牧神社

島田城跡に牧家の祖神を祀る

牧神社(島田城跡)

読み方 まき-じんじゃ
所在地 名古屋市天白区島田5丁目 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 不明
祭神 不明
アクセス 地下鉄鶴舞線「塩釜口駅」から徒歩約36分
駐車場 なし
その他  
オススメ度

 島田城の跡地に祀られる小さな社。社のある場所が島田城の本丸だったと伝わっている。
 戦国時代の城の規模は東西70メートル、南北180メートルほどだったというからけっこう大きなものだ。
 島田城は牧氏が城主を務めた城で、ここでは牧家の祖神を祀っており、地元では牧神社と呼ばれている。

 島田城は斯波高経(しばたかつね)が貞治年間(1362-1367年)に、一族の牧氏に築かせたとされる。
 斯波高経は名門足利一族で、室町時代に斯波氏は管領(幕府の最高権力)の筆頭を務めた家柄だ。尾張、遠江、越前の守護も兼ねており、鎌倉街道の要衝だった島田の地を押さえるために築かせたようだ。
 1362年は高経は管領職(執事)から引いて四男の義将に継がせた年であり、1367年は政争に敗れて失脚し、落ち延びた先の越前で病死した年に当たる。一線を引いたとはいえ、依然として裏で権力を握っていたとされる中、どうして尾張の島田に城を築こうと考えたのかはよく分からない。
 熊野権現(島田神社)は城の守り神として創建されたという話があるけど、はっきりしたことは分からない。

 尾張の牧氏は斯波高経(清和源氏)の流れを汲む一族で、斯波高経から島田城築城を命じられたのは牧顕朝(義顕)だったとされる。
 この頃の島田がどんな状況だったのかはよく分からない。城を建てて守りを固めないといけないほど緊迫した状況だったのかどうか。南北朝時代(1336-1392年)が続いていたとはいえ、尾張でも戦闘はあったのだろうか。
 城といっても館城だっただろうから、ひとつの拠点としたということだったのかもしれない。
 斯波高経の失脚に伴って尾張島田の牧氏も勢力を弱めた可能性はある。

 再び島田城と牧氏が歴史の表舞台に登場するのは、戦国時代後期の長義のときだ。
 織田信秀の妹を正室に迎えていた長義は、初め守山川村北城の城主で、信秀が末森城(今の城山八幡宮の場所)を築いたとき(1548年)に前津小林城の築城を命じられ、その出城として島田城を修理して一族に守らせたという。『尾張徇行記』などによると、牧虎蔵の居城だったと村人たちはいっていたようだ。
 長義の息子の長清は信長の妹を正室としていることからも、この頃までに牧家は織田家(弾正忠家)との結びつきを強くしていたようだ。すでに斯波氏の本家は力を失い、尾張守護代だった織田家が台頭してきていた時代だ。
 長清の系統は熱田に移り住んで岡村姓を名乗ったとされる。
 長清の弟の長正の子に長勝がいる。
 最初、信長に仕えて下間頼廉の三女を妻にするも、頼廉の長女の夫だった荒木村重が謀反を起こして一族が信長に処刑されて妻を失った。
 その後、滝川一益に仕えて小田原征伐や関ヶ原の戦いに参加し、名古屋城築城のときは普請奉行を務めた。
 長勝の子孫は丹後、丹波、若狭などに住んだという。
 その他にも牧家は多く枝分かれして子孫を残すことになった。

 島田城の址は住宅地にもかかわらず土塁などの遺構をよく残している。周囲には今でも牧家が何軒もあり、一族が城址を守ったということなのだろう。近年の宅地開発までは馬場や的矢の跡も残っていたという。
 城址に祀られる社も、牧家が守っているものに違いない。社は小さいけれど、立派な牧神社だ。
 島田神社の隣にある島田地蔵寺は、1442年に斯波高経の孫の樵山和尚(しょうざんおしょう)が開山した寺で、牧家も何度か再建や修造を行っており、牧家の菩提寺となっている。

 牧家が祖神としてどんな神を祀ったのかは分からない。斯波高経の系図を辿っていくと、八幡太郎こと源義家に辿りつく。だからといって八幡神でもないだろうから、牧家代々の祖霊を祀っているということかもしれない。

 

作成日 2018.2.12(最終更新日 2019.2.7)

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