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八幡社(烏森)

烏森は本当にカラスの森だったのか

烏森八幡社

読み方 はちまん-しゃ(かすもり)
所在地 名古屋市中村区烏森町2丁目8-1 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 無格社・ 十五等級
祭神 應神天皇(おうじんてんのう)
アクセス 近鉄名古屋線「烏森駅」から徒歩約5分
駐車場 なし
その他 例祭 旧暦2月25日
オススメ度

 かつての烏森村、今の烏森町にある三社のうちの一社(あとの二社は烏森天神社烏森神明社)。
 烏森は「かすもり」と読む。かつて城跡の森に烏(カラス)がたくさんいたから「からすもり」と呼ばれ、それが短縮して「かすもり」になったというのが通説となっている。
 しかし、カラスなどいつの時代もたくさんいたはずで、森に少々カラスがいたくらいで烏森と呼ばれるようになるだろうかと考えるとやや疑問だ。
 このあたりは佐屋街道が通っていたところで、佐屋路が街道として整備されたのは江戸時代に入ってからとはいえ、その元になる道はかなり古くからあったはずで、集落も戦国時代以前からあったと考えていい。遅くとも鎌倉時代にはあっただろう。ということは村の名前も古いということだ。城跡の森にカラスがたくさんいたことが村名の由来とすると話が矛盾する。それに、たとえ近くに烏森と呼ばれる森があったとしてもそれが村名になったとは考えにくい。
「からすもり」から「かすもり」に縮まったということはあり得るにしても、どうして烏の字を使い続けたのかという疑問も抱く。
 烏という字の入った村名はあまり縁起のいいものではないと感じるのは現代人の感覚で、昔の人たちは烏を縁起のいい生きものや文字と考えていたのだろうか。三本足の八咫烏(やたがらす)のように導き手という共通認識があったのか。
 あるいは、烏という存在がこの集落を象徴するものだった可能性もある。たとえば死肉をついばむ烏というものをイメージしたとき、人や動物の死体にまつわる場所だったという可能性はどうだろう。墓場とか刑場などがそれに当たると考えられる。
 江戸時代は糟森、加須毛利、加良須毛利とも表記したというから、「かす-もり」と「からす-もり」が混在していたということだろうか。
 津田正生は『尾張國地名考』の中で、「烏森村 加須毛利と呼なり正字也」と書いている。「かすもり」と読むけど烏森は当て字ではないといっている。
 別の説として、「かす」は「神住」から来ているというものもある。ただ、そうなるとどうして「烏」の字を当てたのかということになる。神住から烏への変化は無理がある。
 ちなみに烏森城は、杉原伯耆守長房の居城だったと伝わる城で、烏森町7丁目の禅養寺や天神社の南東あたりにあったとされる。
 杉原長房の父・家次は秀吉の正室おね(ねね)の叔父に当たることから、親子で秀吉に従っていた。
 長房は秀吉軍として各地を転戦。朝鮮出兵にも従軍して豊後国杵築に移り、但馬国豊岡で三万石の大名となった。関ヶ原の戦いでは西軍についたものの、妻が浅野長政の娘だったこともあり、減封で済んだ。
『尾張志』は烏森城について、「烏もりむらの北脇といふ地にあり、東西三十六間南北三十一間ばかりあり、総がまえの□あり、今は民家六軒此処に住へり、字を城屋敷といふ」と書いている。
 烏森城は長房が移った後廃城になったようで、現在は住宅地になっており遺構は残っていない。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではない。『尾張徇行記』に当社の再建は寛文十一亥年と記るし又社地は当村の鬼門にあたり故に同村には古より疫病の流行は防がるという。明治6年、据置公許となる」(寛文十一年は1671年)
 この神社の位置が村の鬼門というのだけど、北東というよりも東の外れ近くで、鬼門除けに八幡社を置いて疫病を防ぐというのは納得できない。
 今昔マップ(1888-1898年)を見ると、集落の東の空白地に樹林マークがあるので、森の中に祀っていたと考えられる。素直に捉えれば、村の守り神というより森の守り神だったんじゃないかと思うけどどうだろう。
 烏森村の中心やや西に禅養寺と鎮守社の天神社(地図)があり、その少し東北に神明社(地図)、そこから東北に八幡社(地図)という位置関係になっている。これは昔から変わっていないのだろうか。
 天神社はかなり古い可能性があって、神明社と八幡社はそこまで古くないとしても前々除(1608年の備前検地以前に除地とされた)になっていることから江戸時代以前からあったのは間違いない。

 江戸期の書の烏森村の神社は以下のようになっている。

『寛文村々覚書』(1670年頃)
「社三ヶ所 内 天神 八幡 神明
 前々除 中郷村祢宜 孫大夫持分」

『尾張徇行記』(1822年)
「天神社八幡社神明社界内二反七畝十六歩前々除」
「再建は寛文十一亥年也」

『尾張志』(1844年)
「天神ノ社
 神明ノ社 天神社より東の方にあり
 八幡ノ社 天神社より東北にあり」

 江戸時代の前期から後期にかけて、この三社の顔ぶれは変わらなかったようだ。
 1671年(寛文十一年)に三社まとめて再建したということだろうか。
 江戸時代前期の時点では、中郷村祢宜の孫大夫持分となっている。中郷村は烏森村から見て2キロ以上離れた南にあった村で、伊勢の神宮の一楊御厨(いちやなぎのみくりや)があった頃の中心地とされている。烏森村も一楊御厨の内にあった。荘園が成立したのは平安時代中期の延喜年間(901年-923年)とされている。それぞれの集落が村として独立したのは鎌倉時代というから、烏森村もその時代にできたのではないかと思う。
 津田正生は『尾張国神社考』や『尾張国地名考』の中で、『延喜式』神名帳(927年)の愛智郡針名神社は平針ではなく烏森の天神だと書いている。
 それはともかくとして、この八幡社も平安時代後期か鎌倉時代までさかのぼるかもしれない。
 ただ、疫病除けのために村の鬼門に祀ったということと八幡社ということがかみ合わないから、元は八幡社ではなかったかもしれない。例祭を旧暦の2月25日に行っているという点も八幡社らしくない。

 烏森村の神社についてより深く理解するためには、烏森村の歴史をよく知る必要がある。今後、そのあたりをもう少し追究していきたい。

 

作成日 2017.11.16(最終更新日 2019.5.11)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

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