松原町にあるので松原八幡社と呼ばれている。神社本庁への登録名は八幡社となっている。 町名を付けた名称で登録すればいいではないかとも思うのだけど、町名もちょくちょく変わったりするから下手に付けてしまうと後からかえってややこしいことになる。 江戸時代のここは中野高畑村で、そのうちの旧中野村に当たる。中野村と高畑村がいつひとつの村になったのかは分からない。 松原八幡社について分かっていることは少ない。創建年も、誰が建てたのかも伝わっていない。 ただ、ちょっと気になることが『愛知縣神社名鑑』に書かれている。 「『若宮旧記』寛政三年(1791年)氷室紀長記に、若宮八幡社境外末社にして若宮の管理支配するところとある」 『若宮旧記』は若宮八幡(若宮八幡社)の社記だと思うけど、氷室紀長は江戸時代中期の若宮八幡社の宮司か何かだろうか。 どういう経緯で中野高畑村の八幡が境外末社になったのかはまったく分からない。若宮八幡社から見て松原八幡社は3.5キロほど西北に位置している。 近くにある中島八幡社も、同じように若宮八幡社の境外末社になっている。
中村区のこのあたりのかつての村の位置関係や境界線がよく分からない。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、このたり一帯は則武村になっている。明治9年(1876年)に中野高畑村、中島村、大秋村が合併して則武村になった。集落が東西に伸びて一体化していて、かつての村界が分かりづらい。 『尾張志』(1844年)は中野高畑村と神社についてこう書いている。 「大秋村の南名古屋より半里余西にあり東を高畑といひ西を中野といふ」 「二社中野高畑村にあり 八幡ノ社 中野分の氏神なり 水野ノ社 高畑分の氏神なり」 大秋村にも八幡社があり、その南が中野高畑村というなら、松原町がそうということになる。 水野社は現在の地名でいうと則武2丁目になる。かつてはここが高畑村だったということだ。高畑というと地下鉄高畑駅があるあたりを思うけど、それはここからずっと南西の中川区だ。
『尾張国地名考』には、中野高畑村は二村を結んで呼んでいるもので、荒子村の方にも高畑があるからそれと区別するためとしている。 続いてこう説明している。 「大秋、中島、中野、高畑の四村は旧一円なり」 大秋と中島は今も地名が残るから分かる。中野は今の松原で、高畑が現在の則武2丁目あたりということになるだろうか。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の中野高畑村はこうなっている。 「社弐ヶ所 内 八幡 権現 社内年貢地 名古屋若宮祢宜 主膳持分」 権現は水野社のことだと思うけど確信は持てない。 江戸時代前期にはすでに八幡は名古屋若宮の持分となっていたようだ。
『尾張徇行記』(1822年)は中野村に水ノ神があると書いているけど、これはたぶん間違いないで、中野村の氏神は『尾張志』がいうように八幡だっただろう。
『寛文村々覚書』の時代は年貢地となっており、『尾張徇行記』では年貢地ではあるけど村除となっている。そこからすると、八幡の創建は江戸時代前期かもしれない。あるいは、江戸時代前期に別の場所から移されたという可能性もある。
このあたりは八幡社が多く、どこも拝殿の作りがよく似ている。同じ宮大工が手がけたのかもしれない。見比べると違いがあるのが分かるのだけど、ぱっと見は区別がつかないほどだ。建て売りの分譲住宅のようにそっくりでもあり少しずつ差別化が図られている。 ここ松原八幡社と栄生町の八幡社が東向きなのは、何か特別な意図があってやっていることなのだろうか。 これだけ狭いエリアに八幡が集まっているということはある時期に八幡が流行ったのか、このあたりの支配者が八幡に変えたのか、あるいは偶然そうなったけだろうか。 若宮八幡の境外社になっていることはやはり気になることで、そのあたりに何かひとつ鍵がありそうだ。
作成日 2017.5.30(最終更新日 2019.4.24)
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