武島天神社

ここが本当の泥江縣天神なのか

武島天神社

読み方 たけしま-てんじん-しゃ
所在地 名古屋市西区城西5丁目16-40 地図
創建年 不明(1368年とも)
旧社格・等級等 指定村社・十四等級
祭神 少彦名命(すくなひこなのみこと)
菅原道真(すがわらのみちざね)
 アクセス 地下鉄鶴舞線「浄心駅」から徒歩約10分
駐車場 なし
webサイト  
オススメ度

 60メートルほど北にある上宿山神社地図)とともに熱田台地(那古野台地)の北端にあったものを、名古屋城(web)築城の際ここに移したとされる。
 第二次大戦の空襲で両社とも焼けて、戦後に一度天神社は山神社に合祀されて上宿神社となり、その後、山神社から分離独立する形で今の場所に移って武島天神社と称した。
 社名は古くこの地を武島梅の木地と呼んでいたことから来ている。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「元この地を武島梅の木地と云い次いで五平蔵町と称し、武島天神、武島天満宮とも称した。創建は応安元年(1368)頃鎮座、初め御深井丸の辺りにあったが、藩主光友、慶長遷府の際今の社地に遷座し、以来五平蔵町山神社の末社となる 万治四年(1661)修造する。明治13年3月、独立して村社に列格する。大正15年、指定社となる」

「藩主光友、慶長遷府」というのは間違いで、名古屋城を築城して清洲から首府を遷したのは家康だ。名古屋城築城が1610年で、清洲越しはそれから数年間にわたって行われた。初代藩主の義直が尾張藩主になったのは家康が死んだ後の1616年のことなので、義直が天神社と山神社を遷座させたということもない。
 山神社は1352年の棟札を所蔵していたといい、天神社は1368年創建という。山神社の棟札が創建なのか修造なのかは分からない。天神社の1368年創建という話も定かではない。
 もし本当であれば室町前期の南北朝時代ということになる。その当時、名古屋城の前身である那古野城もまだ築かれていない。その頃の熱田台地の北部がどんな状況だったのかはよく分からない。
 名古屋城が築城される以前の古い絵図には、天神、山神、宗像社、天王、八王子、若宮、荒神が描かれている。
 神意を問うためにくじ引きをして占ったところ、若宮と八王子は城外に遷すことになり、天王は遷さないことが決まった。若宮が今の若宮八幡社で、八王子は北区清水にある八王子神社春日神社となっている。天王は江戸時代に隣に創建された東照宮とともに明治になって外に出された。今の名古屋東照宮那古野神社がそれだ。
 天神と山神に関してはくじ引き云々のところでは出てこないものの、同時期に遷されたと思われる。荒神がどうなったのか不明だ。天神社は名古屋城時代でいうと天守の北に位置し、山神は天守の西にあったようだ。

『尾張志』は天神社についてこう書いている。
「天満天神社 五平蔵町にあり 此地もとは武島梅の木地といへり 勧請の年月知られす 祭神中座は菅原神にて左中将殿 右吉祥天也といふ」
 中央に菅原道真、左右に中将殿と吉祥天というのは、京都の北野天満宮(web)と同じだ。中将殿は菅原道真の長男で大学頭をつとめた菅原高視(すがわらのたかみ)のことで、吉祥天は道真の正室のことをいう。
 江戸時代になって古い天神社を天満天神とされた菅原道真を祀るとしてしてしまった例は多く、これもその一例だったようだ。最初から道真を祀る天満宮として建てられたとは思えない。
 現在の祭神の少彦名(スクナヒコナ)がいつどこから来たのかは分からない。古くからの言い伝えでもあったのか、明治以降の後付けなのか。
『尾張名所図会』にはこうある。
「武島天満宮 山神の社の南にあり。神前の古鏡(こきょう)に、武島天満宮の文字あり。武島はもと地名にして、今川氏豊の家臣等、たけしまに居住ありしよし、「那古野合戦記」に見えたり。例祭正五九月二十五日。社人は山神の三谷氏兼帯(けんたい)なり」
 古鏡というのがいつ頃のものかは判断がつかないのだけど、那古野城は今川義元の父である今川氏豊が1520年頃に築城した城で、当時の今川氏は尾張のここまで進出してきていた。その家臣たちが武島のあたりに住んでいたということらしい。
 ただ、熱田台地の北は名古屋城築城当時ですらまだ湿地帯で、台地の縁は10メートルの崖だったというから、城を拠点にするという意味でもここは住むには適さない場所だったように思うけどどうなんだろう。住むなら台地上の城の南の方がいい。

 武島梅の木以外にも五平蔵町、上宿六軒町、泥町だった時代がある。
 五平蔵町の由来は、那古野城時代に穀倉が置かれたからという説と、天神、山神の御幣蔵から転じたという説がある。御幣(ごへい)というのは社の前に立てかけてある木に白い紙(紙垂)をつけた祭具で、五平餅は御幣に形が似ているところから来ている。
 泥町というのは文字通りこのあたりが湿地帯だったことから名づけられたに違いない。
 泥は古くは「ひじ」といい、土に点の入った「圡」という字が使われた。土呂町と称すこともあったようだ。
 津田正生などは、『国内神名帳』にある泥江縣天神は武島の天神のことではないかと書いている。にわかには信じがたいのだけど、まったくあり得ない話ではない。
 熱田台地の北部から中央部の古い神社を見ると、北から若宮の創建が天武天皇時代の680年頃、泥江縣神社が859年、洲嵜神社が860年頃とされている。これは確かなことではないにしても、そういう話が伝わっているということ自体に意味がある。これらの神社はいずれも『延喜式』神名帳に載っていない。もし本当に平安時代中期までにあったとしたら、927年完成の『延喜式』が編さんされた時点でこれらの神社は官社とされなかったということだ。そういう神社を式内社に対する式外社(しきげしゃ)と呼び、少なからずある。
 熱田台地北部では遺跡や古墳は見つかっていない。そして、このあたりに尾張氏の影は感じられない。だとすると、尾張氏の傘下でもなく、中央の朝廷ともつながりのない第三極ともいえる勢力がこの地にいて神社を建て、やがて歴史の表舞台から姿を消したといったことがあっただろうか。熱田台地北部の歴史についてはよく分からない部分が多い。
 今の泥江縣神社は江戸時代は廣井八幡と呼ばれたように八幡の性格が濃い神社だ。もしかすると鎌倉時代以降に建てられた八幡社かもしれない。泥江縣天神は那古野にあった天神のことではないのかという津田正生の説はあり得るというのはそういうことだ。
 もちろん、それを示す証拠といったものは何もなく、私自身その説を信じているというわけではないのだけど。

 境内には雑草や野草が好き放題生い茂っており、やや捨て置かれた印象を受ける。その野放しな感じが逆にいい。
 那古野城すらなかった時代から熱田台地の北の端っこにあった小さな神社は、人の思惑と時代に翻弄されながらも現在まで生き残った。
 天神社といいながら受験の神様といった緊迫感もなく、静かな町で静かな余生を過ごしているように感じられた。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

生きものいきいき城西の武島天神社

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