笠寺台地の海岸線問題

 今日の1ページは南区の喚續社
 すごく歴史のある神社に感じたのは、ここは古くからの歴史が積み重なった土地だからかもしれない。
 特殊能力があるわけでもなく、特別敏感というわけでもないけれど、古めかしさみたいなものは感じることがある。それはたぶん誰もが持っている普遍的な感覚なのだろう。

 笠寺台地の海岸線問題というものが浮上した。
 きっと調査である程度は分かっているのだけろうけど、私が把握できていないので問題化している。
 縄文時代から江戸時代にかけて笠寺台地周辺の海岸線はどのような経緯を辿ったのか。それは神社の場所や古さを考える上で重要なデータだ。
 年魚市潟に神社は建てられないけど、陸地化していたなら建てた可能性は出てくる。
 星﨑あたりの年魚市潟、鳴海潟の推移について調べないといけない。それは今後回る緑区の神社にも関わってくる。
 これまで何度か書いているけど、神社を考えるときに地理的条件というのは非常に重要な要素となる。土地が神社を決めることもあるくらいだ。
 土地の歴史を知れば神社の歴史が見えてくるし、土地の歴史を知らずに神社を語れば重要なことを見落とすことになる。
 知れば知るほどこれまで書いてきたことが全部間違っていて一から書き直さなくてはいけないのではないかと思えてきて怖くなる。

考え合わせるべき複数の要素

 今日の1ページは南区星﨑の市杵島社
 山田重忠創建というのがどこから出てきた話なのか知らないけど、辯才天だったとしてもまずあり得ないことだ。
 私は山田重忠が好きなので、山田重忠の足跡は嬉しいことではあるのだけど、やっていないことをやったことにされるのは納得がいかない。
 そもそも鎌倉時代初期に年魚市潟に社を建てることができるはずもないし、後から移したにしても、そこまで古い社が現代まで残ることは稀なことだ。
 それにしても、星﨑にこれほど山田重忠の名前が出てくるということは、ここに拠点があったのは事実なのかもしれないと思い始めている。
 1181年の父と兄の死から1183年の京都進攻までの間に星﨑にいた時期があったかどうか。
 山田荘の地頭になった1185年以降はむしろ可能性が低い気がする。

 ようやく少しずつ笠寺台地の地形が見えてきた。熱田台地と年魚市潟を挟んだ笠寺台地、火高の海岸線と鳴海潟あたりの地形が見えていないと、古墳や遺跡や神社の配置や位置関係が理解できない。
 何故そこに建てられたのかは、地形を知ればある程度理解できる。
 古代から中世、近世にかけての海岸線の推移も把握しておく必要がある。郡境や川の流路の変化なども重要な要素だ。
 神社は歴史的な事実だけを追いかけても理解できない部分が残る。地形も大事だし、氏族や土地の勢力図も頭に入れないといけない。
 他にもいろいろ考え合わせるべき要素がたくさんあって、神社を理解することは難しいとあらためて感じている。
 いずれにしても、すべては人がやることだ。人の思いを置き忘れた神社理解は真の理解ではない。

南区の残りをやっていく

 今日の1ページは南区の迦具土社(丹八山)
 謎すぎる石碑群があの場所を珍スポットにしてしまっているけど、熱田社が将門の調伏祈願をした歴史的な場所ということを考えると、あの情熱は他でぶつけてほしかったなと思わないでもない。七所社の元地でもあるわけだし。
 ただ、丹八郎さんが整備しなければ山ごとつぶされていたかもしれないと思うと、ああいう形でも残ったのはよかったというべきかもしれない。
 古墳の可能性はないのだろうか。

 これからしばらく南区をやっていこうと思っている。回る神社をまだ15社くらい残しているのだけど、南区と緑区を終わらせてからじゃないと港区に行けない気がしている。港区をやるときは港区に集中してやりたい。それが終われば、名古屋市編の終わりも見えてくるはずだ。それって5月の話なのだろうか。
 南区も重要神社に当たってきているので、もう少し書き進めていくと全体の特徴が見えてくると思う。南区の神社もなかなか面白い。星宮社を筆頭に、一筋縄ではいかない歴史を秘めた神社が何社かある。
 去年の今頃は南区の神社も、中川区の神社も、一社も知らなかった。それを思うと一年という時間の長さを思う。

神社を建てるとはどういうことなのか

 今日の1ページは南区本星﨑の軻愚突知社
 個人的な感触としてはここが星宮の元地のように思うのだけど、実際はどうなのだろう。
 星宮と上知我麻神社・下知我麻神社の関係性だけでもややこしいのに、そこへ熱田社の平将門の調伏祈願の話が絡んでくるから余計に混乱する。更に星﨑城築城と遷座も考え合わせなければいけないとなると、もはや整理がつかない。
 分かるのは星宮がどんな歴史を辿ったにしても非常にいい落ち着き方をしているということだ。あんな多重奏の美しいハーモニーを奏でている神社は他には知らない。

 神社の歴史を考える場合、縄文時代あたりの自然崇拝から古代祭祀への流れを見ていく必要があるのだけど、現実的にはというか実際には古墳時代から飛鳥時代、平安時代以降ということで考えることになると思う。
 ひとつの鍵が延喜式神名帳であり、尾張国内神名帳だ。それ以前かそれ以後かという区切りがある。
 平安末から鎌倉、室町の神社については意外に史料が少なくて分かることはあまりない。
 次に記録として出てくるのが戦国時代だ。そして江戸時代ということになる。
 歴史を追うという意味ではそういう流れの中で捉えていけばいいのだけど、私が本当に知りたいのは神社に対する人々の気持ちの部分だ。
 建てた人の気持ち、参拝する人の気持ち、時代の気分、歳月による変化といったことを知らないと、本当に神社を理解したことにはならない気がする。
 何故その神を祀る神社を建てようと思ったのか。何故その時だったのか。何故その場所だったのか。
 どの本にも史料にも書かれてない何故の答えは永久に分からずじまいなのか。
 神を信じることや信仰心を持つことと、神社を建てることは必ずしもイコールではない。神社を建てるという行為や、神社が存在することの意味は、神の存在を信じることとイコールでもない。
 神社を建てるというのはどういうことなのかをずっと考えている。このサイトが完成するころには自分なりの答えが見つかるだろうか。

撮った場所を思い出せない社

 今日の1ページは昭和区の不明社(小坂町)
 道ばたに忘れられたようにある小さな社なのだけど、ここが塩付街道と飯田街道の交差点となると、ただの不明社として片づけるわけにはいかない。
 ネット情報では熱田社を始めとした屋根神様に属する社のようなのだけど、あえてこの場所に置いたのか、たまたまだったのか、ここに移されたのがいつだったのか、いろいろと気になるところだ。
 この規模の社となると、情報としては少なく、知るための手がかりもほとんどないような状況なので、あとはここを管理している人に話を伺うくらいしかない。
 高牟神社の神職さんを呼んで祭礼を行っているというのは、ひとつ手がかりとなる。高牟神社の関係者に訊ねれば何か教えてもらえるかもしれない。

 昭和区は終わったような終わっていないような、どっちなんだろう。この社は、写真を撮るだけ撮ってどこで撮ったか忘れてしまってそのままになっていたのだけど、たまたま違う神社を調べているときに場所が判明して、今回登録することができたのだった。
 そういった道ばたの社の写真があと何社かある。あれはどこで撮ったんだっけなぁと気になってはいるのだけど。
 そろそろまた南区に戻る。まだ南区は30社くらい残っていて、順調にいっても3月の半ばまでかかる。
 その後に緑区をやったとして、緑区が終わるのが3月末。その後、やっと港区を始めたとしたら、港区が終わるのが6月ということになる。
 本当ですか!?
 先のことは考えないようにしよう。

神社名の使い回し

 今日の1ページは天白区の菅田神社
 熊野権現が元になった島田神社と、若宮八幡が元になった菅田神社と、統合と分離の経緯は本編に書いた内容でおおむね合ってると思うのだけど、どうだろう。どこか間違いがあるかもしれない。
 江戸時代の書を含めて、情報に少しバラツキがあって、上手くつながるようなつながらないようななのだ。
 島田神社の名前を使い回しするからややこしいことになったのだ。
 なんにしても、なるべく地名神社はやめてほしい。ホント、神社の正体が分からなくなってしまうから。

 これで天白区の残りは相生山神社くらいだと思う。まだここは行っていないので、近いうちに行かないといけない。
 他にも見逃しや取りこぼしがあるんだろうか。きっとあるんだろうな。そして半永久的に終わりはないんだろうな。
 諦観。あるいは悟りの境地。一生やり続けるしかないのかもしれない。

頼まれてもないのに勝手にやる

 今日の1ページは天白区島田の不明社(牧神社)
 地元では牧神社と呼ばれているというのだけど、正式名は分からないので、一応不明社としておいた。実際に牧神社とか牧社かもしれないし、名前はないのかもしれない。別の名前がつけられているという可能性もある。

 神社の名前は、何をもって正式名とするのか、よく分からない部分もある。
 このサイトは愛知県神社庁にならうことにしているのだけど、愛知県神社庁では社となっていても、社号標や地図上では神社となっているところも多い。愛知県神社庁の情報はかなり古いので、少し当てにならないところもある。
 住所も昭和の古いままになっていて、新しい住所で探していると見つからないこともがある。『愛知縣神社名鑑』を直すのは難しいにしても、ネットのページくらいは直してもいい。
『愛知縣神社名鑑』の情報量が少なすぎるのと、ときどき間違っていることもあるから、名古屋神社ガイドのサイトを始めたというのもある。『愛知縣神社名鑑』の情報量が必要充分なら、私がやるまでもない。あまりにも足りないと思うから、頼まれもしないのに勝手にやっている。
 ここまで足を踏み込んだからには、『名古屋神社名鑑』を作るつもりで取り組みたい。やるからには100年後も役に立つものにしたいと思う。

名前に神社が隠れてしまう

 今日の1ページは天白区の島田神社
 島田にあるから島田神社としたのは理解できるのだけど、熊野の名前を残しておかないとどんな神社か分からなくなってしまう。島田熊野神社でよかったんじゃないのか。
 一般の人が事解之男命、速玉之男命、伊邪那岐命、伊邪那美命という祭神の顔ぶれを見て、これは熊野だなとピンと来るかといえば来ないはずだ。
 熊野と分かったからといってどうにかなるものじゃないといえばそうなのだけど、どんな神に対して参拝しているのか分かっているのと分かっていないのとでは多少なりとも違いはある。
 参拝する側の無自覚というのはあるにしても、参拝者に対する親切心や思いやりが足りない神社がけっこう多いように感じる。島田神社が特にそうというわけではないけれど。

 島田村の神社は、ここ熊野権現と若宮と神明で、神明はすでに合祀されてしまってないので、あとは若宮が元になっている菅田神社ということになる。これがまたよく分からない神社だ。
 島田城跡に祀られている牧氏の神社もあるので、それをあわせて島田三社セットで紹介することにしたい。

神社は支店を増やすのとは違う

 今日の1ページは天白区野並の八劔社
 野並は千秋家の所領だし、熱田大宮司の千秋家が建てたんだろうと思ったのだけど、どうやらそうではなかったらしいと今では思っている。
 考えてみると、大宮司家が自分のところの神社以外によそに神社を創建するだろうか、ということもある。神社を運営することとあらたに神社を建てることは、言うまでもなくまったく別のことだ。本店的な神社が支店を増やすように神社を建てた例はあるのだろうか。あまりない気がする。
 もし、野並の八劔社が千秋家の領地となった後に建てられたのだとしたら、村人たちが気を遣って八劔社にしたのかもしれない。
 ただ、創建はもう少しさかのぼるような気もしている。

 天白区のブログ既出分をやってしまうことにした。あと島田神社と菅田神社が残っている。
 天白はあと何社くらい取りこぼしがあるのか把握していない。天白区も神社は少ないところなので、そう多くはないはずだ。
 西区、守山区の残りも気になるところなのだけど、そろそろ南区に戻りたいと思っている。
 南区、緑区といって、その後いよいよ港区に入っていく。港区の神社のみなさん、お待たせしております。

神社がここに集まってきている

 今日の1ページは昭和区の白髭稲荷大明神社
 最初は白髭なのか稲荷なのかはっきりしてくれよと思ったのだけど、白髭稲荷大明神という神、もしくは信仰があるということを知った。神社サイトをやらなければ一生知らないままで終わっていた。
 北区清水の最上稲荷もそうだったけど、稲荷といっても幅広くて奥が深い。

 今日ふと思ったのが、名古屋中の神社がこのサイトに集まってきているということだ。大げさにいうと、神無月に全国の神々が出雲に集結するように、名古屋中から神社がここに集合しているみたいだ。
 そう考えたら、今更ながら面白くなってきた。
 大きいところも小さいところも分け隔て無く名古屋の神社が一堂に会する場を提供できた気がして、なんかちょっと嬉しくなった。
 うちも早く入れてくれと呼んでいる声が聞こえるような気がした。
 必ず全部入ってもらえるようにしようと思っている。

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