本体部分は清須越で清須から移された2つの神社が合体したものなのだけど、現在に到る経緯が少し複雑で、正体はやや謎めいている。 『愛知縣神社名鑑』はこう書く。 「元清洲町朝日に鎮座愛宕大権現と称し、慶長十六年(1611)清洲越えの際今の社地に遷座、明治5年に列格し、明治42年社殿を修造と共に境内神社、宗像社、白髭社香良洲社と日ノ出町三十八番の村社神明社(朝日天道社と称し清洲町朝日に鎮座のところ慶長還府に際し移る)を合祀合併し、同年、日出神社と改称した」 しかし、これだけではまったく言葉足らずで、どういうことか理解できる人は少ないと思う。 『尾張志』(1844年)や『尾張名所図会』(1844年)を併せて読むと、なるほどそういうことかと理解できるのだけど、これがけっこうややこしくて説明すると長くなる。
まず最初に理解しておくべきポイントは、清須にあった愛宕大権現と天道宮の2つの社を、名古屋城(web)築城の際に城下町に移してきたということだ。それが1611年(慶長16年)という。 ここは南寺町といって、家康によって寺が集められた一角だった。現在の大須商店街から白川公園(地図)にかけての一帯をいう。 もうひとつの寺町、東寺町は現在の新栄一帯にあった。 これは名古屋城の南と東の防御を固めるという目的もあったとされる。広い境内があれば兵士を集めて迎え撃つことができるからだ。 寺町に集められた寺の大部分は清須から移したものだ。その数は100寺を超える。 清須時代の天道宮と愛宕大権現の創建のいきさつについては伝わっていないため、詳しいことは分からない。清須にあったということは、少なくとも江戸時代以前にさかのぼる。 天道宮について『尾張志』はあれこれ書いているのだけど、まとめると以下の通りだ。 「南天道町にあり天照大日孁貴尊(アマテラスオホヒルメムチ)月夜見尊を祀ると府志にいへる 鎮座の年月知られす 天道というのは中世仏家より呼出せる社号にて古典神典に見えたる事なし 天道は日神を祭れるより出たる社号なり 旧地は清須の野田町といひしを慶長御遷府のときここに移し祭る」 『尾張名所図会』に絵が描かれている。 南寺町の南エリアの北の方にあって、かなり広い境内を持つ立派な社だったようだ。 そして、説明はこうなっている。 「天道社(てんどうのやしろ) 松原町にあり。今は此社あるにより天道町と呼べり。もと清須の野田町にありて、朝日天道といひしを、慶長御遷府の時ここにうつせるなり 本社 天照大神・月読命の二座なり」 今は天道社という名前の神社は名古屋には残ってないのだけど、『尾張志』などではちょくちょく出てくるから、中世から近世にかけてはわりとポピュラーな神社だったようだ。 その正体は今となっては分かりづらいものとなっている。「天道というのは中世仏家より呼出せる社号」で、「日神を祭れるより出たる社号」というから、仏教側から見る日の神を祀る社だったと考えられる。 それにアマテラス、ツクヨミを当てたのは江戸時代中期以降のことかもしれない。 紀伊系の神である天道根命(あまのみちねのみこと)と関係があるのかないのか。 もともと松原町といっていたのが、この天道宮があることで天道町と呼ばれるようになったというくらいだから、影響力の大きな社だったのだろう。
もう一社、愛宕大権現について『尾張志』はこう書いている。 「愛宕ノ社 南寺町大乗院境内にあり伊弉冉尊火産霊命(ホムスビ)をまつるといへり社地は旧清須朝日村にて慶長五子年に性高院君建立ましましけるを其後御迂府の時ここに移せるよしいへり清須なる旧地にも愛宕社あるを今も猶大乗院掌れるよし也」 愛宕社は、南寺町にある大乗院の中にあったというのだ。 『尾張名所図会』の絵図を見ると、天道宮のすぐ南に大乗院が描かれている。相当大きな寺院だったようだ。 愛宕社という表記はないものの、小山の上に乗っている社がそうだろうか。もしくはこれが大乗院の本堂で、その横の小さな祠が愛宕社かもしれない。 祭神はイザナミ(伊弉冉尊)とホムスビ(火産霊命)としている。 火産霊命はカグツチ(火之迦具土神)の別名とされるのだけど、これも江戸時代中期以降に当てられた祭神かもしれない。 愛宕社の総本社は京都にある愛宕神社(web)で、ここはもともと仏教色の強い神社というかほぼ寺だった。 700年頃(大宝年間)に、修験道の祖とされる役小角と白山の開祖である泰澄によって朝日峰に神廟が建てられたことに始まり、781年に慶俊(けいしゅん/きょうしゅん)と和気清麻呂によって愛宕山に愛宕大権現を祀る白雲寺が建立され、修験道の道場として信仰を集めることになる。 愛宕神社と改称したのは明治の神仏分離令以降のことだ。 現在の祭神は、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、埴山姫神(はにやまひめのみこと)、天熊人命(あめのくまひとのみこと)、稚産霊神(わくむすびのかみ)、豊受姫命(とようけひめのみこと)となっている。 カグツチは本殿ではなく若宮で祀られている。
「性高院君建立ましましけるを其後御迂府の時ここに移せるよし」というのも解説がないと何のことかよく分からない。 性高院君というのは松平忠吉(まつだいらただよし)のことだ。 徳川家康の四男で、2代将軍・秀忠の同母弟に当たる。徳川四天王の一人である井伊直政の娘婿でもあった。 文武両道で人望も篤い人物だったようで、関ヶ原の戦いで武勲を挙げて家康から清須を与えられて清須城(web)主になった。 生きていれば、名古屋城初代城主は忠吉がなっていた可能性が高い。しかし、1607年に27歳で死去してしまう。関ヶ原の戦いで受けた傷によるともいわれる。 そのあたりについては富部神社(南区)のページに書いた。 代わって清須城主になったのが家康の九男の義直で、義直が名古屋城初代城主兼尾張藩初代藩主となった。 忠吉の法号(法名)が性高院殿とされたため、死後に性高院君と呼ばれることになる。
愛宕社が入っている大乗院は、慶長五年(1600年)に忠吉が清須に建てた寺だ。1600年ということは、関ヶ原の戦いの後、忠吉が清須に移ってほどなくということだ。 名古屋城築城に伴う清須越のときに、愛宕権現とともに南寺町に移されてきた。 『尾張名所図会』はこう書いている。 「愛宕山大乗院 徳林寺の向いにあり。当山派の修験紀伊国の根来同行にて、今は高野山の預なり。慶長五年 三位中将忠吉君のご建立にて、清須の朝日村に在りしを、慶長十六年ここにうつして、今の号に改む。凡(およそ)名古屋にて相撲を勤進(かんじょう)する時、多くはこの境内にて興行する事は、江戸の回向院にて興行する例に同じ 愛太子社(あいたいしのやしろ) 飯綱権現(いいつなごんげん)を合せ祭る。また辯財天社・太郎坊社あり」 名古屋城下に移した際に「愛宕山大乗院」という号に改めたということは、清須時代は別の号だったということだ。清須にあるときは、大乗院と愛宕大権現は別にあって、名古屋城下に移したときに愛宕社を大乗院の境内社として愛宕山という号にしたということだろうか。そのあたりはちょっとよく分からない。 『尾張名所図会』の絵にも、境内に土俵が描かれている。江戸時代に名古屋で相撲の興行をするときはこの寺で行われていたようだ。 飯綱権現(飯縄権現)は信濃の飯綱山の山岳信仰だ。 太郎坊社というのはよく分からない。 大乗院がその後どうなったかは調べがつかなかった。熱田区にある大乗院は関係がなさそうなので、明治の神仏分離令以降に廃寺となっただろうか。 忠吉が母親の菩提を弔うために建てた性高院(もとは正覚寺)は名古屋市千種区幸川町に現存している。国宝指定の表門などを有していたものの、紆余曲折を経て、今は8階建てのビルの中に入っている。
以上を踏まえた上で、もう一度『愛知縣神社名鑑』の説明文を読んでみる。 「明治42年社殿を修造と共に境内神社、宗像社、白髭社香良洲社と日ノ出町三十八番の村社神明社(朝日天道社と称し清洲町朝日に鎮座のところ慶長還府に際し移る)を合祀合併し、同年、日出神社と改称した」 話が飛んでいて戸惑うのだけど、明治の神仏分離令で愛宕権現を大乗院から独立させて愛宕社として、天道社は神明社と改称していたのだろう。 神明社を合祀したということは、元からここにあったのは愛宕社の方ということになる。 明治42年に愛宕社とその境内社の宗像社、白髭社、香良洲社、元天道社だった神明社を合祀して日出神社としたということのようだ。 日出神社の名称はここが日出町と呼ばれていたことに由来する。日出町と大須観音と遊廓・旭楼などの歴史については素盞男神社(日吉町) のページに書いた。
祭神に田心姫命(タゴリヒメ)と市杵島姫命(イチキシマヒメ)が入っているのは宗像社を合祀したためだ。しかし、宗像三女神の湍津姫(タギツヒメ)が抜けている。 猿田彦(サルタヒコ)は白髭社の祭神だっただろう。 だとすると、香良洲社(からすしゃ)の祭神が見当たらない。 香良洲社の総本社は三重県津市香良洲町の香良洲神社(web)だ。伊勢の神宮(web)ともゆかりが深い。 「お伊勢詣りをして加良須に詣らぬは片参宮」といわれるほどで、伊勢参りの参拝者で賑わったという。 祭神の稚日女命(ワカヒルメ)はアマテラスの妹で、スサノオが暴れたことで命を落としたとされる神だ。 香良州神社の他、兵庫県神戸市の生田神社(web)の祭神にもなっている。生田神社は式内の名神大社で、香良州神社は欽明天皇時代(539-571年)に生田神社から勧請して建てられたとされる。 女性の守護神や、織物の神として祀る香良洲社が全国にある。 日出神社の祭神の中にワカヒルメ(稚日女命)が入っていない理由が分からない。『愛知縣神社名鑑』の記載ミスなのか、神社の歴史の中でいつしか抜け落ちてしまったのか。
若宮大通りに面した北側から入ってしまうと、なんか変な作りの神社だなという印象を受ける。東側の鳥居から入ると正面に社殿があるのでしっくりくる。 社殿は小高い山の上にあり、それは日出神社古墳と名づけられた前方後円墳の円墳部分とされる。 発掘調査は行われていないため正確なことは分かっていない。出土品などから5世紀頃の前方後円墳と考えられている。 南の日ノ出街園があるあたりが前方部に当たるようだ。規模としては中規模のものだろう。 このあたりは大須二子山古墳をはじめ、那古野山古墳、浅間神社古墳などが集まっているエリアで、大須古墳群と呼ばれている。 神社は大きく場所を移されると、移される以前の歴史が分かりづらくなる。清須から移された愛宕権現と天道もそうだ。これは移される以前の清須の歴史を辿らないと分からないだろう。 いずれ市外編をやったときに何か分かるかもしれない。名古屋の神社の歴史を知るためには市内だけでは充分ではなくて、尾張国という範囲で考える必要がある。清須もひとつ重要な鍵を握っている。
作成日 2017.8.1(最終更新日 2019.9.14)
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