江戸時代のここは源兵衛新田と呼ばれた場所で、源兵衛の名前はそのまま町名として残った。
江戸時代中期の1706年(宝永3年)、大高村に住む山口源兵衛が堀川の材木商、神戸文左衛門の資金援助を受けて三十八町の新田を開発した。
地理的なことをいうと、東には牛毛荒井村があり、源兵衛新田との間には1672年(寛文12年)に開発された鳴海伝馬新田があった。西側は後に柴田屋新田が作られた(1752年)。
源兵衛新田の最初の入植者は23 戸、107人だったという。
一町は約1ヘクタールで、1万平方メートルになる。現代の機械を使っても個人農家で1ヘクタールの田んぼを維持するのは難しいというのに、38ヘクタールを23戸でやるのはかなり厳しかったのではないかと思う(すべてが田んぼだったわけではないだろうけど)。
この新田が完成したとき、五穀豊穣と村の安全を願って山口源兵衛が建てたのが天王社だった。祭神は牛頭天王だったはずだ。
その記念として植えたイチョウの木が今も残っている。上の写真の左手に少し写っているのがそれだ。樹齢は300年を超えている。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「此の地に宝永三年(1706)山口源兵衛(大高町山口神主の祖)許を受け新田を開き土地の守護神を翌宝永四年十月、天王社を祀る。当時境内に宮本義兵衛銀杏の樹を植えたりと今尚この木在す。明治制度改めにより須佐之男社と改称、明治5年7月、村社に列し、昭和15年9月3日、指定社となる」
これによると神社を建てたのは新田完成の翌年、1707年とある。それは充分にあり得ることだ。
「山口神主の祖」というのがよく分からない。
明治の神仏分離令を受けて天王社を須佐之男社とあらため、祭神も須佐之男としている。明治5年頃に村社に列格した神社が多い。
指定社というのは、郷社、村社を対象に県知事などから祈年祭、新嘗祭、例祭に神饌幣帛料を供進された神社のことで、正式には神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ)という。一般的に指定村社というとそういう神社のことだ。
源兵衛の須佐之男社は昭和15年にこの指定を受けたというわけだけど、戦時中のこの時期にどういういきさつがあったのかは分からない。
終戦後は旧社格の制度自体が廃止になったため、この制度もなくなった。
『尾張志』(1844年)には「天王ノ社 源兵衛新田むらにあり」とある。
『尾張徇行記』(1822年)には「源兵衛新田 南野繰出新田」とだけあり、神社に関する記載はない。
源兵衛町は昭和9年に鳴尾町の一部より成立した。
戦前までは農業地帯だったのが大同特殊鋼星﨑工場の進出(昭和12年)もあり、工業・住宅地帯になっていった。
今昔マップで明治以降の変遷を辿っていくと村(町)の移り変わりが見てとれる。
昭和34年の伊勢湾台風ではこのあたりも大きな被害を受けた。天白川の堤防が決壊して水浸しになっただけでなく、貯木場にあった木材が町を襲って甚大な被害を及ぼすことになった。
やや皮肉なことに、材木商の援助でできた土地が材木によって壊される形になってしまったのだった。
その後復旧して、今では田畑もほとんどなくなり、住宅地となっている。ただ、相変わらずの海抜0メートル地帯ということで、巨大台風や津波に襲われたときの被害が懸念される。
そのときスサノオさんは町と住人を守ってくれるだろうか。
作成日 2018.2.24(最終更新日 2019.8.20)
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