神明社(伝馬)

日待信仰から天道社、天道社から神明社へ

伝馬神明社

読み方 しんめい-しゃ(てんま)
所在地 名古屋市熱田区伝馬3丁目3-7 地図
創建年 不明
社格等 村社・不明
祭神 不明
アクセス

・地下鉄名城線「伝馬町駅」から徒歩約7分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 熱田区の南東の外れにある神明社。
 今は神明社となっているこの神社は、かつて天道社と呼ばれていたようだ。境内には天道社と彫られた石碑があり、マピオンでは今も天道社社務所となっている。
 愛知県神社庁に登録しているものの、『愛知縣神社名鑑』には載っていない。
 御神体は文禄5年(1596年)の銘の入ったお日待碑で、本殿の下に埋められているという。
 お日待が天道社となり、神明社になったという流れの神社のようだ。

 日待(ひまち)というのは、日暮れから近所の人たちが集まって夜通し食べたり飲んだりしながらお天道様(おてんとうさま)を待つというものだ。民間信仰の一種といっていい。
 一般的には旧暦の1月、5月、9月の15日に行うことが多かったという。
 他に庚申待(間黒神社を参照)や月待(志段味諏訪社を参照)などがあった。
「まち」というのは本来、神のそばで過ごすことを意味していたようで、後に待つに転じたとされる。
 平安時代中期の927年完成の『延喜式』に日待のことが書かれているのが初出らしく、かなり古くからあったことが分かる。
 民間信仰になる以前は、密教や陰陽道の儀式か何かだったかもしれない。宗教的な儀式だったのがだんだん集まって飲み食いする娯楽的なものに変わっていったようだ。一番流行ったのが江戸時代で、明治になると急速に廃れていった。ただし、今でも形だけ残っている地区もあるようだ。
 日の出を待つということで太陽信仰と思いがちだけど、必ずしもそうではないようだ。日待から天道社になったのは後世のこじつけのように思う。ましてや太陽信仰ならアマテラスだろうと神明社にしてしまったのはどうなのか。

 御神体が日待の碑というのだから、このあたりで行われていた日待が起源と考えてよさそうだ。それは神社か寺に建っていたものなのか、行われていた民家があったあたりに碑を建てたのか。
 江戸時代でいうと、東を精進川が流れ、神社の北は東海道だった。ここは宮宿の東の入り口に当たる。
 精進川に架かる橋が裁断橋で、裁断橋の南西には姥堂(うばどう)があった。古地図を見ると、東海道を挟んで北側には大黒堂があったようだ。
 古い時代、精進川を歩いて渡ろうとした僧が川に流され命を落とし、それを見た強欲な老婆が死体から服を脱がせて持ち去ったところ、ほどなく死に、その後霊になってこのあたりをさまようものだから老婆の供養にと奪衣婆(だつえば)の座像を安置するために建てたのが姥堂という。奪衣婆は熱田社の涙ヶ池のそばにあったものを移したものとされる。
 かつて姥堂があったあたりにこの神明社は建っているのだけど、日待と姥堂との関係は分からない。

 天道社というと、大須の日出神社や東区の松山神社を思い出す。
 日出神社にあった天道宮は清洲から移したもので、アマテラスとツクヨミを祀るとしていた。
 東区の松山神社は修験道に関係のある神社らしく、祭神はアマテラスとしている。
 これらの神社も元を辿るとアマテラスを祀る神社などではなく別の信仰によるものではないかと思う。
 日待にしても太陽信仰にしても、長い年月の中で様々な要素が入り交じって形を変えていったので、その実態はよく分からなくなっている。ミシャクジ信仰などもそうだ。

 神明社といってもその成り立ちや変遷はそれぞれで、ひとくくりにして理解しようとすると本質を見誤ることになる。
 一社ずつ個別に当たっていって、絡まった糸を解きほぐし、切れた糸を結び直すという地道な作業が必要だ。このサイトがその一助になることを願っている。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

伝馬神明社は日待信仰から

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