貴船社(一社)

三村三社の貴船社の創建順はどうだったのか

一社貴船社

読み方 きふね-しゃ(いっしゃ)
所在地 名古屋市名東区一社3丁目14番地 地図
創建年 不明
社格等 村社・十四等級
祭神 罔象女神(みつはのめのかみ)
アクセス 地下鉄東山線「一社駅」から徒歩約12分
駐車場 なし
その他 例祭 10月15日
オススメ度

 名古屋市内に2社だけ現存する貴船社のうちの1社。
 もう1社も同じ名東区の貴船にあり、区別するために貴船の方を貴船社地図)、一社の方を貴船神社と呼んでいる。どちらも正式名は貴船社だ。

 かつてこのあたりは社郷と呼ばれ、室町時代に上社村(かみやしろむら)、下社村(しもやしろむら)、一色村(いしきむら)に分かれたとされる。一色村は今の一社のあたりにあった。
 3つの村ではそれぞれ貴船明神を祀っていた。
 社郷は矢白の伝説から来ているという話がある。そのあたりも含めて社三村のあらましについては貴船の貴船社のページに書いた。
 白い矢の伝説は人身御供として白羽の矢が立ったことが由来ではないかと個人的な推測もしてみた。
 矢白社が貴船社になったかどうか。矢白社を境に北を上社、南を下社と分けたというのだけど、矢白社自体の実在を示すものは何もない。
 社は八代または屋代から来ているのではないかと津田正生は『尾張国地名考』の中で書いている。屋代は斎場(いみば)から来ていて、斎場で神を祀ったことから宮の代わり、屋代と呼ばれ、そこから社に転じたのではないかと。
 同書で一色村については、新居や築地といった地名と同じように新たに居を構えるという意味の居敷から来ているのではないかとしている。一色の呼び名が「いっしき」ではなく「いしき」だったことからするとその可能性は考えられる。
 別の話として、柴田勝重が築いた一色城から村名になったという説もある。その一色は足利家の有力大名、一色家との関わりからともいうのだけど、先に一色村があれば一色城は村名から来ているということになる。

 貴船の貴船社は江戸時代前期の1662年創建と伝わっている。
 一社(一色村)の貴船社は創建を不明とする。
『愛知縣神社名鑑』は1684年(貞享元甲子年)8月に社殿を再建した記録が残っていると書いている。それが本当であれば、一色村の貴船社も下社村(貴船)の貴船社と同じ時期の創建ということになるだろうか。
 ただ、1670年頃まとめられた『寛文村々覚書』では、その当時の一色村にあった神社は山神だけということになっている。
 1822年の『尾張徇行記』や1844年の『尾張志』では、一色村には山神、貴船、富士の三社があると書かれている。
 1662年創建の下社村の貴船社は『寛文村々覚書』(1670年頃)に載っていて、1684年に再建された一色村の貴船社は載っていないことからすると、下社村貴船社はぎりぎり間に合って一色村貴船社はぎりぎり間に合わなかったということになるだろうか。1670年代前半創建ということは考えられるけど、そこまで絞り込んでいいかどうか。

 江戸期の書の一色村の項はそれぞれ以下のようになっている。

『寛文村々覚書』
「山之神壱社 春日井郡新居村 祢宜 与太夫持分 社内年貢地」

『尾張徇行記』
「山神祠覚書ニ、社内年貢地、新居村祢宜与太夫持分 新居村祠官谷口仁太夫書上ニ、貴船大明神境内三畝廿歩、山神境内三畝六歩、富士権現境内廿歩、イツレモ年貢地」

『尾張志』
「貴船社 山神ノ社 富士ノ社」

 新居村というのは今の尾張旭市新居町で、社村からは6キロ以上も離れている。藤森村の神明社も新居村祢宜の持分だったようで、よほど力のある家だったのか、藤森村、社村あたりには祢宜がいなかったのか。
 現代でもいくつもの兼務社を抱える宮司はたくさんいるのだけど、江戸時代も神職不足だったのかもしれない。

 一色村の成立についてもう少し考えてみる。
 一色城があったとされるのは今の一社の貴船社と隣接する神蔵寺(じんぞうじ)のあたりだったとされている。
 神蔵寺を創建したのは柴田源六源勝重で、勝重は同時に一色城主でもあった。一色城築城と神蔵寺が同じ時期だとすると、神蔵寺創建年の1501年が一色城の築城年ということになりそうだ。神蔵寺は一色城内の東側に建てられた(1734年に現在地に移転している)。勝重は1503年に没したとされる。
 一色の由来は先ほど書いたように居敷から来ている可能性が考えられる。村名が先で、城の名が後ということになるだろうか。
 柴田勝重の出自についてははっきりせず、よく分かっていない。足利家大名の一色家の家臣だったという話があるも定かではない。斯波氏の一族で、越後国新発田を領したことから柴田を名乗ったというのも信じていいかどうか分からない。
 勝重の孫(またはひ孫)の柴田勝家は下社城で1522年(1530年とも)に生まれたとされている。ただ、『張州府志』(1752年)では上社村の生まれとしており、父は勝義とされるも、こちらもはっきりしない。
 勝家は後に信長に仕え、織田四天王のひとりと呼ばれる活躍をすることになる。
 一色城は1584年の小牧長久手の戦いのときに羽柴軍によって焼かれ、廃城になったと伝わっている。
 ただし、神蔵寺は焼けなかったようだ。
 下社城は勝家が1575年に越前の北ノ庄城に移って以降に廃城になったとされる。
 城が廃城になっても村がなくなったわけではなく、柴田一族のすべてが他に移ったわけでもなかっただろう。ほどなく戦国時代は終わり、江戸時代を迎えたとき、柴田一族や村人たちはそのまま一色村や下社村で暮らしたと考えられる。神社を建てたのもそれらの人たちだったのではないかと思う。

 下社村、上社村、一色村の貴船社の創建順なのだけど、『寛文村々覚書』や『尾張徇行記』の記述からすると、前々除となっている上社村が最初で、次に下社村、最後に一色村だったと考えられる。下社村の貴船社は年貢地となっており、1608年の備前検地以降に建てられた可能性が高い。一色村の貴船社は1670年頃完成の『寛文村々覚書』に載っていない。
 ただし、そう予想できるというだけで確実と言えるわけではない。上社村の氏神は山王(今の日吉神社)で、上社村の貴船社は明治に無格社のまま日吉神社に合祀されているのも引っかかる。
 社郷の集落がいつ頃成立したのかも重要なポイントなのだけど、それを予測するのは難しい。

 一社の貴船社も、貴船の貴船社同様、分かるようで分からない神社だ。
 創建順が予想とは違っていたら根本的に考え直さないといけない。
 柴田家は貴船社創建に関わっているのかいないのか。雨乞いが目的として、どうして龍神ではなく貴船の神を祀ったのか。貴船明神にはもっと別の理由があったのかもしれない。
 室町から江戸時代にかけての名東区の歴史をもう少し深く広く見ていかないと神社についても見えてこない気がする。

 

作成日 2018.1.18(最終更新日 2019.1.29)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

一社の貴船神社はわりと立派だ

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