古くから春田村(はるだむら)にあった神社のひとつ。 北に熱田社、南に太神社、中央がこの神明社になる。 春田地区は、上ノ割、中ノ割、下ノ割の3つの地区に分かれており、割ごとに神社があるという恰好になっている。 それぞれが所蔵していたカグラ(神楽)は、神明社のものが空襲で焼けてしまったものの、上ノ割と下ノ割のものは現存しており、例祭のときに曳き出されるという。
『寛文村々覚書』(1670年)、『尾張徇行記』(1822年)、『尾張志』(1844年)のそれぞれに春田村に神明と熱田(大明神)があると書いている。 春田村については熱田社(春田)のページに書いた。 富田荘(荘園)は平安時代中期に成立したとされ、室町時代初期(1338年)に作成された鎌倉円覚寺(web)所蔵の「富田荘絵図」(重要文化財)に春田里とあることから、鎌倉時代、もしくは平安時代に開発された土地と考えられる。絵図に神社は書かれていないものの、集落の成立に伴って祀られたとすれば歴史は古い。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明かではない。『尾張徇行記』に”神明社三畝二十歩前々除地、応永二年(1395)の棟札を初め十数枚蔵す”と『尾張志』にも”神明社春田村にあり”と記るす。明治5年7月、村社に列格する。昭和11年3月10日、社殿を改築した」 しかし、私の手元にある『尾張徇行記』(名古屋市蓬左文庫編/愛知県郷土資料刊行会/昭和51年)には「応永二年(1395)の棟札を初め十数枚蔵す」などとは書かれていない。違う本に書かれているのか、『愛知縣神社名鑑』が間違えているのか。 応永2年は室町時代前中期の1395年だから、それが本当であれば、この神明社は少なくとも室町時代前期までさかのぼるということになる。 伊勢の神宮(web)からアマテラスを勧請して祀る神明社が全国で建てられるようになったのは鎌倉時代以降とされる。平安時代後期以降、全国で荘園ができてくると伊勢の神宮は経済的に苦しくなり、下級神職たちが御師(おんし)と称して全国を回って布教活動をしながら資金集めを始めた。鎌倉時代には幕府から任命された地頭が力を持つようになり、荘園を巡る利権争いが激しさを増した。そういう流れがあって、全国に神明社が建てられるようになっていった。 ただ、実際のところ、鎌倉時代あたりに建てられた神明社というのは少ないはずで、室町時代前期としてもかなり初期の部類だろうと思う。 神社の創建がその時期だとしても、それが本当に伊勢の神宮からアマテラスを勧請して建てた神明社とは限らない。 江戸時代の書に前々除とあるから、1608年の備前検地以前に建てられたことは間違いないとして、どこまでさかのぼれるかは何とも言えない。
本殿は半格子の塀で囲われている。正面に入り口扉があって屋根付きの板塀がぐるりと本殿を囲む様式を何と呼ぶのだろう。本殿上部を屋根で覆わなくても覆殿(おおいでん)に当たるのだろうか。 伝統的な尾張造の場合、本殿前に祭文殿(さいもんでん)があって、左右に回廊(かいろう)があり、回廊もしくは瑞垣(みずがき)で周囲を囲むというのが基本的な様式だった。 尾張造の代表だった熱田社(web)は明治以降、神明造に建て替えてしまい、尾張造が伝わっているのは、津島神社(web)や真清田神社(web)など一部になってしまった。それも『尾張名所図会』(1844年)で描かれている江戸時代の神社のスタイルとは少し違っている。かつては拝殿と本殿(祭文殿)までの距離が遠く、渡殿は廊下ではなく砂利が敷かれていたようだ。 この春田神明社のような建築様式はたまにあるのだけど、それほど多くはない。名古屋の北東部にはあまりなく、南西部の神社で何度か見た。建物自体はそれほど古いものではないにしても、尾張造を意識しているとはいえそうだ。
作成日 2017.6.25(最終更新日 2019.6.4)
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