西村さんちから昭和区広路に | |
読み方 | すさのお-じんじゃ(ひろじ-ちょう) |
所在地 | 名古屋市昭和区広路町石坂79-3 地図 |
創建年 | 1773年(江戸時代中期) |
旧社格・等級等 | 指定村社・十二等級 |
祭神 | 須佐之男命(すさのおのみこと) |
アクセス | 地下鉄名城線/鶴舞線「八事駅」から徒歩約7分 駐車場 なし |
その他 | 例祭 10月17日 |
オススメ度 | * |
昭和区には東区から移された須佐之男社が2社ある。ひとつが汐見町にある須佐之男社で、もうひとつがこの広路町にある須佐之男神社だ。 名古屋城下の東の外れの中級・下級武家屋敷が集まっていた東区東部と千種区西部にたくさんあった天王社のひとつで、明治になって須佐之男社に名を改め、一部は東区、千種区に残り、一部は他に移された。中村区日吉町にある素盞男神社も古井村(千種区内山町)にあった天王社だ。 その地区に天王社が密集していた事情などについては、東区古出来の東之切・須佐之男社のページに書いた。 1700年代後半に、尾張藩9代藩主の徳川宗睦(とくがわむねちか/むねよし)が城下の人々に疫病除けのための天王社を祀ることを奨励したのもひとつの理由だったようだ。 汐路町の須佐之男社は、その宗睦が創建したとされる。 この神社については『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 水筒先(すいとうさき)は今の東区筒井から葵町あたりで、水筒先町はなくなってしまったものの桜通水筒先交差点や水筒先バス停留所などに名前を残している。 昭和19年という戦時中に村社に列格して、社名を須佐之男社から須佐之男神社に変える許可をもらい、同じ年に指定社となっている。国内で本当に戦争を実感するのは空襲が激化してからだったのだろうか。戦時中に神社を移したりしているし、のんきというと言い過ぎだけど、神社にも住人にも日常はあったということだ。 それにしても、どうしてこの時期にそんなとんとん拍子の出世をしたのか、ちょっと気になるところではある。戦争と無関係ではなかっただろう。 戦後の区画整理で境内がだいぶ縮小してしまい、おまけに道路の付け替えをしたところ神社が袋小路になってしまった。どうしたものかと困っていたところ、八事山興正寺(web)の江崎恵海住職が道路沿いの土地を提供してくれたおかげで、今の社地となった。 興正寺は広大な土地を持っていて、八事一帯はすべて興正寺の境内だった。中京大学も名古屋キャンパスを作るときに江崎恵海住職にはかなり世話になったようだ。 このような経緯もあって、現在境内社となっている秋葉社、金比羅社、山之神は、興正寺門前の表山にあったのを移したものだ。 ちなみに、広路町(ひろじちょう)の地名は、北を通っている飯田街道(153号線)が当時としては幅の広い道路だったことから名付けられた。 小さな個人宅の天王社が始まりだったことを思えば、なかなか出世した神社といえるんじゃないだろうか。見知らぬ土地に引っ越しすることになったとはいえ、広路町石坂で大事にされている。西村某さんも喜んでいることだろう。 作成日 2018.2.7(最終更新日 2019.3.18) | |
ブログ記事(現身日和【うつせみびより】) 昭和区石坂の須佐之男神社も東区由来 | |