日出神社(大須)

移されて合わされて分かれてまた合わさった

大須日出神社

読み方 ひので-じんじゃ(おおす)
所在地 名古屋市中区大須2-3-17 地図
創建年 不明
社格等 村社・十四等級
祭神 軻遇突智命(かぐつちのかみ)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
月夜見尊(つくよみのみこと)
猿田彦命(さるたひこのみこと)
田心姫命(たごりひめのみこと)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
 アクセス

・地下鉄鶴舞線「大須観音駅」2番出口から徒歩約7分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 基本部分は清洲越しで清洲から移されてきた2つの神社が合体したものなのだけど、現在に到る経緯は少し複雑で、正体はやや謎めいている。
『愛知縣神社名鑑』はこう説明している。
「元清洲町朝日に鎮座愛宕大権現と称し、慶長十六年(1611)清洲越えの際今の社地に遷座、明治5年に列格し、明治42年社殿を修造と共に境内神社、宗像社、白髭社香良洲社と日ノ出町三十八番の村社神明社(朝日天道社と称し清洲町朝日に鎮座のところ慶長還府に際し移る)を合祀合併し、同年、日出神社と改称した」
 しかし、これだけではまったく言葉足らずで、どういうことか理解できる人は少ないんじゃないかと思う。
『尾張志』や『尾張名所図会』を併せて読むと、なるほどそういうことかと理解できるのだけど、これがけっこうややこしいので説明すると長くなる。

 まず最初に理解しておくべきポイントは、清洲にあった愛宕大権現と天道宮という2つの社を、名古屋城築城の際に城下町に移してきたということだ。
 ここは南寺町といって、家康によって寺が集められた一角だった。現在の大須商店街から白川公園(地図)にかけての一帯を指す。
 もうひとつ、東寺町は現在の新栄町一帯にあった。
 これは名古屋城の南と東の防御を固めるという目的もあったとされる。広い境内があれば兵士を集めて迎え撃つことができるからだ。
 寺町に集められた寺というのも清洲から移されたものが多い。その数は100寺を超える。
 清洲時代の天道宮と愛宕大権現の創建のいきさつについては伝わっていないため、詳しいことは分からない。清洲にあったということは、少なくとも江戸時代以前にあったということで、室町時代、もしくはそれ以前まで遡るかもしれない。

 天道宮について『尾張志』はあれこれ書いているのだけど、まとめると以下の通りだ。
「南天道町にあり天照大日孁貴尊(アマテラスオホヒルメムチ)月夜見尊を祀ると府志にいへる
 鎮座の年月知られす
 天道というのは中世仏家より呼出せる社号にて古典神典に見えたる事なし
 天道は日神を祭れるより出たる社号なり
 旧地は清洲の野田町といひしを慶長御遷府のときここに移し祭る」

『尾張名所図会』に絵図がある。南寺町の南エリアの北の方にあって、かなり広い境内を持つ立派な社だったようだ。
 そして、説明はこうなっている。
「天道社(てんどうのやしろ) 松原町にあり。今は此社あるにより天道町と呼べり。もと清洲の野田町にありて、朝日天道といひしを、慶長御遷府の時ここにうつせるなり
 本社 天照大神・月読命の二座なり」

 今は天道社という名前の神社は名古屋には残ってないのだけど、『尾張志』などではちょくちょく出てくるから、中世から近世にかけてはわりとポピュラーな神社だったようだ。
 その正体は今となっては分かりづらいものとなっている。「天道というのは中世仏家より呼出せる社号」で、「日神を祭れるより出たる社号」というから、仏教側から見る日の神を祀る社だったと考えられる。
 それにアマテラス、ツクヨミを当てたのは江戸時代中期以降のことかもしれない。
 紀伊系の神である天道根命(あまのみちねのみこと)と関係があるのかないのか。
 もともと松原町といっていたのがこの天道宮があることで天道町と呼ばれるようになったというくらいだから、影響力の大きな社だったのだろう。

 もう一社、愛宕大権現について『尾張志』はこう書いている。
「愛宕ノ社 南寺町大乗院境内にあり伊弉冉尊火産霊命(ホムスビ)をまつるといへり社地は旧清洲朝日村にて慶長五子年に性高院君建立ましましけるを其後御迂府の時ここに移せるよしいへり 清洲なる旧地にも愛宕社あるを今も猶大乗院掌れるよし也」

 愛宕社は、南寺町にある大乗院の中にあったというのだ。
『尾張名所図会』の絵図を見ると、天道宮のすぐ南に大乗院が描かれている。描かれ方からして相当大きな寺院だったようだ。
 愛宕社という表記はないものの、小山の上に乗っている社がそうだろうか。もしくはこれが大乗院の本堂で、その横の小さな祠が愛宕社かもしれない。
 祭神はイザナミ(伊弉冉尊)とホムスビ(火産霊命)としている。
 火産霊命はカグツチ(火之迦具土神)の別名とされるのだけど、これも江戸時代中期以降に当てられた祭神ではなかったかと思う。神仏習合の神を日本神話の神に当てるのは、国学的な考え方だ。
 愛宕社の総本社は京都にある愛宕神社で、ここはもともと仏教色の強い神社というかほぼ寺だった。
 700年頃(大宝年間)に、修験道の祖とされる役小角と白山の開祖である泰澄によって朝日峰に神廟が建てられたことに始まり、781年に慶俊(けいしゅん/きょうしゅん)と和気清麻呂によって愛宕山に愛宕大権現を祀る白雲寺が建立され、修験道の道場として信仰を集めることになる。
 愛宕神社と改称したのは明治の神仏分離令以降のことだ。
 現在の祭神は、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、埴山姫神(はにやまひめのみこと)、天熊人命(あめのくまひとのみこと)、稚産霊神(わくむすびのかみ)、豊受姫命(とようけひめのみこと)となっている。
 カグツチは本殿ではなく若宮で祀られている。

「性高院君建立ましましけるを其後御迂府の時ここに移せるよし」というのも解説がないと何のことかよく分からない。ついでなので長くなるのを承知で書いてしまう。
 性高院君というのは松平忠吉(まつだいらただよし)のことをいう。
 徳川家康の四男で、2代将軍・秀忠の同母弟に当たる。徳川四天王の一人である井伊直政の娘婿でもあった。
 文武両道で人望も篤かった人物だったようで、関ヶ原の戦いで武勲を挙げて家康から清洲を与えられて清洲城主になった。
 そのまま生きていれば、名古屋城初代城主は忠吉がなっていた可能性が高い。しかし、1607年に27歳で死去してしまう。関ヶ原の戦いで受けた傷によるともいわれる。
 代わって清洲城主になったのが家康の九男の義直で、義直が名古屋城初代城主兼尾張藩初代藩主となった。
 忠吉の法号(法名)が性高院殿とされたため、死後に性高院君と呼ばれることになる。
 愛宕社が入っている大乗院は、慶長五年(1600年)に忠吉が清洲に建てた寺だ。
 1600年ということは、関ヶ原の戦いの後、忠吉が清洲に移ってほどなく建てたということになる。
 名古屋城築城に伴う清洲越しのときに、南寺町に移されてきたということだ。

『尾張名所図会』はこう書いている。
「愛宕山大乗院 徳林寺の向いにあり。当山派の修験紀伊国の根来同行にて、今は高野山の預なり。慶長五年 三位中将忠吉君のご建立にて、清洲の朝日村に在りしを、慶長十六年ここにうつして、今の号に改む。凡(およそ)名古屋にて相撲を勤進(かんじょう)する時、多くはこの境内にて興行する事は、江戸の回向院にて興行する例に同じ
 愛太子社(あいたいしのやしろ) 飯綱権現(いいつなごんげん)を合せ祭る。また辯財天社・太郎坊社あり」
 名古屋城下に移した際に「愛宕山大乗院」という号に改めたということは、清洲時代は別の号だったということだ。清洲にあるときは、大乗院と愛宕大権現は別にあって、名古屋城下に移したときに愛宕社を大乗院の境内社として愛宕山という号にしたということだろうか。そのあたりはちょっとよく分からない。
『尾張名所図会』の絵図にも、境内に土俵が描かれている。江戸時代に名古屋で相撲の興行をするときはこの寺で行われていたようだ。
 愛太子社と飯綱権現を合わせ祀るというのも気になるところだけど、今回はちょっとやめておく。愛太子社というのは何だろう。聖徳太子と関係あるのだろうか。飯綱権現(飯縄権現)は信濃の飯綱山の山岳信仰だ。 
 紀伊国の根来も修験信仰だし、紀伊国というと天道社が天道根命と関係があるとすると紀伊というキーワードでつながる。
 大乗院がその後どうなったかは知らない。熱田区にある大乗院は関係がなさそうなので、明治の廃仏毀釈のときにでも廃寺となっただろうか。
 ついでに書くと、忠吉が母親の菩提を弔うために建てた性高院(もとは正覚寺)という寺が名古屋市千種区幸川町に現存している。
 国宝指定の表門などを有していたものの、紆余曲折を経て、今は8階建てのビルの中に入っている。

 ようやく予備知識を整理できたところでもう一度『愛知縣神社名鑑』の説明文を読んでみる。
 「明治42年社殿を修造と共に境内神社、宗像社、白髭社香良洲社と日ノ出町三十八番の村社神明社(朝日天道社と称し清洲町朝日に鎮座のところ慶長還府に際し移る)を合祀合併し、同年、日出神社と改称した」
 ん? なんか、今ひとつ分からないというか、話がつながらない。
 えーと、まず、清洲にあった天道宮と愛宕大権現を移し、愛宕大権現は大乗院の中にあった。ここまではいい。天道宮ではアマテラスとツクヨミを祀り、愛宕大権現ではイザナミとカグツチを祀っていた。
 明治の神仏分離令で、大乗院から愛宕社は分けられて独立したのだろう。その境内社に宗像社と白髭社と香良洲社があったということだ。
 宗像社ではイチキシマヒメ、タゴリヒメ、タギツヒメを祀り、白髭社ではサルタヒコを祀っていた。
 で、香良洲社(からすしゃ)ではアマテラスの妹とされる稚日女命(わかひるめのみこと)を祀っていたはずなのだけど、どういうわけか『愛知縣神社名鑑』の祭神から抜け落ちしている。神社の由緒書きにはあるから、『愛知縣神社名鑑』のミスなのか、認めない理由が何かあったのか。
 香良洲神社は、三重県津市香良洲町にある神社で、伊勢の神宮ともゆかりが深い。
「お伊勢詣りをして加良須に詣らぬは片参宮」といわれるほどで、伊勢参りの参拝者で賑わったという。
 女性の守護神や、織物の神として今も香良洲社を祀っているところがある。
 天道宮は神明社と名前を変えて存続したことが分かる。祭神はアマテラスとツクヨミで変更がなかったようだ。
 明治末の神社合祀政策によって、これらの神社をひとつに合祀させられてしまったというのが実情に違いない。そのとき、社名を日出神社に改めたということだ。
 名前はここが日出町と呼ばれたことに由来する(日出町と大須観音と遊廓・旭楼などの歴史については素盞男神社(日吉町) のところで書いたので参照されてください)。

 若宮大通りに面した北側から入ってしまうと、なんか変な作りの神社だなという印象を受ける。東側に入り口があるのを知らなかった。
 この日は境内で朝市が開かれていて、東の方まで行かなかったというのもある。
 社殿は小高い山の上にあり、それは前方後円墳の円墳部分とされる。
 発掘調査は行われていないため正確なことは分からないそうだけど、5世紀頃の前方後円墳と考えられている。南の日ノ出街園があるあたりが前方部に当たるようだ。規模としては中規模のものだろう。
 このあたりは大須二子山古墳を始め、那古野山古墳、富士浅間神社古墳が集まっているエリアで、大須古墳群と呼ばれている。
 熱田台地の南の熱田神宮から北に続く尾張氏の支配域の北限に当たるのではないかと個人的には考えている。
 ただ、大須古墳群が尾張氏のものかどうかは何とも言えない。別の氏族で尾張氏に従ったのか、もしかしたら従わない他の勢力だったという可能性もある。

 歴史を紐解いてみればなかなか興味深い神社だった。
 天道社や香良洲社、飯縄権現などについては、中途半端になったので、別のところで出てきたらもう少し書きたいと思う。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

愛宕大権現+天道社=日出神社

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