花表神社の花表(はなおもて)は神社のある花表町から取られたものだけど、戦前までは熱田東町字花表先という地名だった。 更に遡ると、花表先は江戸時代までは華表崎と表記して「とりいさき」と読ませていた。これが明治になって華表先に転じ、更に花表先となった。 華表と書いて「とりい」と読ませる例は古くからあり、もともとは中国の華表(かひょう)から来ているとされる。 天安門広場の前にある背の高い柱をテレビなどで見たことがある人は多いと思う。あれが華表だ。柱にはとぐろを巻く龍が彫られている。 宮殿や陵墓に続く参道の入り口両側に置かれる様子が神社の鳥居のようだということで華表をとりいと読ませたと考えられる。 ただし、中国における華表は建物のシンボルで、鳥居とは意味も役割も違う。 どうしてここが華表崎と呼ばれたかというと、熱田神宮(web)東の神門があったことにちなむとされる。神門は花表神社から見て北西150メートルほどのところにあった(地図)。 花表町は昭和14年(1939年)に熱田東町の一部より成立した。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、花表のあたりは田んぼしかなく、建物は描かれていない。東にはまだ自然河川だった精進川(今の新堀川)が蛇行しながら流れている。 明治29年(1896年)、三本松に日本車輌製造ができて花表にも工場が建った。今はカーマやアオキがあるところだ。 昭和に入ると北側に建物が建ち並んだ。 空襲で大きな被害を受けたものの、戦後間もなく復興して住宅地となった。
花表神社がいつ建てられたかを推測すると、早くても明治、遅ければ昭和に入ってからだろう。日本車輌製造ができた後か、花表町が成立した昭和14年頃かもしれない。 神社が西向きなのは住宅事情によるもので特別な意味合いはないと思う。 マンションと民家の間の狭い参道を進むと、奥が一段高くなっていて、その上に本殿がある。本殿は簡易な覆殿で覆われている。 社はひとつで、手前の提灯には左から津島神社、熱田神宮、秋葉神社とある。これは屋根神様の典型的な組み合わせだ(訪れた日はたまたま熱田神宮の尚武祭(しょうぶさい)の日で、普段は提灯や幟は出ていないはずだ)。 熱田区にある小規模神社はこのパターンが多い。それでいて神社名が神明社だったりするので少し戸惑う。 ここは主祭神が熱田大神ではないかと思う。
作成日 2017.8.17(最終更新日 2019.9.6)
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