八幡社(烏森)

烏森は本当にカラスの森だったのか

烏森八幡社

読み方 はちまん-しゃ(かすもり)
所在地 名古屋市中村区烏森町2丁目8番地の1 地図
創建年 不明
社格等 無格社・ 十五等級
祭神 應神天皇(おうじんてんのう)
アクセス

・近鉄名古屋線「烏森駅」から徒歩約5分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 かつての烏森村、今の烏森にある三社のうちの一社。
 烏森は「かすもり」と読む。かつて城跡の森に烏(カラス)がたくさんいたから「からすもり」と呼ばれ、それが短縮して「かすもり」になったというのが定説となっている。
 しかし、個人的にこの説はちょっと疑わしいと思っている。
 城跡の森の城というのは烏森城(かすもりじょう)のことをいっていると思うのだけど、これは戦国末期の城で、城跡の森にカラスがたくさんいたのが地名の由来となったというのであれば、その地名は江戸時代になってから付いたものということになる。それは地名としては新しすぎないだろうか。
 このあたりは佐屋街道が通っていたところで、佐屋路が街道として整備されたのは江戸時代に入ってからとはいえ、その元になる道はかなり古くからあったはずで、集落も戦国時代以前からあったと考えた方が自然だ。
 そのときの村名から江戸時代になって烏の森と急に変わるだろうか。
 それに、「からすもり」から「かすもり」になったとして、烏森の表記をそのまま使い続けるだろうかという疑問もわく。
「かすもり」に変化していく中で「加須毛利」などといった表記に変化していかなかったのも不自然な気がする。
 烏という字の入った村名はあまり縁起のいいものではないと感じるのは現代人の感覚で、戦国、江戸の人たちは烏を縁起のいい生きものや文字と考えていたのだろうか。
 あるいは、烏という存在がこの集落を象徴するものだったのか。たとえば死肉をついばむ烏というものをイメージしたとき、人や動物の死体にまつわる場所だったという可能性はどうだろう。そうだとすれば、城跡云々というよりもっと古くから烏村と呼ばれていたとも考えられる。
 糟森という表記もあったという話があり、ひょっとすると元から「かすもり」だったかもしれない。
 ただ、津田正生は『尾張國地名考』の中で、「烏森村 加須毛利と呼なり正字也」と書いている。「かすもり」と読むけど烏森は当て字ではないといっている。
 ちなみに烏森城は、杉原伯耆守長房の居城だったと伝わる城で、烏森町7丁目あたり、禅養寺や天神社の南東あたりにあったとされる。
 杉原長房の父・家次は秀吉の正室おね(ねね)の叔父に当たることから、親子で秀吉に従っていた。
 長房は秀吉軍で各地を転戦。朝鮮出兵にも従軍して豊後国杵築に移り、但馬国豊岡で三万石の大名となった。関ヶ原の戦いでは西軍についたものの、妻が浅野長政の娘だったこともあり、減封で済んだ。
 烏森城は長房が移った後廃城になったようで、現在は住宅地になっており遺構は残っていない。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではない。『尾張徇行記』に当社の再建は寛文十一亥年と記るし又社地は当村の鬼門にあたり故に同村には古より疫病の流行は防がるという。明治6年、据置公許となる」(寛文十一年は1671年)
 この神社の位置が村の鬼門というのだけど、北東というよりも東の外れ近くで、鬼門除けに八幡社を置いて疫病を防ぐというのは、なんとなく納得できないものを感じる。
 烏森村の中心やや西に禅養寺と鎮守社の天神社(地図)があり、その少し東北に神明社(地図)、そこから東北に八幡社(地図)という位置関係になっている。これは昔から変わっていないのだろうか。
 天神社はかなり古い可能性があって、神明社はそこまで古くはなくて江戸時代初期かもしれない。八幡社は江戸時代以前ということは確かとして、どこまでさかのぼれるか。

 江戸期の書の烏森村の神社は以下のようになっている。

『尾張志』
「天神ノ社
 神明ノ社 天神社より東の方にあり
 八幡ノ社 天神社より東北にあり」

『尾張徇行記』
「天神社八幡社神明社界内二反七畝十六歩前々除」
「再建は寛文十一亥年也」

『寛文村々覚書』
「社三ヶ所 内 天神 八幡 神明
 前々除 中郷村祢宜 孫大夫持分」

 江戸時代の前期から後期にかけて、この三社の顔ぶれは変わらなかったようだ。
 1671年(寛文十一年)に三社まとめて再建したということだろうか。

 烏森村の神社について知るためには、まず烏森村そのものの歴史を知る必要がありそうだ。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

烏森村三社のひとつ八幡社は今も烏森に健在

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