熱田神宮(web)の西門を出て、国道19号線に架かる歩道橋を渡り、白鳥小学校を過ぎた住宅地の一角にその神社はある。 小さいな、というのが第一印象だった。狭いな、と言った方がいいかもしれない。 熱田神宮の境外社16の内、摂社は4社ある。そのうちのひとつが青衾神社で、高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)、氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)とともに『延喜式』の神名帳(927年)に載る神社だ(もう一社は松姤社)。 ただし、熱田七社には含まれていない。 青衾神社は、江戸時代にはすでによく分からなくなっていた神社で、いろいろな人がいろいろなことを言っていて、誰が本当のことを言っているのか判断がつかない。誰も真相を言い当てていないのかもしれない。 熱田神宮関連の神社が難しいのは、もともと独立した神社だったものが熱田社の勢力に取り込まれる過程で祭神が変更され、神社としての性格が変わってしまった点にある。更に、明治に入って伊勢の神宮寄りの神社へと移行したことでますますややこしいことになってしまった。
江戸時代、熱田神宮西南のこのあたりは田中と呼ばれる寺町で、当時の地図を見ると大小20以上の寺があったことが分かる。その一角に、今と同様に小さく青衾神社が描かれている。周囲に神社はなく、ほとんど寺の境内に取り込まれているような格好だ。 最初からこの場所に創建されたのかどうかは何とも言えない。場所柄、熱田社を創建した尾張氏とまったく関係がなかったとは思えないのだけど、もともとは熱田社と無関係の神社だったとすれば、こことは全然別の場所に創建された可能性はある。 どうやら鎌倉時代までには熱田社の摂社となっていたようだ。 ただ、平安時代中期の『延喜式』神名帳に載っていることを考えると、熱田神宮の摂社として創建されたとは考えにくい。 『尾張国内神名帳』(平安時代末)には正二位(従二位とも)青衾名神とあり、高位の神社だったことが分かる。 青衾神社同様、途中で熱田の勢力に取り込まれたと思われる高座結御子神社ともあわせて考える必要がありそうだ。
『尾張志』(1844年)は、諸説あって祭神ははっきりしないとし、「葉栗郡 宇夫須那(ウブスナ)神社、武蔵国男衾郡(ヲブスマのコヲリ)小被(ヲブスベ)神社、 加茂郡 阿夫階(アブシナ)明神など似ている社号がある」というのみで明確なことは書いていない。 『尾張名所図会』(1844年)も、「田中にあり。延喜式神名帳、本国神名帳に正二位青衾明神とある是なり」と、ごくあっさりした記述しかない。 「海蔵門の外なる青衾祠は、此社の遙拝所なるべし」ということと、「末社 新氷上祠境内にあり」ということも付け加えている。 かつて熱田社境内に海蔵門があって、その南の左右に祠が6つずつ並んでおり、そのなかのひとつに青衾祠があった。それは本社ではなく遙拝所だということを言っている。 東に青衾祠、西に白衾祠があり、それぞれ「アヲブスマ」として、青衾では日神を祀り、白衾では月神を祀っていたという。 このうち、青衾は明治に入って廃絶となり、現在の青衾神社は白衾の方とされる。 ただし、西東六社が遙拝所というのであれば、本社は別にあったということで、白衾が青衾神社になった云々という話はどうなんだろうと思う。 津田正生は『尾張国地名考』の中で「今の村民しろふすまの宮とよぶは誤りなり 青衾は日魂 白衾は月魂なりをいう説さえおこる笑うべし」と書いて真っ向から否定している。 津田正生の独自説は、「青衾の二字はかりモジ」で、「阿夫寸痲乃美也志呂とよみ」、「阿夫寸痲とは産砂の轉聲なるを中古其まま書取たるなり」とする。 つまり、「アヲブスマ」は「ウブスナ」から転じたもので、この神社は産土神を祀るものだというのが津田正生の主張だ。そう言っているのは津田正生だけではなく、愛智郡の産土神を祀るとか、田中の産土神だとか、いろいろ説があり、津田正生は「産砂の義いよいよ詳明なり祭神は尾張姓の先祖天の香語山命なるべし」と書いている。 また、『尾張国神社考』では、【里人曰】として、「この白衾の宮は熱田田中の産土の神なり 子うまれて後三十三日目といふにまづ此宮に参りてそれから大宮彌劔(やつるぎ)へまいる事むかしよりの例格なりといへり」という話を紹介している。 『尾張志』では本社である青衾神社よりも境内にある末社の新氷上祠が気になるようで、そちらについても触れている。 要約すると、新氷上の社は今現在青衾神社境内に末社となっているけど、もともとは別の場所にあった由緒ある社で、今は落ちぶれてしまって嘆かわしいなどと書いている。どうやら熱田にあった新氷上社と大高の氷上姉子神社は対の関係だったようで、『本国帳』では大高の氷上社を従一位とし、熱田の氷上社を従二位(または正二位)としている。 その新氷上社が、いつどういう経緯で青衾神社の末社として祀られることになったのかも気になるところだ。
祭神は現在、天道日女命(アメノミチヒメ)となっている。 津田正生がいう天香語山命(アマノカゴヤマ)は、尾張氏の遠祖とされる神で、父に当たる天火明命(アメノホアカリ)とともに東谷山の尾張戸神社で祀られている。 天道日女から見ると天香語山は子供だ。 天道日女は大己貴命(オオナムチ)の娘とされるので、出雲神ともつながっていくことになる。 このあたりの関係性がややこしいのは、天火明は饒速日命(ニギハヤヒ)と同一神とする説があることだ。そして、高倉下(タカクラジ)は天香語山のことという。 高倉下は高座結御子神社の祭神なので、青衾神社の祭神が天香語山とすると、高座結御子神社と青衾神社は同じ神を祀っているということになる。本当か? と、自分で書いていて信じられない。 ただ、津田正生が紹介した里人の話がここで浮かび上がる。子供が生まれて33日目に青衾神社にお参りをして、その後、熱田本社、八劔社に参るのが昔からの習わしとして伝わっているという話だ。高座結御子神社も、たかくらさんと呼ばれ、昔から子供の守り神とされてきた。祭神の高倉下はこの地の産土神とされている。この一致を偶然として受け流してしまっていいのだろうか。 青衾神社の祭神を天火明命(饒速日命)とする説もあるのだけど、個人的な印象でいうとここは女性の神が祀られているような気がする。 天道日女は天の道姫であり、お天道さまとも通じる。天の字を冠していることからして天孫族の一員に違いない。違う名前の神として知られる別名とも考えられる。
青衾神社のもう一柱の祭神として天白王月神としているものがある。 正体はまったくの不明で、どこからこの神の名前が出てきたのかよく分からない。天白とあるから天白信仰と関係があるのかないのか。 月神とあるから、月の神なのだろう。青衾、白衾の日と月云々というものの名残だろうか。 青衾神社の例祭は中秋の名月の日に行われていることからすると、月の神と何らかの関係があるのかもしれない。それが本来祀られていた産土神の正体だとしたら、謎はますます深まる。
謎といえば、気になる記述を見つけた。三渡俊一郎『熱田・瑞穂区の歴史』という本の中に以下の記事がある。 「天ノ岩戸跡(田中町) 宗祇『名所方角抄』(1502)によると、蓬莱山とて社頭より西鳥居の外に築山あり形は亀に似たり高からすして上には 松むらむらにあり亀の頭は南へ向たりただ大きなる塚の如し、又東の方に岩戸を 立てたりとあり、青衾神社の境内に横穴式石室の古墳が中世末に存在していたようである。 円墳か前方後円墳かは判明しないが、亀の頭と表現しているので前方後円墳であった かもしれない」 宗祇というのは、室町時代の連歌師の飯尾宗祇のことなのだけど、その宗祇がいうには青衾神社に古墳らしき塚があって、天の岩戸跡伝説があったというだ。 かなり突拍子もない話に思えるのだけど、熱田の地に古墳がたくさんあるのは事実で、青衾神社にもそれがあったとしても不自然ではない。むしろ古墳があるところに神社を祀ったとも考えられる。 謎の天白王月神というのは、その被葬者または祭祀者かもしれない。
以前の青衾神社は現在地よりもう少し北西の方にあったという話がある。塚があったというのもおそらく旧地ではないかと思う。 第二次大戦の空襲で焼けて、昭和43年(1968年)に今のように再建されているから、そのとき現在地に移されたということか。 時代の変遷の中ですっかり脇に追いやられてしまった格好の青衾神社ではあるけれど、熱田神宮の境内で小さくなっているよりも、狭いながらも独立した社の中にあることをよしとしているかもしれない。 大通りから少し離れたこのへんはけっこう静かだ。隣の小学校からは子供たちの声が聞こえてくる。 すっかりおばあちゃんになった天道日女が静かに暮らすには、ここは案外悪くないようにも思うけどどうだろう。 過去は過ぎ去って今がある。それがすべてといえばすべてだ。
作成日 2017.5.7(最終更新日 2019.9.14)
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