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稲荷社(義市稲荷)

竹腰正信が祀ったのかどうか

義市稲荷社

読み方 いなり-しゃ(よしいち-いなり)
所在地 名古屋市東区芳野2丁目7-29 地図
創建年 1628年(江戸時代前期)
旧社格・等級等 無格社・十五等級
祭神 保食神(うけもちがみ)
アクセス 名鉄瀬戸線「尼ヶ坂駅」から徒歩約8分
駐車場 なし
その他 例祭 4月9日
オススメ度

 神社本庁の登録名は稲荷社。通称、義市稲荷(よしいち-いなり)。
 この義市がどこから来ているのか調べがつかなかった。このあたりの地名ではなさそうだから人名だろうか。京都伏見あたりに義市稲荷でもあるのかと思ったらそうでもないようだ。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は寛永五年(1628)2月、尾張徳川家の竹腰正信邸に奉斎年々祭祀を続けたが、維新廃藩により上地となり。明治7年7月、共祭公許となる。(義市いなり)」

 竹腰正信は尾張藩の付家老をつとめた人物で、その竹腰邸で祀ったのが始まりということだ。
 ただ、これだけではよく分からないだろうから、もう少し説明が必要だ。

 竹腰氏(たけのこし)は宇多源氏の佐々木信綱から出た一族で、大原持綱の孫・重綱が尾張国中島郡竹腰村に移住して竹越七郎を称したのが始まりとされる。
 その後、美濃にも進出して重綱の弟・尚綱が1500年に大垣城(web)を築き、重綱の子の重直が跡を継いだ(当時は牛屋城といっていた)。
 一族は美濃斎藤氏に仕えるも斎藤氏が信長によって滅ぼされると山城国に移った。正信は1591年に紀伊郡八幡山で生まれている。
 正信が家康に仕えることになったのは、正信の母・お亀の方が家康の側室になって五郎太丸(後の尾張藩初代藩主の義直)を生んだからだった。
 家康には正室の他に15人ほどの側室がおり、11男5女をもうけた。その中には子持ちの後家さんなども多い。
 信康の母・お亀の方が側室になったのは1594年だから、正信はまだ3歳の頃だ。父の正時がどうなったのかはよく分からない。
 お亀の方が五郎太丸を生んだのが1600年(第一子の仙千代は1595年に生まれて早世)。
 正信が召し出されたのが1601年だから10歳のときだ。家康から見ると結婚相手の連れ子で血縁はないのだけど、見込みがあると思ったのだろうか、甲斐国5,000石を与えた。
 1605年に家康が家督を息子の秀忠に譲って駿府に移ると正信もそれに従った。
 1607年に成瀬正成とともに義直の後見役に任じられる。正信にとって義直は異父同母弟ということになる。
 前年の1606年に兄の松平忠吉(家康の四男で秀忠の同母弟)が死去したのを受けて清洲藩主となった幼い義直を補佐する役割だった。
 1610年から始まる名古屋城(web)築城に際しては普請役を務め、1616年に義直が名古屋城に移ると尾張藩付家老をとめた。竹腰家は幕末まで続くことになる。
 正信は美濃の今尾を本拠としており、3万石を与えられていた。
 名古屋城下の芳野に竹腰正信が邸宅を構えたのがいつだったかということがひとつ問題となる。
『愛知縣神社名鑑』によると竹腰邸で稲荷社を祀ったのは1628年という。なんとなく時期的に中途半端な気がする。その頃稲荷神が流行りだしたから流行に乗ったということだろうか。あるいは、竹腰家がここに屋敷を建てたのがその年だったという可能性もあるか。
 家老ともなると城下にいくつもの屋敷があって、竹腰家の上屋敷(本宅)は三の丸の内堀のすぐ南にあった。東照宮(名古屋東照宮)と天王社(那古野神社)が並ぶはす向かいくらいで、今の愛知県警察本部(地図)がある場所だ。
 正信は1645年に55歳で死去した。法号は正信院安誉道輝。
「維新廃藩により上地となり。明治7年7月、共祭公許となる」というのは、明治2年(1869年)の版籍奉還で土地と人間は藩ではなく明治政府のものということになり、藩士の大きな邸宅などは取り壊されて上地(あげち)となった。土地も政府に取り上げられたということだ。
 明治4年(1871年)に廃藩置県が行われ、藩に代わって県が置かれた。
 竹腰家は明治元年(1868年)に明治政府から美濃今尾藩を与えられて独立することになり、名古屋を引き払って美濃今尾に移っていった。
 その際、この稲荷社は持っていなかったようで、明治7年(1874年)に共祭公許となったということだ。
 竹腰家の上屋敷があった場所に名古屋県の政事堂が置かれ、しばらくそこが県庁となっていた。

 芳野にあった竹腰邸は下屋敷になるのだろう。名古屋城の天守から見て東2.3キロほどで、名古屋台地の北の縁に当たる。今の名古屋市工芸高校がある場所に邸宅があった。どうしてこの場所を選んだのかはよく分からない。すぐ北は崖のようになっている。
 名古屋市工芸は愛知第一師範学校があった跡地に建てられている。
 愛知第一師範学校は明治7年(1874年)に創立された愛知県養成学校が元になっており、戦後に愛知教育大学へと統合した。
 名古屋市工芸は大正6年(1917年)に名古屋市立工芸学校として布池に創立され、何度か移転した後、昭和26年(1951年)に現在の場所に移転した。
 学校の西には片山神社がある。式内の片山神社の論社とされてはいるけど、江戸期は蔵王権現と呼ばれた比較的新しい神社という話もあり、式内社とは断定できない。個人的には片山八幡神社こそが式内の片山神社ではないかと思っている。
 ついでに書くと、この義市稲荷は片山八幡神社の宮司が兼務している。

 芳野の地名は、竹腰氏の家臣の吉田弥四郎が吉野桜を植えたことで桜の名所となり、そこから芳野に転じたという説がある。
 吉野といえば蔵王権現で、蔵王権現といえば金峯山寺(きんぷせんじ/web)と役行者。片山神社は684年に役行者が天武天皇の命を受けて三河に瀧山寺(web)を開くときに立ち寄って蔵王権現を祀ったのが始まりという話もある。
 蔵王権現と吉野桜と芳野がつながるといえばつながる。
 片山神社の少し南に長久寺(地図)という寺があり、この一帯から縄文中期(4000~5000年前)の貝塚や土器、石器などが出土している他、縄文後期から弥生中期の土器や石のやじりなどが見つかっている。
 縄文時代は名古屋台地の北と西は海だった。弥生時代になると海面が下がって、台地の下は湿地になった。
 片山神社が醸し出す尋常ではない空気感は古い歴史の積み重ねから来ているのかもしれない。
 片山神社の東の坊の坂や南の尼ヶ坂は「よく出る」といわれる。見える人には見えて見ない人には見えないあれだ。神社境内の杉は天狗が腰を掛けていた木だったという言い伝えもある。

 義市稲荷では宗像社と春日社・天神社合殿も一緒に祀っているという。
『尾張徇行記』(1822年)の新出来町の項に「稲荷祠弁才天祠、在同所、遷府以前尚有焉 神明祠、在同所、貞享年中仍□公命勧請也」とあるのだけど、これは義市稲荷のことではないのだろうか。もしそうだとすれば、名古屋城築城以前からあったといっているので『愛知縣神社名鑑』の記述とは違っている。貞享年は1684-1688年で、このときの藩主は二代藩主の光友だ。光友が神明社を勧請したということだろうか。
 いろいろはっきりしないのだけど、もしかすると、これはけっこう重要な社かもしれない。宗像社については義直が祀ったとされるものがその後どうなってしまったかよく分からなくなっているし、春日社と天神社が相殿になっているというのも気になる。いずれも名古屋城下にあったもののはずだ。竹腰家と直接関係があるものなのか、明治以降に合祀されたものなのか。
 片山八幡神社の宮司さんに訊ねれば何か分かることがあるだろうか。

 

作成日 2018.6.17(最終更新日 2019.2.21)

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