笠寺天満宮

歴史的なエピソードのある寺院内神社

笠寺天満宮

読み方 かさでら-てんまん-ぐう
所在地 名古屋市南区笠寺町上新町47 地図
創建年 1595年(安土桃山時代後期)
社格等 不明
祭神 菅原道真(すがわらのみちざね)
アクセス 名鉄名古屋本線「本笠寺駅」から徒歩約8分
駐車場 あり
webサイト  
オススメ度

 笠寺観音の門前から南に向かって延びる道を170メートルほど進んだところに東光院がある。笠寺観音の12の宿坊のうちのひとつで、かつては東光坊と称していた。
 笠寺観音(笠覆寺/web)の創建が奈良時代前期の733年(天平5年)とされており、東光坊は736年(天平8年)に建てられたというから、ほぼ同時期ということになる。笠覆寺の創建も736年説があるから、もしかしたら同時だったかもしれない。
 宿坊というのは、僧侶や参拝者のための宿泊施設で、平安時代以降大寺院では多く作られた。
 笠覆寺が大きくなったのは平安時代中期の930年以降のことで、もともとは現在地から650メートルほど南の粕畠に善光(禅光)が庵を結んだことに始まるとされている。それを考えると、宿坊が建てられたのはそれ以降のことではないかと思う(笠寺稲荷のページを参照)。
 12の宿坊はこの通り沿いの左右に立ち並んでおり、江戸時代の中期までには宿坊は6つになっていた。現在はそのうちの4つ、西福院、西方院、泉増院、東光院が寺として残っている。
 その東光院の中に天満宮が祀られるようになったいきさつについては門前の説明書きにある。『南区の神社を巡る』などとあわせてまとめるとこうだ。

 近江国蒲生郡(滋賀県近江八幡市)の菅田神社の社人・藤原安長が所持していた菅原道真真筆の画像を、寺部城(寺辺城)の城主・山口半左衛門尉重勝(やまぐちなんさえもんのじょうしげかつ)が近江滞在中に入手して城内で祀っていた。
 重勝の娘・お辰の方が豊臣秀次の側室になっていたが、秀吉によって秀次が切腹させられるとお辰も処刑された。
 それ以上累が及ぶことを恐れた重勝も切腹。寺部城にあった財産は没収された。
 ただ、その中で道真画像は東光院で預かっており、台帳に記載がなかったので、秀吉は所持を認め、東光院は天満宮を建てて祀った。それが1595年で、創建の年としている。

 近江国の菅田神社は藤原不比等(659-720年)が創始に関わったとされる式内社で、社人をしていた藤原安長はその一族の子孫と思われる。
 菅原道真が生きたのは平安時代中期の845-903年なので、画像が描かれたのはその時代いうことになる。
 山口重勝は戦国時代から安土桃山時代にかけての人なので、画像を入手した云々というのはもっとずっと後の時代の話だ。
 道真真筆の自画像という話はちょくちょく出てくるのだけど、全部が本当とは思えない。道真はそんなにたくさんの自画像を残すような性格の人ではなかっただろう。そもそも自画像を一枚でも本当に描いただろうか。
 ただ、この話自体は古くから伝わっているもので、江戸時代の『尾張名所図会』にも書かれている。道真画像が真筆かどうかはともかく、そういう画像があって、そういうエピソードが語り伝えられていたことは確かなのだろう。
 画像に御神酒を供えると顔を赤らめるという話があり、そこから出世神酒天神(しゅっせみきてんじん)ともいわれている。

 山口重勝は、1547年(天文16年)に山口重俊の子として生まれ、最初、織田信雄に仕え、1584年(天正12年)の小牧長久手の戦いにも参加している。
 一時、星﨑城の城主も務めた。
 その後、秀吉に仕え、1586年にいったんは家督を重政に譲って隠居したものの、豊臣秀次の家臣となり、1594年には伏見城の普請をしたりした。
 1595年に秀次切腹事件でともに切腹することになった。
 戦国武将としてはあまりいい評判はない。
 重勝がどういう経緯で道真画像を手に入れたかは分からないけど、喜んで城内に飾っているあたり、無能というよりあまり戦に向かない性格の人物だったのかもしれない。
 重勝が城主をしていた寺部城は、室町時代の末の大永・享禄年中(1521-1532年)に、市場城城主だった山口安盛の弟、山口将監盛重が築城したとされる。重勝は盛重の孫に当たる。
 東西40メートル、南北105メートルほどの規模で、七所神社地図)の北西の高台にあったと伝わっている。今は住宅地になっていて遺構は残っていない。

 宮本武蔵が仕官の口を求めて尾張にやってきたとき、ここ東光坊を宿舎にしていたという話がある。
 武蔵が尾張にやってきて尾張藩に出向き自分を兵法指南役に雇ってほしいと願い出たことは事実のようで、時期としては1630年以降とされている。巌流島の決闘からは10年以上が過ぎた頃のことだ。
 左右両手で書き分けたとされる「南無天満大自在天神」の掛軸や武蔵の肖像画、武蔵自作の木刀と称すものを所蔵している。
 以前は拝観料を取って一般公開していようだけど、今は公開はやめてしまっている。
 尾張徳川家にはすでに柳生兵庫助(柳生利厳)が兵法指南役を務めていたこともあり、武蔵の仕官は叶わなかった。一説では柳生家の禄高が五百石だったのに対して武蔵が一千石を要求したことで決裂したなどともいう。
 武蔵が尾張に滞在したのは数ヶ月とも数年ともされる。

 東光院の本尊は不動明王像で、これは伝教大師の作と伝わる。かつて紀州の熊野新宮の本尊だったもので、1650年(慶安3年)に伝来したとされる。

 訪れたのは2月中旬で、梅の花が咲き出していた。境内には季節の花が植えられていたから、春から夏にかけて訪れるとそのあたりも楽しめると思う。
 あまり一般に向けて開かれた感じではなく、やや荒れた印象も受けるのだけど、歴史を知って訪ねてみると、なかなか感慨深いものがあるのではないだろうか。
 笠寺観音から歩いていける距離だ。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

興味深い歴史が残る東光院の中の笠寺天満宮

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