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伊奴神社

イヌの神社として十二年に一度戌年に賑わう

伊奴神社拝殿と参拝者

読み方 いぬ-じんじゃ
所在地 名古屋市西区稲生町2-12 地図
創建年 673年(飛鳥時代中期)
旧社格・等級等 郷社・五等級・式内社
祭神 素盞男尊(すさのおのみこと)
大年神(おおとしのかみ)
伊奴姫神(いぬひめのかみ)
稚産霊神(わくむすびのかみ)
倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
保食神(うけもちのかみ)
伊弉諾神(いざなぎのかみ)
早玉男神(はやたまのかみ)
事解男神(ことさかのおのかみ)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
アクセス 地下鉄鶴舞線「庄内通駅」から徒歩約18分
駐車場 あり(無料)
webサイト 伊奴神社公式サイト
電話番号 052-521-8800
その他 例祭 10月第2日曜日 茅輪神事 7月下旬 授与所 各種祈祷
オススメ度 **

 天武天皇時代の673年、稲生村(いのうむら)で穫れた稲を皇室に献上することになり、その際に社殿を建てたのが始まりとされる。
 このあたりは稲作が盛んなところだったのだけど、すぐ北を流れる庄内川がたびたび氾濫して被害に遭って困っていた。
 ある日、旅の途中でこの地に立ち寄った山伏を村人が泊めてあげたところ、お礼にと御幣(ごへい)を立てて川を鎮めるためのお祈りをしてくれた。
 するとそれ以来、洪水はぴたりとやんで村人たちは喜んだ。それで御幣のことが気になって中を開けて見たところ、そこには犬の絵と犬の王という文字が書かれていた。
 しかし、決して開けてはいけないと言われていたため、次の年はまたも洪水に見舞われてしまうことになる。
 村人たちは悔い、もう一度山伏が来たときにお願いしたところ、御幣を埋めて社殿を建てるようにと言われてその通りにしたのが伊奴神社の始まりという話もある。

『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「『張州府志』に”三熊野十二所社”と創立年代詳ならず、但し『明細帳』に”当社の勧請は、天渟中原瀛真人天皇(天武天皇)御代(673-685)是地に百稲を取らせ給う由、其時当社を創建すという、依て此社も伊奴神とも稲荷共書、該社地を稲荷山という”、『延喜式神名帳』に山田郡伊奴神社と『国内神名帳』に従三位伊奴天神と記るす官社なり、永享二年(1430)十一月の棟札を始め文明二年(1470)源利基(としもと)修造万治三年(1660)延宝七年(1679)元禄八年(1695)の棟札を社蔵す、『尾張志』に『中古末社の熊野十二所権現の社廃荒し本社の中に合せ祀ると、又、『出雲国風土記』秋鹿郡伊農郡伊奴社と同じ名の社あり『旧事記』の大年神の妻伊奴姫を祭神とし、神鏡二十五枚神輿にかくる鏡なり』と明治5年5月郷社に列格した。昭和10年、尾張造から神明造に改造する」

 言い伝えとして、天武天皇時代に稲を納めたことが神社創建のきっかけになったというのがまずある。673年創建という話を信じるなら、これは天武天皇2年に当たり、この年に行われた大嘗祭に関係している可能性がある。
 尾張旭市の澁川神社(web)に伝わる話として、676年(天武天皇5年)に尾張国山田郡が新嘗祭の悠紀(ゆき)に選ばれて、それが澁川神社創建につながったとする。
 そのあたりのことは守山区の斎穂社のところに書いた。
 大嘗祭のときの悠紀に山田郡が選ばれたという記録はないのだけど、稲を奉納したということはなくはない。そこから神社創建になったという可能性も否定できるものではない。

『寛文村々覚書』(1670年頃)の稲生村の項はこうなっている。
「熊野権現壱社 社内年貢地」
 この熊野権現が伊奴神社のことを指しているはずなのだけど、境内が除地ではなく年貢地になっていることをどう捉えるべきなのか。この頃までには式内の伊奴神社ではなく完全に熊野権現となっていたということだろうか。

『尾張名所図会』(1844年)はこう書く。
「稲生村にあり。今は三熊野十二所権現と稱す。『延喜式神名帳』に山田郡伊奴神社、『本国帳』に従三位伊奴天神としるせり。祭神は大歳神の妻神伊奴姫なるべし」
 祭神は大歳神の妻神(妃)の伊奴姫というのが江戸時代の認識だったようだ。
『古事記』出てくる伊怒比売は伊奴姫のことということでいいだろうか。
 もし本来の祭神がイヌヒメだとすると、農耕の神として神社を建て、社名も伊奴姫から来ているということになるかもしれない。
 稲生村は古くは伊奴村だったという説があり、その場合は神名は土地から来ている可能性もある。

 これらの説をすべてひっくり返すのが津田正生の『尾張国神社考』で、それを読むと混乱を来してしまうのだけど以下に引用しておく。
「【集説曰】山田郡稲生村 【松平君山曰】稲生村十二所権現の社の相殿に祀れる天神是なるべし 【山口延経案】いせの國奄藝郡伊奈富神社は、祭神保食神也。此と同神歟 【稲葉通邦曰】案に、伊奴をいのふと引て呼故に、つひに稲生村と書ならし 【正生考】然るときは伊勢國の稲生とは、その由来も各別といふべし 【正生一考】あり延喜式に山田郡伊奴と書せしは、疑らくは藺沼(いぬま)の誤りなるへし。藺伊かなは違ひぬれど、此邊古今茣蓙(こざ)におる藺草を作産為(つくりいふす)といふ也。今は隣村小田井村より主に産生(いたす)ゆえに、今俗は小田井表を識りて稲生村に藺を作ることをしらす、此義いよいよ予か考の如くなるときは、延喜式の假名たがへと為べし後の好士なほ訂為(ただす)べし」
 ゴザを着くためのい草を穫る沼があったから藺沼と読んでいたのを伊奴の字を当てたのではないかというのが津田正生の考えだ。ただ、確信を持っているわけではなく、後世の人にもっと考えて正してほしいとしている。

 神社の表記として、古くは「伊奴」と「伊努」が混在していた。
『延喜式神名帳』には伊奴とあり、『尾張国神名帳』では伊努の表記も見られる。奴と努では意味が違うと思うのだけど、どちらも読み方は「イヌ」だ。
 伊努神社となると出雲にも同名の神社がある。そこでは赤衾伊努意保須美比古佐倭気命(あかぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと)という出雲の神を祀っている。
 祭神についてもいろいろ混乱があるようで、はっきりしていない。
 稲に関わりの深い神社ということで、食物神を祀っているのと、江戸時代には熊野権現とも呼ばれていたというから、途中で熊野信仰もあわさっている。
 神鏡が十二枚伝わっているというし、特殊神事の赤丸神事は古い神事だ。
 茅の輪くぐり神事はスサノオ(牛頭天王)系の神事ということで、そのあたりにもこの神社の複雑さが表れている。

 いつ頃から伊奴=犬ということが意識されるようになったのかは分からない。少なくとも江戸時代には犬の神社という認識があったのではないかと思う。
 犬は安産ということで、それにあやかろうと安産祈願に訪れる人も多い。
 12年に一度の戌年には県内外から大勢の初詣客がやってきて、小さな神社の周りを取り囲む。今年2018年(平成30年)が戌年だった。地元の人はニュースで見たんじゃないだろうか。
 戌年生まれの人が犬を連れて訪れたりもするらしいけど、たぶん境内は犬立ち入り禁止になっていたはずだ。犬で売っているのに犬禁止って。

 

作成日 2017.2.7(最終更新日 2019.1.15)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

残り4ヶ月だけど戌年のうちに伊奴神社で参拝を

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