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北野神社(大須)

歴史を捨てたのか歴史に捨てられたのか

大須北野神社

読み方 きたの-じんじゃ(おおす)
所在地 名古屋市中区大須2丁目12-21 地図
創建年 1324年(鎌倉時代末)
旧社格・等級等 村社・十五等級
祭神 菅原道真(すがわらのみちざね)
アクセス 地下鉄鶴舞線「大須観音駅」2番出口から徒歩約3分
駐車場 なし
その他 例祭 3月25日
オススメ度

 名古屋で最も有名な寺といっていい大須観音(web)の裏手にあるこの神社がもともとは大須観音の本体であることを知る人は少ない。参拝に訪れる人も決して多くはない。
 大須観音の正式名は、北野山真福寺宝生院(きたのさん-しんぷくじ-ほうしょういん)という。この北野山は北野神社から来ている。
 その歴史を辿ると今に至るまでの経緯は分かるのだけど、大きな謎が残る。

『愛知縣神社名鑑』はこう書く。
「昔は北野社または北野天満宮と称して尾張国中島郡長岡の庄大須今の美濃国羽島郡小薮村大字大須に在って、後醍醐天皇の勅願により元享四年(1324)山城国北野神社より菅公直筆の画像を奉還し鎮座すという」
 これは本当だろうか? 本当だとすれば、どういうことかよく分からない。
 大須というと名古屋の人間は大須観音があるあたり一帯のことと認識しているはずだけど、本来は尾張国中島郡長岡庄大須郷が先にあって、その大須にあった観音が名古屋城(web)下に引っ越してきて、そのまま大須の観音さんと呼ばれたことで大須が地名として定着することになった。現在の岐阜県羽島市桑原町(地図)にも大須の地名はそのまま残っている。
 問題は、後醍醐天皇の勅願で1324年に山城国北野神社から菅公直筆の画像を奉還したという部分だ。
 後醍醐天皇は非常に権力志向の強い天皇で、1318年に31歳で即位すると、どうにかして鎌倉幕府から権力を取り戻してやろうと画策を始めた。
 しかし、1324年、後醍醐天皇の幕府倒幕計画が発覚してしまい危機に陥ることになる。後に正中の変(しょうちゅうのへん)と呼ばれるこの出来事で、首謀者とされた天皇側近の日野資朝たちが処分されることになった。
 この1324年という年に、山城国北野神社(web)からの勧請で中島郡長岡庄に勅願で建てたというのだ。正中の変は10月(旧暦では9月)のことだから、発覚前の可能性が高いとしても、この時期ということを考えたとき、道真を祀る神社を建てさせたことがどういう意味だったかが気になるところだ。
 道真直筆の画像は今も大須観音が持っているという話だけど、それはどういう内容のものなのか。
 奉還(ほうかん)というのは大政奉還の奉還のように天皇にお返しするという意味だ。ということは、山城国北野神社にあった道真直筆の画像はもともと天皇家のもので、それを北野神社は後醍醐天皇に返して、戻ってきた画像を新たに建てさせた中島郡長岡庄の北野天満に祀ったということだろうか。

 もうひとつの大きな疑問点は、何故この場所だったのか、ということだ。
 中島郡長岡庄大須郷、今の岐阜県羽島市桑原町大須は、木曽川と長良川に挟まれた水害多発地帯で、治水技術が未発達だった中世は頻繁に水害に遭っていた。当時は多くの支流が網の目のようになっていたというからなおさらだ。そのため、輪中(わじゅう)といって集落をぐるっと堤防で囲んで人々は暮らしていた。
 そんな危うい場所にわざわざ北野天満を建てる必然がどこにあったというのか。
 後醍醐天皇の性格と時代背景からして、民を守るために建てたなんてことはまずあり得ない。
 鎌倉時代末の中島郡長岡庄がどんなところだったのか。
 1324年当時の尾張国全体を考えると、国府は稲沢にあり、尾張国一宮は中島郡(一宮市)の真清田神社(web)で、尾張国総社は中島郡(稲沢市)の尾張大国霊神社(国府宮神社/web)だった。
 尾張の中心が清須になるのは1478年に守護所が管領・斯波義重によって築かれた清須城(web)に移ってからのことで、それ以前は中島郡に中心があった。
 清須城の前に守護所があった下津城も稲沢だった。
 この時代の尾張国守護は、北条一族の名越氏だったとされる。
 岐阜羽島というと新幹線のこだまが止まるということでこの地方の人々には認識されていると思うのだけど、古くから主要道路の通り道だった。
 ただしそれは岐阜羽島の北側で、大須はずっと南なので幹線道路からは遠い。東山道も鎌倉街道も岐阜羽島の北をかすめる程度で、それより南を通っていたと考えられる美濃路からも離れている。
 後醍醐天皇はどうしてこの場所を選んだのかという疑問に対する答えが見えない。選んだのが後醍醐天皇ではなく別の人物だったとしても、ここであることの意味が分からない。

 1324年に北野天満が建てられて、1333年に別当寺として能信が開山して真福寺を建てた。これが大須観音の元となった寺だ。
 1333年に後醍醐天皇が能信に帰依(仏教的に心の拠り所とすること)して、北野天満の別当に任命し、能信は真福寺を建てることになったという流れだ。
 ただ、ここでも1333年というのが問題になる。
 1324年の正中の変では後醍醐天皇は処分されなかった。天皇の地位を考慮してのことだったとされる。
 それでまったく懲りなかった後醍醐天皇は、今度こそ上手くやってみせると、引き続き密かに倒幕計画を進めるも、側近の吉田定房に密告されてまたしても発覚、身の危険を感じた後醍醐天皇は三種の神器を持って京を脱出し、比叡山にこもろうとするも失敗して笠置山に籠城した。
 1331年、元弘の乱と呼ばれることになる。
 しかし、あっけなく後醍醐天皇は捕まってしまい、ついには隠岐島に島流しにされてしまった。1332年のことだ。
 とはいえ、これで懲りないのが後醍醐天皇で、翌1333年には名和一族の力を借りて隠岐島を脱出。伯耆船上山(鳥取県東伯郡)で挙兵すると、それに応じた足利尊氏(高氏)や新田義貞によって北条氏は滅亡し、鎌倉幕府は倒れることになった。
 京に戻った後醍醐天皇は再び即位し、建武の新政を始めるのだけど、これがはちゃめちゃで各方面の反感を買い、足利尊氏が反乱を起こしたため、またもや逃げ出して吉野にこもり、南北朝時代が始まることになる。
 真福寺の建立は1333年のどの時点だったのか。この年の後醍醐天皇に遠い尾張国で寺を建てるの建てないのなどといっていた余裕が果たしてあったのだろうか。隠岐島時代では連絡もままならないはずだし、鎌倉幕府が倒れるか倒れないかという重大局面で寺なんてどうでもいいと思ってしまいそうなものだ。
 もしかすると能信から言い出したことで、後醍醐天皇は許可を与えたという程度だっただろうか。

 真福寺は真言宗の寺で、大坂の四天王寺(web)にあった弘法大師空海作とされる聖観世音菩薩を本尊としている。大須の観音さんというのはそこから来ている。
『尾張志』(1844年)や『尾張名所図会』(1844年)に色々書かれているのだけど、内容的にはたいしたことは書いていない。
 能信の開山で、能信は伊勢国祠官の度会行家の子だとか、観音の話とか、中島郡大須庄北野村にあったものを家康が移したとか、北野村は北野天満があったことからそう呼ばれたといったことだ。
「後村上天皇御祈願の綸旨を給ひ」とあるから、後醍醐天皇の息子で南朝二代目天皇の後村上天皇も真福寺に関わりがあったようだ。綸旨(りんじ)というのは蔵人(くろうど/天皇の秘書)が天皇の意を受けて発給する命令文のことをいう。
 中島郡大須時代はどれくらいの規模だったのかはよく分からないのだけど、戦国時代はかなり荒廃していたらしい。
 1344年に一度焼け、1610年に木曽川の洪水で流されてしまったため、家康が名古屋城下に移すよう命じて今のところに移ってきた。それが1612年のことだ。清須からではないので清須越ではない。
『尾張名所図会』に描かれた絵を見ると、真福寺と北野天満が同じ境内にあることが分かる。
 真福寺の立派な本堂と五重塔があり、天神とあるのが北野天満だ。隣には太子堂もある。
 名古屋城下時代は尾張藩の庇護もあって、真福寺は立派な寺になった。境内に芝居小屋が建てられ、門前町は一大歓楽街となり、後に旭遊郭へとつながっていく。
 浅井広国『尾張名所独案内』(明治26年)にはこう書かれている。
「実に当国中第一の賑合場所(にぎわいばしょ)にして昼夜の別(わか)ちなく雑踏する所なり
 五重塔は殊に有名の者にして其建築の巧妙なる彫刻の細微なる事実に稀なる者なりしが惜しいかな明治二十五年三月近傍の失火に依り本堂及び五重塔仁王門等其外建物悉(ことごと)く焼失し一夕(いっせき)の内見るみる烏有(うゆう)に帰せり」
 明治25年に火事で本堂も五重塔も仁王門も全部燃えてしまったようだ。
 その後再建されるも、第二次大戦の空襲でまたもすべて焼失してしまった。
 北野天満は、明治の神仏分離令で真福寺と分けられ、北野神社と改称して存続することになった。

 後醍醐天皇はどうして尾張国中島郡に菅原道真を祀る北野天満を建てさせたのか、という疑問にもう一度立ち返ってみる。
 恨みを抱いて非業の死を遂げた道真は朝廷の人々に災いをもたらす怨霊として恐れられ、神として祀られることになった。太宰府天満宮(web)も北野天満宮も道真の霊を慰めるために建てられた神社だ。
 時代が進んで平安末期以降は怨霊としての性格は薄れ、国家守護や戦勝祈願の神として信仰されたという。学問の神となるのはもっと後、江戸時代に入ってからだ。
 鎌倉時代末を生きる後醍醐天皇にとって祭神・菅原道真とはどういう存在だったのか。時代背景と立場を考えると、対鎌倉幕府を意識していなかったとは思えない。あの場所に道真を祀ることの理由は何だったのか。
 道真を通じて幕府、あるいは北条氏に対して呪いをかけていたとするのは考えすぎだろうか。
 後醍醐天皇は守る側ではなくあくまでも攻める側だ。攻める上で道真の霊を味方に付けることに何か意味を見出していたとでもいうのか。
 道真は天神信仰と結びついていたから、幕府側に神罰を与えてやるくらいの気持ちはあったかもしれない。

 大須観音の北に芸人宿や娼館ができたのが幕末の1858年のことだった。今の北野神社があるあたりで、北野新地と呼ばれた。
 明治の世になり、1874年には公認の遊郭となった(翌1875年に西大須に移転)。
 境内の玉垣には遊廓の名前が刻まれたものなどがある。遊女たちもこの神社を参ったことだろう。そこで何を願ったのか。
 北野神社は道真を祀る天満宮でありながら、あまり天満宮として意識されていないように思う。名古屋三天神というと、上野天満宮山田天満宮桜天神社で、北野神社が挙がることはない。
 後醍醐天皇勅願で大須観音の本体という、由緒としては申し分ないにも関わらず、知名度、地位ともに低い。
 実際、この神社を訪れてみても、歴史の深い味わいといったものは感じられない。街中にある普通の神社といった風情で、それ以上ではないというのが大方の印象だろうと思う。
 私も北野神社はいいからぜひ行ってくださいとは言えない。ただ、こんな歴史を持つ神社だということを知ってから出向いてみれば、何も知らないで行くよりは何かしら感じるものがあるかもしれない。
 解けなかった疑問は疑問として、私もまたこの神社が辿った歴史に思いをはせることにしよう。

 

作成日 2017.8.6(最終更新日 2019.9.14)

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