間黒神社

間黒神社のまぐろの由来は?

間黒神社境内

読み方 まぐろ-じんじゃ
所在地 名古屋市守山区幸心1-901-1 地図
創建年 1636年(江戸時代前期)
社格等

村社・十四等級

祭神

須佐之男命(すさのおのみこと)

多紀理姫命(たぎりひめのみこと)
多岐津姫命(たぎつひめのみこと)
市杵島姫命(いちししまひめのみこと)
大山祇命(おおやまつみのみこと)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)

 アクセス

・JR中央本線「新守山駅」から徒歩約12分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

「まぐろ」神社とは変わった名前だ。どこからこの名称が来ているのか、よく分からない。
 このあたりの地名ではなさそうだし、主祭神はスサノオだからそこから来ているわけでもなさそうだ。間黒は当て字で、「まぐろ」という言葉に何か意味があるのだろうか。
 創建は江戸時代前期だから、それほど古い神社ではない。一体何故、間黒なのかそれが気になって仕方がない。

 『愛知縣神社名鑑』によると「産土神として創建」とある。
 産土神というのは土地の守り神だ。そこで生まれた人間にとって産土神は一生変わらない。よそへ引っ越してそうだ。
 それに対して氏神は、文字通りその一族を守る神だ。一族がよそへ移ったら氏神も一緒に移ることになる。
 ただ、一族がその土地に定着することで氏神だったものが産土神を兼ねるようになる。氏神が土地の守り神にもなるということだ。
 間黒神社が産土神として創建されたというのであれば、それはここの村の人たちが建てた神社ということだろう。
 ここは幸心村(こうしんむら)で、村名は近くにある常雲寺(地図)の庚申堂(こうしんどう)から来ているとされる。
 庚申信仰は、中国の道教を基礎に仏教や密教、神道、修験道、民間伝承など様々な信仰が組み合わされて日本で発展したものだ。
 庚申(こうしん/かのえさる)は、干支(えと)の十二支と十干(じっかん)の甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸を組み合わせたもので、この年、またはこの日には禁忌行事を行う風習があった。
 人の中にいる三尸 (さんし)の虫が体を抜け出して天に罪を告げに行くと信じられていたので、この日は眠らずに夜明かしするというようなことをやっていた。
 平安時代の貴族から始まり、室町期には酒を飲んだりする遊興的な行事になって、江戸時代に庶民の間で流行した。
 祟りを恐れてこの日は男女間のあれこれを避ける習わしもあったようだ。
 神仏習合の過程で日吉(ひえ)の山王信仰と結びついたり、申(サル)つながりでサルタヒコ(猿田彦大神)とも結びついていった。
 庚申信仰でよく知られているのが奈良県大和郡山市の金輪院(こんりんいん)で、ここは大和国の庚申信仰総道場とされている。
 京都の東山には八坂庚申堂と称される金剛寺(こんごうじ)がある(大阪四天王寺東京浅草寺とともに日本三庚申のひとつ)。
 ここの山号が大黒山という。京都東山といえば牛頭天王を祀る祇園社(八坂神社)がある場所だ。もしかすると間黒神社はここと関係があるのかもしれない。庚申堂がある常雲寺と間黒神社は江戸時代は一体化していただろうし、大黒山と間黒神社の黒つながりで、祭神がサルタヒコではなくスサノオというのであれば、京都東山の八坂庚申堂との関連を考えるのはあながち的外れでもないと思うのだけどどうだろう。

 と、ここまで書いてきて重要な情報を見落としていたことに気がついた。
「昭和28年、間黒神社に改称」
 なーんだ、とがっくりきた。
 庚申信仰から大黒山八坂庚申堂を経て間黒神社の名称の由来を探り当てたと思ったら、その推測は完全な的外れだった。
 これは歴史学で陥りがちな罠で、取っかかりを見つけて、そこからいろいろなキーワードが結びつくとこれが答えに違いないと思い込んでしまって、それ以外の考えを排除してしまう。自分の思いつきに酔ってしまい、都合のいい情報だけ集めて、都合が悪い情報を無視してしまう。どれだけきれいに説明できても間違っていることは間違っているし、どれだけ不自然に思えてもそれが真実という場合もある。くれぐれも気をつけなければいけないと私もあらためて自分に言い聞かせる必要がある。
 まあ、今回は庚申信仰について少し学べたのでよしとしたい。
 では、昭和28年にどういういきさつと理由で間黒神社となったのかが知りたいところだ。間黒神社の前は何という名前の神社だったのか。昭和28年ならそんなに昔のことではない。神社に問い合わせれば教えてくれそうだし、参拝に訪れているお年寄りに訊ねれば知っていそうではある。

 神社の少し西を南北に国道19号線が走っている。江戸時代に下街道が通っていたところだ。中山道の大井宿と大湫宿の間にある槙ヶ根追分と名古屋城下の伝馬町札の辻をつなぐ脇街道で、善光寺道や伊勢道、名古屋道などとも呼ばれた。
 ヤマトタケルが東征を終えた帰りに通ったという伝承が残るくらい古くからあった道だ。内津峠でタケイナダネが駿河の海に落ちて死んだという知らせを受けたヤマトタケルは「ああ 現哉(うつつかな)、現哉」と嘆いて、その場所に内々神社(うつつじんじゃ)が建てられたとされている。
 公人は上街道を通らなければいけないと定められており、一般の人たちは下街道を通った。木曾方面には御嶽山や善光寺があり、名古屋から西には伊勢の神宮があるから、かなり人通りがあったという。旅人たちはその途中でこの神社にも参拝していったんじゃないだろうか。
 平安時代から室町にかけて、このあたりに幸心城(こうしんじょう)があったとされる。城主は山田氏というから山田重忠の一族かもしれない。遺構などは残っておらず、詳しいことは分からない。

  矢田川右岸の幸心や瀬古地区は、たびたび川が氾濫して被害にあったところで、石垣を組んでその上に家屋や蔵を建てる水屋と呼ばれる建物がある。
 間黒神社の社殿も水屋造りになっている。これは全国的にみても珍しいそうだ。
 境内の中程に川が流れていて、ちょっと驚く。自然の川ではなく、用水路だ。神社が建てられたあとに掘られたものだろう。
 水路に架かっている橋を神明橋と呼んでいる。
 かつての神明橋の欄干には傷跡があった。第二次大戦で飛来して高射砲隊によって撃墜されたB29爆撃機の墜落跡という。
 近くには三菱重工業名古屋発動機製作所があり、そこが爆撃目標だったようだ。瀬古に墜落するとき、神明橋の欄干に尾翼をぶつけたと伝わっている。
 墜落死した米兵は宝勝寺や誓願寺に葬られ、戦後米軍に引き取られて里帰りすることになった。
 神社にはそんな歴史も刻まれているのだった。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

幸心地区二つの寺社巡りで歴史の意外なつながりを知ることとなった
久々に間黒神社を再訪すると印象が変わった

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