戦国時代に築城された中根南城があった場所にある八幡社。隣接する観音寺の山号が北条山というということで北条八幡社と呼ばれている。 神社は小高い丘の上にあり、西側から急坂を回り込むように登っていくことになる。この地形は砦城を築くには向いている。 ここは瑞穂台地の南端に近く、東を流れる天白川と西を流れる川名川(山崎川)の河口にも近かった。 中根南城には出城としての中城と北城があり、中城と北城は平針街道(鎌倉街道)を挟み込むように建っていた。主城が南城で、城主は織田信照だった。
『尾張志』(1844年)は『尾陽雑記』にこんな記述があるとして織田信照のことを書いている。 熱田にひとりの娘がいて、「尾陽一の美麗たるよし」だったという。その噂を聞いた信秀(信長・信照の父)は、人をやって自分のところに来るように伝えたが父母が断ったため怒り、大勢の家臣を遣わして「無理に奪取」して、古渡城の城中に於いて寵愛し、できたひとり息子が信照だった。 信照評はなかなか厳しい。 信秀の死後、幼い息子と母は熱田に移り、幼年から老年まで蟄居(ちっきょ)して過ごした。「武におこたるに似たり」、「其身人の知れる器量なく年月を送りけれは系図にももれ」、「後代其名も朽ちたり」と書いている。 母親は熱田の商家の娘だったようで、信照の生まれたのは1546年という。信秀は1552年に44歳で死んでいるから、戦国時代としては晩年の子供だ。九男、または十男とされる。 『尾陽雑記』がいうように老年までずっと熱田にこもっていたということはなく、中根南城の城主を務めていることからしてそこまで見込みのない人物ではなかっただろうと思う。 母親が中根の縁続きで、遠江二俣城主・中根忠貞の養子となり中根を名乗ったともいう。官名は越中守だった。 中根北城(地図)を村上小膳が、中城(地図)を村上弥右衛門がそれぞれ守っていたというから、村上一族がこの地の豪族だったのかもしれない。 城主としての信照がどうだったかというと、これまた評判が思わしくない。 『張州府志』(1752年)には「土人亦曰織田越中者天性魯鈍人也」とある。 里人からも生まれついての愚鈍な人物と思われていたらしい。 いつも城にこもっていてほとんど出てこず、自分は馬を50頭持っていると言いふらしていたけど本当は1頭しか持っておらず、たくさん持っているように見せかけるために村人の目につくところで家臣に一日中体を洗わせていたという。 どう考えても馬の毛並みが同じだから一頭しかいないことはすぐに分かる。あえて馬鹿を演じていたのか、本当にそうだったのかは分からない。根っから争いごとや戦が嫌いで間抜けを演じていただけだったんじゃないかというのは考えすぎだろうか。 信長の弟には後に茶人として大成した有楽斎(長益)のような人物もいるし、父の信秀も文武に優れた人間だったから、信照だけが出来が悪かったとも考えにくい。 個人的には信照のような人物に共感を覚える。自分が同じ立場なら似たような生き方をしていかもしれない。いずれにしても戦国の世に信長の弟として生きるのは楽じゃない。
本能寺の変(1582年)で信長が死去すると、信照は信長の次男・信雄の家臣となった。1584年の小牧長久手の戦いには一応参加している。 奥城(一宮市)を守るも羽柴秀吉軍にあっさり敗れて捕虜となる。 ただ、信長の弟ということで許され、その後、再び信雄に仕えて沓掛城(くつかけじょう/豊明市)の城主となった。 1594年に熱田社(熱田神宮/web)に長刀を寄進した記録が残るも、その後の消息は不明。 一説では家康の家臣の本多忠勝に仕えたとされるも、はっきりしたことは分からない。
中根南城址に観音寺が建てられたのは江戸時代初期の慶長10年(1605年)のこととされる。名古屋性高院の末寺で、浄土宗の寺だ。 客殿に阿弥陀如来像があると『尾張志』は書いている。これは尾張藩初代藩主・義直が寄進したものという。 本堂(観音堂)にある千手観音は1622年に井戸の中から発見されたものだとか。 その他、円空作と伝わる龍頭弁天も所蔵している。 「鎮守八幡社境内にあり」と『尾張志』にあるのが、今の北条八幡社だ。
『愛知縣神社名鑑』は「社伝に享保十年(1725)の創建という」と書いている。 これはどうなのだろう。 『尾張志』が編さんされた江戸時代後期の1844年当時は観音寺の鎮守だったことは確かとして、その観音寺の創建は江戸時代初期の1605年だ。それから100年以上経った江戸時代中期に、観音寺の守護神として八幡神を祀るだろうか。 神社本庁の登録では、祭神は応神天皇ではなく北条八幡大神となっている。現在、観音寺と北条八幡は一応離れてはいるものの、ほとんど同じ敷地に隣接している。祭神からしてもいまだに観音寺が世話をしているのかもしれない。 それ以前に中根南城の守護神だったという話もある。そうであれば創建は戦国時代もしくはそれ以前ということになる。 ただ、『寛文村々覚書』(1670年頃)や『尾張徇行記』(1822年)の中根村の項に、この北条八幡社は出ていない。今の東八幡社と西八幡社があるだけだ。 社伝を信じるなら、1725年当時の観音寺の住職が八幡神を祀るようになったのが北条八幡社の始まりということになるだろうか。 浄土宗と八幡神との関わりはよく分からないのだけど、八幡神の本地仏は阿弥陀如来とされたから、その縁だったかもしれない。
境内にある大きな切り株は、樹齢400年といわれるクロマツの根だ。もともと城内にあったもので、昭和33年(1958年)の暴風でやられて枯れてしまったらしい。それまでは愛知県と名古屋市の天然記念物に指定されていた。 江戸時代後期の1850年には観音寺に寺子屋が開かれた。後に弥富小学校へとつながっていく。 信照のことを少しだけフォローしておくと、東八幡社に伝わる棒の手を奨励したのは信照だったという。 神社と寺が残ったおかげで信照のことも少しだけ後世に伝わった。本人がそれを望んでいたかどうかは別にして。
作成日 2017.9.3(最終更新日 2019.3.22)
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