意外と知らない近所の神社

 今日の1ページは南区菊住にある不明社
 規模からしても名前のある神社には違いない。
 秋葉社といえば秋葉社なのかもしれないけど、社が二社あるから片方が秋葉社としてももう一方の社が分からない。
 近所の人たちはこの神社のことを知っているのだろうか。興味を持たなければ目に入っていても認識しないものだし、小さな神社など名前を知ろうとも思わないかもしれない。
 ときどき探している神社の場所が分からなくて近くを歩いている人に訊ねることがあるのだけど、意外とみなさん近所の神社を知らないもので、そんなものあったかなぁなどという反応にこちらが戸惑ってしまうこともある。なんとか探し当てて辿り着いてみると、わりと大きめの神社だったりする。

『なごやの町名』は、神社調べにも役に立つ本だ。地名の由来から分かることも少なくない。
『尾張国地名考』とともに今後とも参考にしていきたい。

神社を知ることは人を知ること

 今日の1ページは南区呼続の熊野三社
 個人的には熊野権現社を建てたのは佐久間信盛だとは考えていない。山崎城の守護社としてあったという話は本当だとしても、建てられたのはもっと古いように思う。室町、あるいは鎌倉時代あたりまでさかのぼれるかもしれない。
 もし神社が実際に戦国時代に佐久間信盛によって建てられたものだとすれば、私が感じている古さは社殿ではなく境内の土地によるものなのという可能性はある。とにかくすごく古い感じがしたのだ。古社特有の匂いがあった。

 佐久間信盛については織田家の重臣というくらいの認識でしかなかったので、今回熊野三社に絡んである程度知ることができたのは収穫だった。
 神社サイトがきっかけで知ることになった歴史も多い。そのことを自分のことだけにとどめず、読んでくれた方と共有できたらいい。
 神社を語ることは歴史を語ることで、歴史を作ったのは人だから、歴史を語ることは人を語ることでもある。
 神社もまた、人が作り、人が守り、人から人へと伝えられてきたものだ。神社を知ることは歴史を知ることであり、歴史を知ることは人を知ることでもある。
 神社を通じて当時の人たちの思いを知ることができたらいいと、いつも思っている。

呼続ってどんなところ?

 今日の更新は2ページ。南区呼続1の秋葉神社、南区呼続元町の迦具土神社
 どちらも秋葉権現を祀っていた神社だろうと思うけど、明治以降に創建されたものなら、最初からカグツチを祀る秋葉神社だったということになる。
 本文にも書いたように、呼続は秋葉社系が多い。理由はよく分からないのだけど、旧東海道が通っていたことと関係があるだろうか。たまたまかもしれない。

 南区はまだ回っていないところをたくさん残している。今年はもう無理なので来年になる。
 来年のいつまでにという期限はないのだけど、できれば3月いっぱいをめどに考えている。
 まあそれも、港区をやってから言えという話で、まだまだ終わらないことは確かだ。

秋葉社のあきらめと割り切り

 今日の1ページは南区呼続2の秋葉神社
 法泉寺の社だったと思うのだけど、実は全然違うかもしれない。他にあったものをあそこに移したかもしれないし、法泉寺とは関係なくもともとあの場所にあったのかもしれない。
 秋葉社はよっぽど大きなところでもない限り由緒を知ることは難しい。実際にお世話している人でも詳しく知っている人はあまりいないんじゃないだろうか。
 ほとんど記録としては残されていないし、もともと寺の中にあったものを明治に外に出されたとしたらますます分からない。
 秋葉社に関しては半ばあきらめていて、とにかくここにありますということを知らせるつもりで登録している。小さなところでいうともっとたくさんあって、収録しきれないというか追いかけきれない。ほどほどのところで線引きしている。
 当初は完全収録にこだわっていたけど、今はそこまでは考えていない。自分が完璧版を作らなくても、土台さえ作っておけば後に続く人が続きをやってくれるだろうと思うようになった。
 自分の手柄みたいなことは決して思わないことだ。

神社と街道

 今日の1ページは南区の呼続3にある秋葉神社
 秋葉神社を建てたのは村人だったのか、寺の人間だったのか、別の勢力だったのか。
 かつて秋葉権現は天王社とともにたくさんあったのだろうから、今残っているのはほんの一部と考えてよさそうだ。
 秋葉社の歴史を辿るのは難しい。

 鎌倉街道というのは鎌倉と京都を結ぶ道の総称で一本の道のことではない。鎌倉往還ともいわれていた。
 名古屋市内のどこを通っていたのかはいろんな人が調べたりしてそれぞれの見解を発表している。おおよそのところは予想ができているようだけど、本当にはっきり分かっているわけではなく、名残でも残っているところはごくわずかだ。一部は後に東海道にもなっている。
 神社を考える上でも街道というのは重要な存在で、多少でもそれを知っているのといないのとでは神社に対する認識も違ってくる。何故神社をそこに建てたのかを考える場合でも、街道の存在は決して無視できない。古い街道沿いには古い神社がつきものだ。
 私も街道に関してはまだまだ認識不足なので、今後とも神社と絡めつつ調べていかないといけない。

3分の2いったか?

 今日の1ページは南区の大磯神社
 住所は岩戸町だけどエリアとしては呼続だ。
 呼続という土地は分かるようで分かりづらく、まだ自分の中で整理ができていない。
 ひとつヒントになるのが、『なごやの町名』という本だ(分厚くて大きい)。
 平成4年に発行されたもので、名古屋市内の町名についてわりと詳しく書かれている。今後は大いに参考にさせてもらうことにしよう。

 中川区の残り神社がまだあることに気づいた。あと5社くらいと思っていたら10社くらい残している。なんということか。
 今年中に回れるかどうかあやしくなってきた。
 それまでとりあえずは南区でつないで、ネタ切れになったら東北エリアに戻る。
 サイト作成はようやく3分の2といったところだろうか。

ちょっと変なだけ

 今日の1ページは中川区供米田の神明社
 ん? なんだろうここ、とは思ったけど、決して悪い神社ではない。なんというか、ちょっとおかしなことになっていただけだ。いや、悪口とかではない。
 家の改築を重ねたことで何やら変な格好になってしまった家を思い浮かべた。
 それにしてもなんであんなことになってしまったのだろう。

 永遠に終わらないんじゃないかとまで思った中川区の終わりがようやく見えてきた。残り5、6社といったところだろうか。
 なんとか今年中に終わらせたいと思っている。ただ、まだ行ってないところがあるので、微妙なところではある。
 明日からは久々に南区の再開となる。その後、東北エリアに戻るか、中川区をやるか。
 いずれにしても今年中に全部終わるなんてことは絶対になく、大晦日も正月もやることになるんだろうなと思っている。

神社を理解することの難しさ

 今日の1ページは中川区かの里の下神明社
 上神明社とセットのようなものなので、ふたつあわせて紹介できてよかった。
 同じ村の中に神明社が二社もいらないじゃないかと思ったりもするのだけど、ここのようにアマテラスとトヨウケと分けて祀るならそれは充分意味があることだ。

 それにしても、どうして包里村(かねさとむら)をかの里にしたのかという疑問が解決しないままになった。ちょっと気になっている。
 名古屋市計画局というところが出している『なごやの町名』という本があることを知った。近々入手して確かめてみよう。
 土地の名前や村の名前にはその場所を知るための重要な手がかりが隠されていることがある。
 その土地と神社の関係性は深く、土地を知ることが神社を知ることにもつながる。
 神社を理解するということは大変だとあらためて最近思っている。何年に創建されてどんな神を祀っているかがすべてじゃない。建てられたときの状況だとか、関係者の思いだとかを知らなければ本当に理解したことにはならない。
 神社は単なるハコモノではない。人々の思いの結晶のようなものだ。

内宮と外宮

 今日の1ページは中川区かの里の上神明社
 村に神明社が二社あって、片方で天照大神を祀ってもう一方で豊受大神を祀るというのは理にかなっているけど、案外ないパターンかもしれない。これまで回った中では包里村が初めてだ。

 神宮の内宮と外宮の本当の関係や真相はなかなか表に出てくることはないのだろうけど、一般的に言われているようなものでないことは確かだろう。外宮の方が先にあったという説に説得力を感じる人も少なくないのではないか。
 外宮の祭神が豊受大神というのもやはり不自然な気がする。
 そもそもでいうと、どうして伊勢だったのかということになる。大和から出て長い間さまよって落ち着いた先が伊勢だった理由も知りようがない。
 そこに猿田彦の影がちらつくのはどうしてなのか。
 神宮に関してはそう簡単に踏み込めるものではないので放置しているけど、気になることはもちろん気になっている。
 神宮が表に出せない秘密とは一体何なのだろう。

三輪社にまつわる物部氏について

 今日の1ページは中川区榎津の三輪社
 たまたま昨日、大神神社と石上神宮と箸墓古墳に行っていて、三輪社と大神神社関係の話がつながった。
 偶然か、必然か、呼ばれたのか。
 どこももちろん、重要なポイントなのだけど、物部氏というキーがひとつ浮上してきて、これが気になった。尾張物部氏についてもう一度調べ直す必要が出てきた。
 高牟神社や物部神社のあたりと、味鋺神社、それから春日井市の味美二子山古墳一帯が物部氏にゆかりの深い場所ということになる。
 他にもたとえば志段味の古墳群はどうなのかとか、尾張北西部などに関しても考察しないといけない。
 尾張氏だけが尾張を仕切っていたわけではなく、他にも多くの氏族がいて、歴史の中に埋もれていった。でも末裔は確かに生きている。それらの痕跡が神社に残っているのではないか。
 歴史は中央だけで作られるわけではなく地方にも当然あって、それは中央と少なからず連携し、互いに影響を与え受けている。地方の歴史から見える中央の歴史というものもある。

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