われる夏越祭(なこしのまつり)・雲霞祭(うんかさい)では、ムラの境の4ヶ所(吉根橋、志段味西小学校の南、東尾張病院の北、チャンバリンの北)に疫神除のお札を竹の先端に挿して立てる。地区の外から災いが入ってこないように祈願するというもので、かつては6ヶ所に立てられたという。
 名古屋市内でこういった神事が伝わっている神社は他に知らない。



 何の予備知識もなく出向いていって、ここはなかなかいい神社だなと単純に思った。本来の位置から移っているので弱まっている部分はあるにしても、神霊といったものは受け継いでいるはずだ。
 帰ってきてから歴史を調べて、要注意の神社だという認識を強くした。深い歴史を秘めている可能性があり、別の神社や土地につながっている感じもある。
 7世紀後半の古墳群というのは名古屋でも珍しく、そこにも歴史を紐解く上での何かヒントがありそうだ。
 神社というのは、誰が建てたのかということが重要で、この地にいたのはどういう勢力だったのかということを知らないと、神社の始まりにたどり着けない。歴史を遡れるだけ遡って、そこから未来方向に向かって考えなければ本当の姿は見えてこない。彼らのいた場所に立ち、彼らの視点で世界を見て、彼らと思いを同じくする必要がある。




作成日 2018.5.17(最終更新日 2019.1.25)


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