熱田社(伝馬)

竹千代人質事件の現場

伝馬熱田社

読み方 あつた-しゃ(てんま)
所在地 名古屋市熱田区伝馬2丁目25番2号 地図
創建年 1713年
社格等 十五等級
祭神 不明
アクセス

・地下鉄名城線「伝馬町駅」から徒歩約10分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 伝馬(てんま)2丁目の図書公園(ずしょこうえん)の中にある熱田社。かつてこのあたりは熱田羽城町(はじょう)といった。それは、加藤図書助(かとうずしょのすけ)の館である羽城があったことから来ている。
 人質になった竹千代(後の徳川家康)は、加藤図書助の館に2年間幽閉されていたという話がある。
 熱田社とは直接関係ないのだけど、せっかくなのでざっと話をまとめるとこうだ。

 三河を本拠にしていた松平氏は、当主の清康(きよやす)を失い(1535年森山崩れ)弱体化した。
 東を大大名の駿府・今川家に、西は力を付け始めた尾張・織田家に挟まれ、独立を保つのが難しくなってきた。
 1547年、家康の父・広忠は、助けを求める形で今川家に従属することを決めた。そのとき人質として駿府に送られることになったのが嫡男の竹千代だった。このとき竹千代数えで6歳。満でいうと4歳だった。
 護衛を担当したのが渥美半島の田原を支配する田原城主の戸田康光だった(戸田康光の娘が広忠と結婚している)。
 岡崎城を出発した一行は渥美半島を目指し、老津の浜(地図)で舟に乗り換え、海から渥美半島をぐるっと回って駿府へ行く予定だったという。
 しかし、船は東ではなく西に進み、尾張へと辿り着く。織田信秀(信長の父)と戸田康光は通じており、竹千代は売り渡される形で尾張で人質となったのだった。そのときの金額は千貫とも百貫ともいわれる。
 どうしてそんな話になったのかはよく分からないのだけど、戸田家はもともと松平家と結びついていたのが、松平が衰えたのを見て今川家についたものの、かつて今川に田原を攻められたことがあり恨みに思っていたともいう。
 しかし、そんなことをしてしまったら当然今川は怒るわけで、田原城は攻め落とされて戸田康光は息子とともに殺されることになる。
 尾張で人質生活を送ることになった竹千代がどこで過ごしていたかはふたつの説がある。
 ひとつが加藤図書助の館で、もうひとつは萬松寺の天王坊だったというものだ。

 加藤図書助順盛(かとうずしょのすけのぶもり)は熱田を支配する豪族だった。
 父の景繁は美濃国岩村城の落城によって浪人となり尾張の熱田に流れてきてここに館を築いた。それが熱田羽城(あつたはじょう)とされる。
 城といっても館の周りを土塁で囲んだ館城だったと考えられる。
 尾張における加藤家は武士というより豪商といった方が近かった。貿易で財力を蓄え、信秀とも結びつき、熱田で力を持つ豪族となっていた。
 もともとは伊勢山田の神官の出ともいわれる。
 渥美半島から尾張を目指した一行が最初に辿り着いたのが熱田だったのは自然なことだ。かつて熱田は海に面した湊町だった。ここを支配していた加藤家に人質を留め置いたとしても不思議はない。
 ただ、2年余りの間ここで竹千代を幽閉していたというのは違うように思う。松平家は大きな家ではないにしてもそこの嫡男ということで、単なる人質ではない。ある程度丁寧に扱わないといけないし、後々役に立つかもしれない。
 ただし、父の広忠は、もう好きにしてくれとなげうってしまっている。すぐに取り戻す行動などは起こしていない。
 幽閉といっても牢屋に閉じ込めておくとかではなく、かくまって育てるといった方が近い。だから、武士としての教育もしなければいけない。豪族宅でかくまうというよりも寺に送って教育を受けさせたと考える方が無理がない。

 萬松寺は1540年(1538年とも)信秀が織田家の菩提寺として建てた寺だ。
 大須に移るのは1610年の名古屋城築城のときで、当初は名古屋城の前身である那古野城の南にあった。中区錦と丸の内2、3丁目一帯の広大な境内を有していた。
 天王坊というのはおそらく天王社(後の那古野神社)のことではないかと思う。神仏習合時代は真言宗亀尾山安養寺とも呼ばれ、十二坊のうちの首班を天王坊といった。
 信長も天王坊に通って勉強したと記録があり、ここで信長と竹千代は出会ったのではないかと推測できる。竹千代満4歳、信長満13歳のことだ。
 ふたりは兄弟のように遊んだという話もあり、桶狭間の戦いの勝利ののち、すんなり家康が独立して同盟を結ぶことができたのも、このときふたりが知り合って気心が知れていたからと考えれば納得がいく。
 天王坊を津島天王社(津島神社)とする説もあるけど、距離的に考えづらい。1547年といえば信長は那古野城主だった時期で、ここから津島まで毎日のように通うのは無理がある(信長が清洲城に移るのは1555年)。
 前年の1546年、信長は父がいる古渡城で元服し、1548年には信秀は末森城を築いてそちらに移っている。その年は、清洲の織田本家・信友の家臣によって古渡城を攻められるなど、信秀・信長親子にとってもこの時期は何かと落ち着かないときでもあった。

 事態が大きく動いたのは1549年。竹千代の父・広忠の死がきっかけだった。病死とされつつも22歳の若さでの突然死に殺害説などもある。
 今川家の軍師・太原雪斎が織田家の安祥城(あんじょうじょう)を攻め落として織田信広(信長の異母兄)を生け捕りにする。
 そこで持ち上がったのが人質交換だった。織田信広を返す代わりに尾張にいる竹千代を返せというものだ。
 織田家にとって竹千代を抱えておくことにそれほどメリットがなかったのか、この話は案外すんなりまとまったようだ。
 笠寺観音(笠覆寺)で無事人質交換が行われた。
 竹千代はいったん岡崎に戻ったものの、すぐに駿府の今川義元の元に送られることになる。

 加藤家がその後どうなったかというと、東加藤と西加藤に分かれ、信長に仕え、江戸時代は名家として栄えることになる。
 桶狭間の戦いのとき、熱田神宮で戦勝祈願をする信長のもとに駆けつけ酒をついだという話が残っている。
 そのとき信長は、「加藤が来たから勝とう!」という駄洒落を飛ばしたという。今川との戦いの前に、信長は意外と余裕があったのかもしれない。
 加藤の屋敷があったのは、図書公園や羽城公園の北西あたりだったとされる。精進川の流路が現在とは違っているため、当時の様子を想像するのは難しい。
 このあたりは江戸時代に入って東海道が整備され、宮宿となった場所だ。戦国時代とは大きく様変わりしたため、遺構などは残っていない。
 家康は江戸幕府を開いた1603年、加藤家に140石余りの土地を与えている。これは人質時代によくしてもらったお礼ではないかという。それが本当であれば、ある程度の期間は加藤家に滞在していたということになりそうだ。

『愛知縣神社名鑑』は熱田社についてこう書いている。
「社伝に犬山城主成瀬正肥が正徳癸巳三年(1713)8月、名古屋大津町尾関彦之丞より、この土地を譲受け守護神として勧請する。明治六年据置公許となる」
 しかしこれは明らかに間違いで、成瀬正肥(なるせまさみつ)は1836年生まれなので全然時代が違っている。
 成瀬正肥は江戸末期に犬山城最後の城主(9代)となった人物だ。明治まで生きて犬山藩知事になっている。
 1713年というのが正しいのであれば、そのときの犬山城主は4代の成瀬正幸(なるせまさゆき)ということになる。
 正肥時代の幕末の激動期に、のんきに神社なんか建ててる場合ではないので、1713年という方が合っている気がする。
 尾関彦之丞という人物は不明だ。
 成瀬家は代々尾張藩の付家老を勤めた家で、名古屋城下などに広大な屋敷を持っていた。その成瀬家が熱田の南に土地を買って熱田社を建てた理由はよく分からない。守護神というけど何を守護するためだったのか。
 ここは竹千代人質事件の現場となった場所というのは分かったけど、熱田社については結局よく分からなかった。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

図書はとしょじゃなくてずしょの熱田社

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