貴船社(一社)

先の貴船社か後の貴船社か

一社貴船社

読み方 きふね-しゃ(いっしゃ)
所在地 名古屋市名東区一社3丁目14番地 地図
創建年 不明
社格等 村社・十四等級
祭神 罔象女神(みつはのめのかみ)
アクセス

・地下鉄東山線「一社駅」から徒歩約12分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 名古屋市内に2社だけ現存する貴船社のうちの1社。
 同じ名東区内にあって、どちらも貴船社という名前で紛らわしいので、区別するために貴船の方を貴船社地図)、一社の方を貴船神社と呼んでいる。
 かつてこのあたりは社郷と呼ばれ、上社村(かみやしろむら)、下社村(しもやしろむら)、一色村(いしきむら)があった。
 貴船の貴船社が下社村で、一社の貴船神社が一色村、上社村にも貴船社があったのだけど日吉神社に合祀されて現存していない。
 社(やしろ)の地名は矢白から来ているという話がある。そのあたりについては貴船の貴船社のところで書いた。
 武内宿禰(たけうちのすくね)がこの地を通ったとき水不足で困っている村人たちに、白鷹の羽で作った矢を与え、水神を祀るように言ったところ水不足は解消され、白い矢を祀った社と矢白社と呼び、それが郷の名にもなったという話だ。
 社の上と下はこの矢白社を基準に分けたというのだけど、矢白社は現存しないし、そもそもあったかどうかも分からない。時代的に武内宿禰というのはいかにも古すぎる。ヤマトタケルの父の景行天皇の時代だからだ。
 その他、社の由来として八代や屋代などから来ているという説がある。
『尾張国地名考』の中で津田正生は、屋代は斎場(いみば)から来ていて、斎場で神を祀ったことから宮の代わり、屋代と呼ばれ、そこから社に転じたかと書いている。
 一色村に関しては居敷から来ているという説を、同じく『尾張國地名考』の中で紹介している。新居や築地といった地名のように、あらたに屋敷を構えるといった意味だ。
 一色は「いっしき」ではなく「いしき」だったことかしてもその可能性はありそうだ。
 一色村と社村のどちらが先だったのか。一色村が左にあって、その右上に上社村、右下に下社村という位置関係からすると、最初に一色村に貴船社が建てられ、その後村は右に広がり、上下の社村ができ、それぞれに貴船社が勧請されたという流れだったと理解すると説明はすっきりする。実際のところどうだったかは分からないけれど。

 貴船の貴船社の由緒では創建は江戸時代前期の1662年としている。
 一社の貴船社は創建を不明とする。
 記録としては、1684(貞享元甲子年)8月に社殿を再建したというのが残っている。少なくともそのとき以前からあったということは確かで、なおかつこれが最初の再建とは限らない。

『寛文村々覚書』や『尾張志』など、江戸期の一色村、上社村、下社村のそぞれの神社については貴船の貴船社のページに書いた。
 一色村だけ抜き出すと以下のようになっている。

『寛文村々覚書』
「山之神壱社 春日井郡新居村 祢宜 与太夫持分 社内年貢地」

『尾張徇行記』
「山神祠覚書ニ、社内年貢地、新居村祢宜与太夫持分 新居村祠官谷口仁太夫書上ニ、貴船大明神境内三畝廿歩、山神境内三畝六歩、富士権現境内廿歩、イツレモ年貢地」

『尾張志』
「貴船社 山神ノ社 富士ノ社」

 これらの内容が正しいとすると、『寛文村々覚書』が成立した1670年頃の時点で一色村にあったのは山神社のみで、その後、貴船社と富士社が増えたということになる。
 だとすれば、最初に一色村に貴船社が創建されて、上下の社村に勧請されたという私の想像は外れということだ。
 一色村が後からできたということだろうか。
 山神社は貴船社の境内社となっており、富士社は現存していない。富士社を本殿に合祀したのかもしれない。

 祭神について『尾張志』は下社村の貴船社(貴布禰ノ社)のところで、高龗ノ神(タカヲカミのカミ)を祀るとしている。
 このあたりについても貴船の貴船社のページに書いたのだけど、現在はどちらの貴船社も罔象女神(みつはのめのかみ)を祭神としている。明治以降のどこかで変更があったようなのだけど、それがどういう経緯だったのかは分からない。
 総本社の京都鞍馬の貴船神社(web)は高龗神を祭神としているから、こちらも高龗神とした方が自然ではあるのだけど。
 ちなみに、貴船神社の由緒は、玉依姫が黄色い船に乗って鞍馬に地にやって来て水神を祀ったことが始まりとしている。
 玉依姫は海神である綿津見大神の子で、姉が産んだ彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)を姉の代わりに育て、後に結婚して、初代天皇である神武天皇(神倭伊波礼毘古命)を産んだ。
 上賀茂神社(賀茂別雷神社/web)の祭神である賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)の母でもある。

 ここまで書いてきて今更なのだけど、一色村の由来は一色氏から来ているかもしれないことに気づいた。
 というのも、貴船社の隣にある神蔵寺(しんぞうじ)はかつての一色城だったからだ。
 一色城を築城したのは柴田勝重で、1500年頃という。
 勝重は織田信長の家臣として名をはせる柴田勝家の祖父に当たる人物とされる。
 柴田家はもともと清和源氏の流れを汲む一色氏の一族という話がある。領国だった越後の新発田から移ってきてこの地に住みつき、新発田を柴田にあらためたのだとか。
 その頃すでにこのあたりが一色村だったのか、一色氏の一族である柴田氏が一族の名を取って一色城と呼んで後に村の名前が一色村になったのか。
 このときの柴田家は尾張国守護の斯波氏に仕えていたとされる。その後、斯波氏は今川氏との争いに敗れて力を失い、代わって台頭してきたのが尾張国守護代の織田家だった。
 柴田勝家が生まれたのは1522年頃とされる。ただし、生まれた年には諸説あって、生まれた場所も上社村か下社村の下社城(現・明徳寺/web)かはっきりしない。
 神蔵寺と貴船社がある高台は、城を築くのにちょうどいい地形となっている。神蔵寺は勝重が城内に建てたとされている。
 では貴船社はいつ建てられたかという話になる。スペースという点から考えると一色城があった時代とは考えにくいのだけど、城内に祠を祀ったのが始まりならあり得る話だ。ただ、貴船社というのはしっくり来ない。
 一色城は1503年に柴田勝重が没した後も存続したものの、
1584年に起きた小牧長久手の戦の際に羽柴軍によって焼かれて失われた。
 城内にあった神蔵寺が再建されたのは江戸時代に入ってからだ。
 だとすると、貴船社もそれ以降ということになるだろうか。

 一社の貴船社も、貴船の貴船社同様、分かるようで分からない神社だ。
 一色村、上社村、下社村のそれぞれの貴船社はいつどういう順番で建てられたのか、本来の祭神は高龗なのか罔象女なのか、そもそも神社は誰が建てたのかなど、解明できない部分が残った。

【追記 2018.1.15】

 別の神社を調べているときに、「白羽の矢を立てる」に引っかかって、もしかしてと思った。
 白羽の矢を立てるというのは、人身御供(ひとみごくう)を求める神が、望む少女の家の屋根に選んだしるしとして白羽の矢を立てるという俗説から来ており、本来は多くの人間の中から犠牲者を選ぶことと意味していた。
 水不足で困っていた村人たちが白い羽の矢を祀ったという伝説は、神への祈りの対価として人身御供を差し出したということかもしれない。人柱(ひとばしら)という言葉があるように生きたまま地中に埋めたか、池か川の底に沈めたか。
 そういう犠牲者はたいていの場合、少女と決まっている。だから祭神は高龗ではなく女神の罔象女だったのではないか。
 人身御供を祀った場所には祠が建てられ、それが矢白社と呼ばれるようになり、やがて社に転じた……。
 白い羽の矢の伝説は、そういった出来事が語り継がれる中で美化されたものなのかもしれない。そして、伝承は往々にして隠されたメッセージが含まれている。他の昔話と同じように。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

一社の貴船神社はわりと立派だ

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