須佐之男神社(広路町)

西村さんちから昭和区広路に

広路町須佐之男社

読み方 すさのお-じんじゃ(ひろじ-ちょう)
所在地 名古屋市昭和区広路町石坂79-3 地図
創建年 1773年(江戸時代中期)
社格等 指定村社・十二等級
祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)
アクセス

・地下鉄名城線/鶴舞線「八事駅」から徒歩約7分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 昭和区には東区から移された須佐之男社が2社ある。ひとつが汐見町にある須佐之男社で、もうひとつがこの広路町にある須佐之男神社だ。
 名古屋城下の東の外れの中級・下級武家屋敷が集まっていた東区東部と千種区西部にたくさんあった天王社のひとつで、明治になって須佐之男社に変えられ、一部は東区、千種区に残り、一部は他に移された。中村区日吉町にある素盞男神社も古井村(千種区内山町)にあった天王社だ。
 どうしてその地区に天王社が密集していたかについては、東区古出来の東之切・須佐之男社のページに書いた。
 1700年代後半に、尾張藩9代藩主の徳川宗睦(とくがわむねちか/むねよし)が城下の人々に疫病除けのための天王社を祀ることを奨励したのもひとつの理由だったようだ。

 この神社については『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「社伝に安永二年(1773)正月吉日、水筒先に居住した尾張藩士西村某が尾張津島神社の分霊を迎え地内に祀っていた。その後愛知郡御器所村大字広路字石坂の村民、同地に産土神の無いのを嘆き、明治34年1月23日官許を得て明治35年3月10日、石坂の山林中(今の社地)に遷し迎えて奉斎した。昭和19年8月1日、村社に列格する。昭和19年11月14日付官許を得て、須佐之男社を須佐之男神社と改む。昭和19年11月15日指定社となる」

 水筒先(すいとうさき)は今の東区筒井から葵町あたりで、水筒先町はなくなってしまったものの桜通水筒先交差点や水筒先バス停留所などに名前を残している。
 北にある尾張徳川家菩提寺の建中寺(web)の堀から取った水を流す樋(とい)が南北方向に引かれた道筋だったことが地名の由来とされる。
 その水筒先に住んでいた西村という尾張藩士が津島神社(web)から勧請して自宅で牛頭天王を祀ったのがこの神社の始まりとのことだ。
 明治の神仏分離令で祭神を牛頭天王から須佐之男命に変えられ、その後も西村氏宅でずっと祀られていたのかどうか。広路町の住民がどうしてその神社に目を付けて自分たちの町にもらおうと思ったのか、そのあたりのいきさつはよく分からない。広路町の現在地と東区水筒先の元地は直線距離で5キロ以上離れている。
 移された明治35年(1902年)当時、このあたりはまだ山林が残る土地だったようだ。そのときの広路町石坂の戸数が17だったという。
 今ではすっかり住宅地となっているものの、八事の丘陵地帯ということで標高が高く、坂が多い。

 昭和19年という戦時中に村社に列格して、社名を須佐之男社から須佐之男神社に変える許可をもらい、同じ年に指定社となっている。国内で本当に戦争を実感するのは空襲が激化してからだったのだろうか。戦時中に神社を移したりしているし、のんきというと言い過ぎだけど、神社にも住人にも日常はあったということだ。
 それにしても、どうしてこの時期にそんなとんとん拍子の出世をしたのか、ちょっと気になるところではある。

 戦後の区画整理で境内がだいぶ縮小してしまい、おまけに道路の付け替えをしたところ神社が袋小路になってしまった。どうしたものかと困っていたところ、八事山興正寺(web)の江崎恵海住職が道路沿いの土地を提供してくれたおかげで、今の社地となった。
 興正寺は相当広大な土地を持っていて、八事一帯はすべて興正寺の境内だった。中京大学も名古屋キャンパスを作るときに江崎恵海住職にはかなり世話になったようだ。
 このような経緯もあって、現在境内社となっている秋葉社、金比羅社、山之神は、興正寺門前の表山にあったのを移したものだ。
 ちなみに、広路町(ひろじちょう)の地名は、北を通っている飯田街道(153号線)が当時としては幅の広い道路だったことから名付けられた。

 小さな個人宅の天王社が始まりだったことを思えば、なかなか出世した神社といえるんじゃないだろうか。見知らぬ土地に引っ越しすることになったとはいえ、広路町石坂で大事にされている。西村某さんも喜んでいることだろう。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

昭和区石坂の須佐之男神社も東区由来

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