かの里にある2社の神明社のうち、北側にある方を上神明社(かみしんめいしゃ)、南側にある方を下神明社(しもしんめいしゃ)と呼んでおり、この呼び方が正式名となっている。 かの里はかつて包里村だった。これで「かねさと」といっていた。読みづらいからひらがなにするのは分かるのだけど、どうして「かね里」とせず「かの里」としたのかは分からない。 津田正生は『尾張國地名考』の中で包里村の由来についてこう書いている。 「【近藤利昌曰】「地名人の名に因にや」 【正生考】「或は川根里(かねさと)にや猶考ふべし」 地理的なことをいえば、江戸時代前期まではすぐ南が海で西は戸田川の河口だったから川根の里というのはふさわしいように思うのだけど、「かねさと」の呼び名に「包」という字を当てるのは不自然に思える。意味からしてもこれは「包む」という言葉だし、包を「かね」と読むことは昔でさえ一般的ではなかったのではないか。 包を「かね」と読ませるのは人名の方が多いように思う。ただ、だからといって人名説が合っているかというと何とも言えない。 津田正生も「猶考ふべし」と言っている。考えたからといって分かることでもないけれど。
江戸時代の書には以下のように書かれている。
『寛文村々覚書』(1670年頃) 「神明弐ヶ所 社内 年貢地 助光村 忠太夫持分」
『尾張徇行記』(1822年) 「助光村祠官二村式部書上帳ニ、神明社境内四畝給人除 此社草創不知、再建ハ寛永十六卯年也 神明社内二畝給人除 此社草創不知、元和七酉年なり 覚書ニ社内年貢地」
『尾張志』(1844年) 「神明ノ社 二所 包里村にあり」
包里村に神明社が二社あって、どちらも助光村の祠官の持分で年貢地だったことが分かる。 どちらがどちらの神明社のことを書いているのか判断がつかないのだけど、再建は寛永16年(1639年)と元和7年(1621年)という記録が残っていたようだ。 一社の「給人除」というのは他では見たことがない。江戸時代の給人というと大名から知行地を与えられた上級家臣のことなので、尾張徳川家の重臣の知行地となっていて除地とされたということだろうか。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「創建は明かではない。『尾張志』に”神明ノ社二所包里村にあり”と西郷の氏神として崇敬あつく、明治5年7月、村社に列格した。昭和57年7月社殿を造営する」 上神明社が西郷の氏神で、下神明社が東郷の氏神と、南北ではなく東西で分かれていたようだ。 祭神は上神明社が天照皇大神で、下神明社が豊受大神となっている。伊勢の神宮(web)の内宮と外宮に見立てた格好だ。元からそうなのかどうかは分からない。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、上神明社は集落内の北端にあったことが分かる。 戦中に近鉄の名古屋線が通ったときも神社をよけて通されているので場所は動いていない。 このあたりが住宅地になったのは近年のことで、西を流れる戸田川沿いは今でも田んぼが広がっている。
現在の社殿は昭和57年に建て直されたコンクリート造で、まだ新しい印象を受けた。 入り口左手にはスロープが設けられていて、参拝者への気遣いも感じられる。 二社でセットのようなものなので、上へ行ったら下も行っておきたい。
作成日 2017.12.2(最終更新日 2019.7.11)
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