1750年(寛延3年)に開発された甚兵衛後新田(じんべえうしろしんでん)の氏神として建てられた神社だ。 1696年(元禄9年)に福田村の豪農だった西川甚兵衛吉蔵が甚兵衛新田を開発し、その孫の西川甚兵衛吉成が甚兵衛新田の南を自己資金で干拓して新田を開発したのが甚兵衛後新田ということになる。 神社創建は開発を始めた1750年で、新田の完成は4年後の1754年だった。 しかし、日照りや塩害に悩まされ、13年間も作物がまとも穫れず、初めて縄入(検地)が行われたのは1802年だったと記録にある。
『愛知県神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「社伝に寛延三年(1750)当新田(旧称甚兵衛後新田)開発、村内鎮護のため同年9月産土神として奉斎せるものなる、と。明治12年9月5日、村社に列格する。昭和34年9月、伊勢湾台風により社殿被災したが氏子の熱意により復興し、昭和55年参集殿を造営した」 特殊神事として神楽車巡行と湯立神事を行うとある。湯立神事は大釜に湯を沸かして巫女などが笹を熱湯に浸して振りかけるという厄払い神事で、古くからあるものなのだけど、江戸時代から始めたところもあったようだ。名古屋ではあまり例がない。今でも行われているのだろうか。 神楽については神明社(善進町)のページに少し書いた。
『尾張志』(1844年)には「神明ノ社 甚兵衛後新田にあり」とある。 『尾張徇行記』(1822年)の甚兵衛後新田の項に神社についての記載はない。
神社がある多加良浦町(たからうらちょう)は、昭和17年(1942年)に惟信町(いしんちょう)の一部より成立した。 宝来新田(ほうらいしんでん)があった場所ということで、宝を多加良とした。こういうのを雅名(がめい)という。風流な呼び方といった意味だ。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、神社があるのは甚兵衛後新田の西端で、庄内川の堤防沿いだったことが分かる。もともとここに建てられたのかどうかちょっと分からない。今建っている場所に鳥居マークが現れるのは1920年(大正9年)の地図からだ。 神社南の惟信高校は大正14年(1925年)に愛知県惟信中學校として開校し、昭和23年(1948年)に男女共学の愛知県立惟信高等学校となった。 惟信町の惟信(いしん)の由来は、土地区画整理事業を推進した服部善之助の諱(いみな)が惟信(これのぶ)だったことから来ている。 1932年(昭和7年)の地図を見ると鉄道が南北に走っている。熱田区の尾頭橋と港区の稲永町を結ぶ名古屋市電下之一色線だ。 もう少し正確に言うと、市電になる前は築地電軌(大正5年創業)という会社が運営する路面電車(電気軌道)で、築地と稲永新田を結んでいた。当時はまだ沿線に民家も少なく、臨海地区に通勤する労働者や漁師などが主な利用客で、夏は多加良浦の海水浴場へ行く客で賑わったという。 大正から昭和初期にかけて多加良浦は海水浴場だけでなく三階建ての料亭や多くの飲食店、遊技場が集まる盛り場だった。その頃のことを覚えている人も少なくなっただろう。今は往事の面影はまったく残っていない。海水浴場は水が濁って人気が落ち、昭和30年頃自然消滅した。 築地電軌の路線は昭和12年(1937年)に名古屋市に買収されて名古屋市電の一部となる。 その市電も昭和44年(1969年)には廃止された。市電で惟信高校に通っていた学生達はずいぶん困ったという話が伝わっている。 住宅が増えたのは1960年代以降のことで、今では田畑も完全になくなり、すっかり住宅地となった。 街並みは変わり、神社の社殿は建て直され、人が入れ替わりながら時間が積み重なっていく。西川甚兵衛の魂は今もここにあるだろうか。
作成日 2018.7.16(最終更新日 2019.7.24)
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