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神明社(下村講)

昔も今も下村一族の神社

下村講神明社

読み方 しんめい-しゃ(しもむらこう)
所在地 名古屋市緑区大高町字西丸根26 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 無格社・十五等級
祭神 国常立尊(くにのとこたちのみこと)
アクセス JR東海道本線「大高駅」から徒歩約13分
駐車場 なし
その他  
オススメ度

 かつて下村一族が氏神を祀っていた社で、今は神明社と称している。
『愛知縣神社名鑑』はこう書く。
「社伝に、延元年間(1336-1339年)志摩国小浜の豪族下村九郎兵衛がこの大高の里に落ち来たり、神明大明神を本所に勧請奉斎する。以来下村の氏族一統崇敬あつく年々祭祀怠りなく氏族が代々奉仕し、今日五十軒に及ぶまで繁栄する」
『愛知縣神社名鑑』は昭和の古い情報を元に書かれているので現状とはそぐわない部分があるのだけど、書かれた時点では下村一族が50軒まで増えて今(その当時)も下村一族が祀っているというふうに取れる。
 下村講という文字も見えるので、一族郎党だけではなく下村講を組織してそこが管理しているのかもしれない。

 志摩国小浜は今の三重県鳥羽市小浜町(おはまちょう)で、鳥羽駅のある中心部の北、小浜半島がそれに当たる(離れ小島のイルカ島も小浜町になる)。
 1336年といえば南北朝時代だ。”大高の里に落ち来たり”という表現を信じれば勢力争いに敗れてこの地にやってきたということか。

【追記】 2022.6.27
 鳥羽在住の下村さんによると、下村家の本家筋の方たちは現在も鳥羽在住とのこと。
 江戸時代はイルカ島の管理支配もされていたそうだ。
 ということは、大高に移ってきたのは下村家の一部の人で、その人たちが後にこの社を祀ったと理解していいだろうか。

 鳥羽を本拠にしていたことでよく知られるのが九鬼水軍だ。ただし、九鬼嘉隆などが活躍するのはもう少し後の戦国時代で、室町時代は伊勢の北畠氏が志摩国まで支配していた。
 そんな中で下村一族がどのような立場にあったのかは分からない。豪族としてある程度の力を持っていたのか、それほどでもなかったのか。
 下村(下邑)という名字が源氏、もしくは平家の血筋から来ている可能性を考えると、もともとは格式の高い家柄だったのが南北朝時代あたりになると勢力を弱めていったのかもしれない。
 鳥羽から大高のルートとしては、小浜半島を脱して北上し、伊勢湾を縦断して知多半島沿いを北上し、天白川を少しさかのぼれば大高に辿り着く。
 南北朝時代の大高あたりは土岐氏が支配し、大高城はその配下の池田頼忠が城主を務めていた。下村氏がそのあたりと絡んでいるかどうかは何とも言えない。
 場所としては北の鷲津砦と南の丸根砦の間なのだけど、これらの砦が築かれるのはもっと後の信長の時代だ。

 現在の祭神は国常立尊となっている。『愛知縣神社名鑑』は「神明大明神」という書き方をしているけど、それが国常立のことといえるかどうか。最初は下村氏の氏神を祀ったのが始まりではないだろうか。
 志摩国は場所柄、伊勢の神宮(web)とのつながりが深い地域で、地元で獲れた海産物を多く神宮に奉納していた。小浜は神饌(しんせん)として鯛(たい)を内宮に納めていた。的矢(まとや)は鱸(すずき)を内宮に、立神は牡蠣(かき)を外宮に納める習わしが明治まで続いた。
 そういう関係で伊勢の神宮の神を祀ることは自然なことなのだけど、それが国常立(クニノトコタチ)かというとやや疑問に思う。
 神明社でクニノトコタチを祀る場合、外宮の伊勢神道(度会神道)の影響を受けた可能性が高い。下村一族が小浜からやって来たとすれば、小浜は内宮と縁の深いところなので、外宮の伊勢神道のクニノトコタチとは相容れない気もする。

 大高歴史の会の説明書きでは、下村九郎兵衛の一族が志摩国小浜から大高に移ってきたのは延元年間(1336-1340年)で、神社はその子孫が寛文元年(1661年)に一族の繁栄を願って神明社を勧請したとする。
 これは現実的であり得る話だ。それでも、どうして祭神をアマテラスとせずクニノトコタチとしているのかという謎は残る。

 平成17年に『下村一族のあゆみ』という小冊子が発行されている。著者は下村義雄とあるので、下村家の人だろう。名古屋の鶴舞図書館と緑図書館が所蔵しているのだけど貸し出し禁止なので読むには図書館まで出向かないといけない。機会があれば目を通したい。
 尾張藩士の内藤正参と赤林信定による『張州雑志』(ちょうしゅうざっし/1789年)には「神明宮 社司下村氏」とある。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、神社のあるあたりは丘陵地で、西側の狭い平地で米作りをしていたことが分かる。神社のある場所は小山の上で、針葉樹林の記号が描かれている。道を挟んで南東に丸根砦がある。
 1932年(昭和7年)になると丘陵地に道路が通り、わずかに民家が建ち始める。
 1959-1960年の地図では西の麓に山神社の鳥居マークが現れるも、神明社の鳥居マークはない。北の方に少し家が建った。
 1968-1973年には南の方に家が増えた。
 1976-1980年になると丘陵地の道沿いに家が建つようになり、その後少しずつ増えていった。

 現在も下村講の方たちによって新年祭と9月には秋祭りが行われているという。大きな牡丹餅(ぼたもち)を作って奉納して食べることで地元ではちょっと知られているようだ。
『愛知縣神社名鑑』は特殊神事として次のように書いている。
「例祭には往古より氏族等糯米小豆を持寄り大牡丹餅を作り神饌として供え祭典執行後神前にて氏族一統戴くを例としてきたが近年は宿本に氏族一統相集まり大牡丹餅を作り一同が戴くこととなりその光景は壮観である」
 牡丹餅が食べたいわけではないけれど、神事は見てみたい気がする。
 いずれにしても、この神社は今も下村家の私的な神社という性格が強いようだ。

 

作成日 2018.10.22(最終更新日 2022.6.27)

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