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景清社


景清が熱田に来ていてもいなくても



景清社入り口

読み方かげきよ-しゃ
所在地名古屋市熱田区神戸町402 地図
創建年伝・1182年(平安時代末)
旧社格・等級等村社・十五等級
祭神平景清(たいらのかげきよ)
アクセス地下鉄名城線「伝馬町駅」から徒歩約7分
駐車場 なし
その他例祭 9月17日
オススメ度

 歌舞伎や浄瑠璃、謡曲などでお馴染みの景清(かげきよ)と言われても、知ってる人は知っていても知らない人は知らない。
 オールド・ゲーマーなら『源平討魔伝』(げんぺいとうまでん)の主人公と聞けば、ああ、あの景清かと思い出すだろうか。
 浄瑠璃『出世景清』をベースにしたアーケードゲームで、のちにPCや家庭用ゲーム機にも移植されたからプレイしたことがあるという人もけっこういるかもしれない。壇ノ浦の戦いで死んだ景清があの世から復活して、義経や弁慶と戦ったりしつつ三種の神器を集めて憎き仇の頼朝を討ち取るという、今考えると斬新すぎるテーマのゲームだった。
 景清伝説といったものが日本各地に残っており、名古屋には熱田にそれがある。景清社もそんな伝説から誕生した神社だ。



  平景清(たいらのかげきよ)。生没年不明。平安時代末から鎌倉時代初期にかけての武将で、伊勢の生まれとさる。
 平と呼ばれたのは平氏について戦ったからで、血筋でいうと藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫とされる。なので、本名は藤原景清だ( 藤原秀郷は平安中期の武人で、平将門の乱を平定するのに活躍したひとり)。
 俗に言う悪七兵衛(あくしちびょうえ)の悪は悪人というよりも悪党と同じように強者(つわもの)という意味で、上総七郎とも呼ばれるのは上総介忠清の七男だからとされる。
 景清の生涯については後年多くの創作物で語られたため、どこまで史実でどこから創作なのか区別がつかないようなことになっている。『平家物語』にも登場するくらいだから、剛の者としてよく知られる存在だったのは間違いなさそうだ。
 どういう経緯で平氏の側につくことになったのかは分からないのだけど、各地の戦に参加して最後は壇ノ浦の戦いで捕らえられたとも消息不明になったともいわれる。
 その死についても諸説あってはっきりしない。壇ノ浦で命を落としたのか、壇ノ浦で捕まったあと絶食して絶命したとか、落ち延びて別の場所で生きていたとか、最終的には頼朝に降伏してお預けの身となった八田知家(はったともいえ)の屋敷で絶食して死んだとか、いろいろな話がある。
 歌舞伎や浄瑠璃などで多く採りあげられたのは、こういう伝説的な人物ゆえにあれこれ想像して物語を作りやすかったというのがある。



 熱田に残る伝承は、平家没落ののち、つてを頼って熱田の地にやってきて、ここで隠れ住んでいたというものだ。熱田には少なくとも3ヶ所、邸宅があったとされる伝承地がある。
 熱田神宮大宮司の藤原季範(ふじわらのすえのり)の伯父だったとか、妻の小野姫が季範の娘だったなどという話もある。
 藤原季範の娘・由良御前(ゆらごぜん)は源義朝の正室で源頼朝の母だ。景清が本当に季範と関係があるとすれば、頼朝とは因縁浅からぬものがある。
 熱田絡みの話でいえば、熱田神宮web)に伝わる脇差・痣丸(あざまる)は景清所有で、眼病に悩まされていた景清が熱田神宮に奉納したという伝承がある。
 刀に映った自分の顔のあざを見たことでそう名付けられたという。
 信長の父・信秀が美濃攻めをした際、熱田社大宮司の千秋季光がこの痣丸を持って出陣したところ戦死したと『信長公記』にある。
 刀は斎藤家の陰山一景が所有することになるも、大垣城攻めのとき陰山一景は両目に矢が当たって失明してしまう。次の所有者となった丹羽長秀も眼病を煩い、再び熱田社に奉納されることになったのだとか。
 どういうわけか、景清の話にはいつも眼のことが出てくる。



 もうひとつ、これは直接関係ないかもしれないけど、熱田社のすぐ近くに平清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)の屋敷があったという。
 平氏に捕らえられた13歳の頼朝を殺さないでくれと清盛に頼んだが池禅尼だったとされる。
 この池禅尼屋敷のすぐ隣には、熱田社大宮司・藤原季範の別邸があった。娘の由良御前は熱田の実家に帰って頼朝を産んだという話がある。池禅尼と藤原家は親しかったということで、頼朝の助命嘆願を頼んだのは藤原家の意向もあったと考えられる。
 景清が実際、季範の縁者だったとすれば、ここにも複雑な人間関係が垣間見える。
 源平合戦といっても、源氏と平氏に真っ二つに分かれた戦いではなく、源氏側にも平氏はいたし、平氏の側にも源氏はいて、単純な構図の戦いではなかった。
 物語では頼朝への復讐に燃える景清という描かれ方がしているけど、本当のところ景清は頼朝を恨んでいたわけではなかったかもしれない。



 景清社について、『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「創建は寿永元年(1182年)九月という。上総七兵衛景清が居住の跡地に鎮祭する。(修造の記録は後述)眼病に霊験あらたかとて祈願者少なからずと。”平家の勇者景清は熱田大宮司の聟で主家没落後、身をやつし熱田に潜居していたが、建久6年(1195年)頼朝に降参して鎌倉の八田知家にて翌年3月7日去る”」
 しかしこれは、どう考えてもおかしい。1182年といえば、前年の1181年に平清盛が死去して源平の争いが激化しつつあった年だ。景清はこの頃、平家の侍大将として各地の戦いに転戦している。壇ノ浦の戦いで平家が滅亡するのは1185年だ。
 1182年に平家は没落などしていないし、景清が熱田に隠れ住む理由もない。ましてや屋敷跡に神社を建てる意味もない。そもそも、景清社の祭神は景清その人で、生前に景清が自分を神として祀るはずもない。
 景清社創建は、早くても鎌倉期以降のことではないだろうか。もしかすると江戸初期くらいかもしれない。
 謡曲『景清』では、熱田の遊女との間に人丸という娘をもうけたという話になっている。
 景清は自ら眼をえぐり出したとも、眼病で失明したともいい、それがのちに治ったなどという話になり、景清社は眼病に霊験あらたかといわれるようになったという話ができあがっていった。
 このあたりの話になると、もうほぼ全面的に創作と現実がごっちゃになってしまっているのだけど、景清社自体は小さいながらもかなりちゃんとした神社だったりする。
 元禄、享保年中、宝暦3年(1753年)、明和8年(1771年)、文化6年(1809年)、天保6年(1835年)、嘉永7年(1854年)と頻繁に修造した記録が残り、明治5年に村社に列格している。松尾芭蕉も熱田社を訪ねた際に、わざわざ景清社を詣でいているくらいだ。
 神戸町(ごうどちょう/大瀬子)は屋敷があったとされる候補地のひとつで、あとの2ヶ所は熱田神宮境内の清雪門のそばと古渡の方だという。



『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)も壽永元年九月創建として、「境内十三坪五合九勺 徳川時代には僅に一坪半ばかりにして」、「祭神は平景清にして、神殿、門、高塀等あり」と書いている。
 江戸時代の『尾張徇行記』(1822年)にはこうある。
「東西四尺三寸南北三尺六寸町町控」
「府志曰」(『張州府志』1752年)として「平家之族士而為熱田大宮司の外壻 不見大宮司系図」
 江戸時代にはすでに熱田大宮司藤原家の外孫に当たる平景清が熱田にやって来ていて(ただし熱田大宮司系図には載っていないとする)、その邸宅址に祀る社という認識がすっかりできあがっていたようだ。社については今ほどの規模はなく小さな祠程度だったらしい。
『尾張志』(1844年)はこういった伝承を紹介しつつ、「建久六年頼朝卿に降り七年三月七日相州鎌倉八田知家か第に死すこの處に所縁ある事いまだ考えず」と書いている。
 景清が熱田に来たという伝承について懐疑的だ。



 それにしても、寿永元年(1182年)九月創建というのはどこから出てきた話なのだろう。もしこれが正しいのなら、景清を祀る神社として創建されたのではなかったということだ。少なくともこの時期、まだ景清は生きている。
 では、その神社は何の神を祀る神社だったのかといえば、それはもうまったく分からない。
 熱田の人たちが景清のことを知ることになるのはそう遅い時期ではなかっただろう。『平家物語』によるか、もしかしたら生前からすでによく知られていたのかもしれない。
 熱田に隠れ住んでいたという話を事実とするのはかなり無理がある。ただ、まったく関わりがなければこれらの伝承は生まれないようにも思う。
 日本各地の景清伝説が残る地では、うちこそ本当に景清が来ていた地だと信じたい気持ちがあるだろう。景清も、まさか死後にこれほど自分が人気者になるとは思ってなかったんじゃないか。
 虚実入り交じる中、ひとつの神社が建てられ、人々は景清のことをずっと覚えていることになった。それで充分という気もする。時に、真実はそれほど重要ではない。




作成日 2017.4.30(最終更新日 2019.8.30)


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