最初の一歩に辿り着ければ

 今日の1ページは東区赤塚の神明社
 神社の前は数え切れないくらい通っているのに、これまで2回くらいしか行ったことがなかった。しかも、撮ったはずの写真がない。過去データを探しても見つからず、もう一度行って撮り直すことになった。雨降りだったので、表からの写真はまた撮った方がよさそうだ。
 あまり重要な神社とは思ってなかったのだけど、今回調べてみて意外な古さと秘められた歴史があることが分かって興味がわいた。平安以前までさかのぼるほどの歴史はないかもしれないけど、少なくともアマテラスを祀る神明社として建てられた神社でないことは確かだろう。

 多くの神社は歳月を経て様々な理由で上書きされる。権力者の意向であったり、流行だったり、別の理由だったりいろいろだ。
 隠された神、もしくは消された神といったものがある。
 私たちが知る神社の祭神は、『古事記』、『日本書紀』に登場する神を後から当てはめたもので、その多くが明治以降にそうなっただけだ。ずっと時代をさかのぼれば自然崇拝や天に対する素朴な信仰から始まり、氏神を祀るようになり、それが集団の神、土地の神になっていった。日本神話の神を祭神として建てられた神社はごく少ない。
 上書きされた下地の神をあぶり出すといったことが必要なのかどうなのかよく分からないのだけど、消された神といったものがいるとするならば、彼らは表に出たがっているかもしれない。祟りはしなくても納得はしてないだろう。
 スサノオであり、ニギハヤヒであり、セオリツヒメといった神たちがそうだろうか。
 スサノオは牛頭天王と習合して明治以降に当てはめられた神と思われているけどその実態はちゃんと伝わっていないところがある。アマテラス以前はスサノオこそが地上の王だったのかもしれない。
 神仏習合が日本の信仰の本質と思うのは間違いで、あれは一時の流行にすぎない。神への信仰はもっと長くて深い。
 今となっては最初の祭神が何だったかなどはたいした意味はない。神社の本質は不変ではなく変化だから、今の姿がその神社のすべてといってもいい。
 ただ、過去に思いをはせ、初めに祀った人たちの気持ちを想像してみることは無駄じゃない。彼らは何故、この場所にその神を祀ろうと思ったのか。
 もしその場所に我々が辿り着くことができたとしたら、そのとき初めて神社を通じて私たちは彼らとつながることができたといえるのかもしれない。

スポンサーリンク

名前のない神社はたくさんあった

 今日の1ページは東区芳野の社宮司神社
 社宮司という名前の神社のすべてが民間信仰のミシャクジから来ているわけではない。民間信仰といってもそれは多種多様で、実態はよく分からないものも多い。社宮司という名前を後から当てただけということもある。

 神社に名前があるのが当然と思うのは間違っているかもしれない。すべての神社の祭神が決められて名前がつけられたのは明治以降のことで、江戸時代までは祭神も名前もはっきりしない神社はたくさんあった。道ばたの祠などはもちろんそうだ。
 なんとなく村人が呼び習わしていたものがそのまま社名になったりしたケースもあるだろうし、明治になって名前が明確ではないものはとりあえず神明社とされたところも多い。
 祭神の当てはめもかなり強引で根拠のないものもたくさんある。
 私たちが認識している神社は明治政府によって大きく歪められてしまった姿だということを自覚しておく必要がある。

 芳野の社宮司神社については、本当に竹腰家が邸宅内に祀ったとすれば名前がなかった可能性は高く、祭神が伊斯許理度賣命というのも怪しい。
 ただ、伊斯許理度賣命というのがあまりにも唐突で違和感がありすぎるのでむしろ本当なのかもしれない。何の根拠もなく伊斯許理度賣命を当てはめるとも思えない。

 竹越正信の母親、お亀の方は、京都の石清水八幡宮の祀官家・田中氏の分家の京都正法寺・志水宗清の娘だ。これは本編に書くべきことだったのだけど、書きそびれてしまった。
 志水宗清の息子の志水忠宗は、尾張藩家老となり大高城を本拠とした。
 大高城絡みの神社のところでこの話を書くことにしよう。

スポンサーリンク

江戸時代の人の信仰心とは

 今日の1ページは東区芳野の稲荷社(義市稲荷)
 竹腰家の屋敷に祀られていたからといって竹腰正信が勧請したとは限らない。でもやっぱり当主である正信の意に反して祀るということはないだろうから、正信自身が祀ったのだろうか。でも、なんで稲荷だったのだろう。『愛知縣神社名鑑』が書いている1628年創建というタイミングも、なんとなくしっくり来ない。
 兄弟社というか姉妹社というか、近くに社宮司社がある。そちらも竹腰家に関係があるようなのだけど、義市稲荷以上によく分からない神社だ。それはまた明日書くことにしたい。

 東区の残りで主だったところとしては、社宮司社と赤塚の神明社くらいだろうか。小さなところはもう少しある。
 東区は名古屋城の城下の中心だったにもかかわらず神社が少ない。残らなかったのか、もともと少なかったのか。
 須佐之男社が多いというのはひとつの特徴としてある。これらのすべてが牛頭天王を祀る天王社だったのか、もしくはスサノオを意識したものだったのかは分からない。
 江戸時代といっても267年間もあるから人の心や信仰は歳月とともに変化しただろうけど、もう少し江戸時代の人たちの信仰心を理解できたらと思う。実感としてよく分からないことが理解不足につながっている。
 過去の人たちの気持ちに寄り添わなければ歴史は分からない。

スポンサーリンク

道があって集落ができて神社が建つ

 今日の1ページは千種区茶屋が坂の三十番神社
 三十番神社や三十番神信仰などというものは神社サイトを始めるまでまったく知らなかった。知らなかったことは他にもたくさんあるのだけど、三十の神が毎日交代で守るという発想が素敵で、けっこう衝撃を受けた。三十番神のフィギュアが欲しいと思った。
 三十番神社がここと中志段味以外にも名古屋にあるんだろうか。港区にはなさそうだから、あるとすれば緑区のまだ回っていないところか。

 神社を知る上で地形が大事ということはこれまでに何度も書いているけど、古い街道を把握しておくことが大事ということも何度も書いておきたい。
 江戸時代までの村は現代のようにまんべんなく家が広がっているわけではなく、集落というようにある場所に集まって固まっていた。
 道があって集落ができたわけで、その逆はあまりなかったはずだ。たいてい道沿いに集落はあった。
 神社は必ずしも集落の中にあったわけではないけれど、基本的に道がつながっているところにあったはずだ。山の上とかでもない限り。
 どの時代にどの道があってそれはどこからどこに通じていたかを知っていることが重要だ。でも、それを知ることは意外と難しい。完璧な道が描かれた古地図などといったものはない。時代がさかのぼればさかのぼるほど道の実態を知ることは難しい。
 古東海道、鎌倉街道、美濃路、飯田街道、佐屋街道、塩付街道、稲生街道など、名古屋にはたくさんの重要な道があった。それらすべてを頭の中の地図に描けるようにならなくてはいけない。

天武天皇時代の名古屋の神社は

 今日の1ページは西区名塚の白山社
 天武天皇と尾張国との関係性がよく分からない。
 大海人皇子のとき大友皇子との戦いで尾張氏は兵を出して大きな貢献をしているはずなのに、天武天皇として即位してから尾張氏はあまり優遇されいるような感じがない。何故か『古事記』、『日本書紀』には尾張氏の活躍などは描かれていない。その代わり、ヤマトタケルのところで尾張氏は登場し、草薙剣が天武天皇に祟ったということになっている。それは何を意味しているのか。
 天叢雲剣を倭姫がヤマトタケルに貸し出すことを許したところまではいいとして、どうしてヤマトタケルが尾張氏のところに置いてきた草薙剣を大王は取り返さなかったのか。普通に考えて辻褄が合わない。
 この話をし出すと長くなるのでやめるけど、天武天皇時代の尾張国がどんな状況だったかは気になるところだ。
 社殿を持つ神社がどれくらいあったのか。創祀としてはどこでどんな神を祀っていたのか。
 まだまだ名古屋の神社の全体像は見えてこない。

『愛知縣神社名鑑』よもう少し

 今日の1ページは西区稲生町の神明社
『愛知縣神社名鑑』の説明は言葉足らずで言っている意味がよく分からないことがある。稲生町の神明社についてもそうだった。スペースが限られているから仕方がない部分もあるのだけど、もう少し説明してもらわないと理解できずに混乱してしまう。
 そもそも、『愛知縣神社名鑑』は誰に向かって作った本なんだろうという根本的な疑問も抱く。2万円もするから、一般人で買う人は少ないだろう。本屋にも置いてないはずで、熱田神宮の愛知県神社庁まで行かないと入手できないかもしれない。私は必要な部分だけ図書館でコピーしていて買ってないからあまり強くは言えないのだけど、いつか改訂してほしいと願わずにはいられない。
 それはともかくとして、備前検地のときに地鎮祭をしたという話が神明社の社伝として伝わっているということはやはりよく分からない。考えても分からないのでとりあえず放置するしかない。

 本編には書かなかったのだけど、境内に墓石らしきものがある。
 南無妙法蓮華経と刻まれた石碑と並んで別の石碑もある。
 隣というか同じ敷地内に稲生学区集会場がある。
 神明社はもともとこの場所にあったのだろうか。よそから移してきたものかもしれないし、境内に集会所を建てたという可能性もあるか。

 神社について分かることは少なく、分からないことが多いということを再認識する。
 それでも、私自身、もう少し踏み込む必要があることを自覚している。

西区から出られない

 今日の1ページは西区稲生町の水神堂
 いろいろなスタイルの神社があるけど、公民館のような建物で扉が完全に閉ざされているというのは初めてかもしれない。中がまったく見えないとなると手がかりが掴めない。中には社があるのだろうか。
『尾張志』にある水神ノ社がこれのことであれば、社に祀ったものだろうとは思うのだけど、そう決めつけるだけの根拠は何もない。
 やはりここは関係者に話を聞かないとどうにもならない感じだ。

 なんだかずっと西区の中から出られないような気分になっている。ちょっと西区に寄り道のつもりが、どっぷりはまってしまった。このまま西区を最後までやらないと出られないみたいだ。西区がここまで大変とは思ってなかった。
 延長につぐ延長で8月末を目標としてきたのだけど、それも怪しくなってきた。というか、8月では絶対終わらない。港区だけで2ヶ月以上かかるのに、まだ手付かずの状態なのだ。まさかの9月末? 秋風吹いてくるぞ。
 どうやらこの夏も神社の日々ということが確定した。とりあえずあと一週間くらいで西区は終わらせたい。

神社の仏面について

 今日の更新は2ページ。西区枇杷島3の秋葉神社、西区庄内通4の秋葉神社
 秋葉神社として1ページにまとめることも考えたのだけど、庄内通4の秋葉神社については書きたいことがたくさんあったのでまとめページには載せられなかった。なので、枇杷島3も独立ページにしておいた。
 明かな屋根神様についてはまとめページにしようと考えている。線引きは厳密にする必要もないので、屋根神様でも独立ページにした方がいい場合はそうすればいい。

 庄内通4秋葉神社のページのように機会があれば仏関係も少し書いていきたいと思っている。神仏習合の歴史を考えても、仏関係を抜きに神社は語れない。その神社の祭神の本地仏はなんだったかなども折に触れて書いていった方がいいかもしれない。
 日本人はいい加減だったり潔癖だったり曖昧だったり厳密だったり、よく分からないところがあって、神仏習合時代は何の疑問も持たずに仏を受け入れていたのに明治になってそれを強く否定したのは明治政府の命令というだけではない。江戸末期からすでに神と仏を自発的に分けようとする動きが生まれていた。
 そうやって神仏習合を否定してしまったことで現代に神社の仏面がはっきり伝わっていない。神社の歴史に詳しい人でも神社の仏関係まで踏み込んで認識している人はあまり多くないんじゃないか。そこを抜きにすると神社の半分しか理解できないということにもなりかねない。
 そのあたりのことに関しては、二周目で少し突っ込んで書ければと思う。

もっと御嶽教を

 今日の1ページは西区枇杷島の御嶽社
 御嶽社の登録社数も増えてきて、御嶽教や講社や覚明霊神などについてもある程度書けたように思う。自分自身、やっと流れを理解できた。
 御嶽講社に関してはあまり情報がないのでよく分からない。残りの緑区と港区でどれくらい当たるだろう。
 御嶽教には縁ができたので、これを機会にもう少し学んでいきたいと思っている。覚明霊神ゆかりの地巡りも計画している。名古屋市内からは外れるので神社サイトで書くことはないかもしれないけど、これまで紹介した御嶽社に追記できることがあればしたい。

 それにしても、自分が神社にここまで深く関わることになるとは思いもしなかった。何があるか分からないのが人生で、だから面白い。
 10年後の自分が何をしてるかは想像がつかないけど、何をしているにしてもこの世界を面白がっていたいと思う。

どうしてここに竹内宿禰?

 今日の1ページは西区枇杷島の八幡社
 神明、白山と同じく1529年に創建されたと『尾張志』は書くのだけど、そういった記録が江戸時代に残っていたということだろうか。
 一方で『尾張徇行記』は二十町北から江戸時代前期(慶長)に現在地に移されたと書いている。
 このあたりの経緯が最後までよく分からなかった。そのことを知るためには1529年当時の枇杷島村の状況を知る必要があるのだけど、今のところそれが掴めていない。今後、どこか別のところで分かったりすることがあるかもしれないので、そこに期待したい。
 あと、本編では書かなかったのだけど祭神に竹内宿禰が入っているのも気になる。
 應神天皇にも仕えたとされる伝説の大臣だから八幡社で祀られることもなくはないのだけど、名古屋では稀だ。ここにも手がかりが潜んでいそうな気がする。いつどのタイミングで竹内宿禰が祀られたのか。最初からなのか途中からなのか。

 西区はそれほど多くないと思ったらそうでもなくて、この八幡社で47社になった。主要な神社だけで50社を超える。不明社や屋根神様を入れると80社くらいになるかもしれない。
 全国に神社は約8万社といわれているけど、あれは神社本庁に入っている神社の数で、実際は1.5倍はある。小さな社も入れたら2倍くらいになるんじゃないか。
 日本全国の神社数の15万社は多いか少ないか。明治末の神社合祀政策によって全国の神社は4割が合祀されるなどして姿を消した。最盛期は30万社くらいあったんじゃないだろうか。
 この圧倒的な数字はある種、日本の底力を示すもので、諸外国には決して理解できないものだろう。

Scroll Up