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大乃伎神社

ここもまた六所明神に上書きされた

大乃伎神社鳥居から拝殿

読み方 おおのぎ-じんじゃ
所在地 名古屋市西区大野木2丁目233 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 郷社・十等級・式内社
祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
須佐乃男尊(すさのおのみこと)
月読尊(つくよみのみこと)
蛭子尊(ひるこのみこと)
アクセス 地下鉄鶴舞線「庄内緑地公園駅」から徒歩約15分。
駐車場 なし
その他 例祭 10月上旬(名古屋まつりに合わせて)
オススメ度

『延喜式』神名帳(927年)の山田郡太乃伎神社(オホノキ)に比定される神社。
 私は自分を天の邪鬼とも疑り深い性格だとも思ってはいないのだけど、神社に関してはまず疑ってかかることから始める必要があると思っている。疑うというと言葉が悪いけど、信じるのは自分で確かめてみてからでも遅くないということだ。
 ここは式内社だから1000年以上の歴史がある神社なんですよと言われて、ああ、そうなんですか、それはすごいですね、などと何の疑いもなく信じてしまえば真実を見失いかねない。かなり古そうな神社に見えても、それは戦国時代とか室町時代に創建されたものかもしれない。室町と奈良時代とでは単に年代が違うというだけではない決定的な意味の違いというものがある。
 歴史上の大きな出来事が神社にとってもひとつのターニングポイントになることがある。
 たとえば600年前後の古墳時代終焉から飛鳥時代の始まりとか、645年の大化の改新とか、『古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)の成立とか、710年奈良時代の始まりとか、794年平安遷都とか、927年の『延喜式』成立とかがそうだ。その前か後かによって微妙に、ときに決定的に意味が違ってくる。

 こんな前置きをしたのは、この大乃伎神社が『延喜式』神名帳にある大乃伎神社かどうか、少し疑わしいと感じるからだ。
 最初にあれ? と思ったのは、大乃伎神社の名称が地名から来ているらしいという点だった。普通、逆じゃないの? と思った。
 現在このあたりは大野木町となっており、かつては大野木村だった。庄内川の渡し船の目印となる大きな木が地名の由来ともいう。
 けど、もし大乃伎神社が平安時代以前からここにあったとすれば、地名は神社名から来ているとするのが自然ではないだろうか。
 それに、大乃伎の伎(き)は歌舞伎で使われるように技とか芸とか芸人などを表す言葉だ。乃はひらがなの「の」の元になった言葉で意味もそれに近い。直訳すると大いなる技といった意味で、大きな木とは全然違う。
 津田正生は『尾張国地名考』の中でこう書いている。
「大野木村 比良、大の木もと一円なるべし 大乃伎天神は隣村比良村にあり、集説に大野木村六所明神歟(か)といへるは非なり」
 大野木と北隣の比良(ひら)はもともとひとつの村(地区)で、天野信景(あまののぶかげ)が『本国神名帳集説』(1707年)で大野木村の六所明神が大乃伎神社だろうかとしているのは間違いだ、というのだ。
 続いて「比良村」の項で、「比良の正字は平」で、
「延喜式 山田郡大乃木神社 本国帳 大のき天神 比良村天神の宮是也」としている。
 これが比良にある六所神社のことを言っているのであれば、私はその可能性があると思う。自分の感覚をどこまで信じていいのかは自分自身よく分からないのだけど、比良六所神社には古社としての風格や匂いといったものを強く感じた。そのあたりは比良六所神社のところで書いた。
 ただ、『延喜式』に載っていないからといって大乃伎神社が古くないということではない。平安時代以降、鎌倉時代あたりに創建されたものであったとしても充分な古さはある。

 ひとつの手がかりとして、境内に植えられた菩提樹の存在がある。
 中国原産の木で、日本では残っているものは少ないという。
 平安時代末から鎌倉時代初期にかけて生きた臨済宗の開祖・明菴栄西(みょうあん えいさい)が留学先の宋から四株の菩提樹を持ち帰って、香椎宮(web)に植えたのが日本における菩提樹の歴史の始まりというエピソードが『尾張名所図会』で紹介されている。
 大乃伎神社に植えられた菩提樹も同じ時期のものだろうと推測している。栄西が帰国したのは1191年だから、鎌倉時代が始まった頃だ。
 ただし、「境内に菩提樹の大木ありしが、今枯槁(ここう)し、蘖(ひこばえ)のみ残れり」とあるから、いったんは枯れて倒れたかどうかしたのかもしれない。現在あるものがその当時の木かどうかは分からない。それでも、名古屋市の天然記念物に指定されているところをみると、かなりの年月は経っていそうだ。
 この菩提樹の木が鎌倉時代初期に植えられたものだとするなら、その時代には大乃伎神社があったということになりそうだ。
『尾張名所図会』(1844年)では、この大乃伎神社を『延喜式』神名帳の山田郡大乃伎神社だとしている。
『尾張志』(1844年)も同じく大野木村の六所明神を式内の大乃伎神社とする。

 祭神は六所社のお馴染みのメンバーだ。イザナギ、イザナミ、アマテラス、ツクヨミ、スサノオ、ヒルコ。
 ここ大乃伎神社も名古屋市北部、庄内川流域の六所社エリアにあって、どこかの時点で六所明神に上書きされてしまっている。なので、創建年代も、もともとの祭神も、誰が建てたのかも分からない。そのことがこの神社の正体を分かりづらくしている一番の要因だ。
 江戸時代中期、1779年の庄内川氾濫洪水で記録が流されてしまって創建などのくわしいことが分からなくなってしまったというのだけど、大事なことはちゃんと他にメモしておこうよと思う。データは二重三重に守っておかないとなくしてからでは遅すぎるというのは昔も今も変わらないはずなのに。
 室町時代前期の1361年の棟札の他、いくつかの古い記録は残っているという。
 大乃伎神社の北西にある福昌寺(地図)は、塙宗悦(ばんそうえつ)の邸宅跡に建てられた寺だ。
 かつてこのあたりに大野木城があった。永正年間(1504年-1521年)に塙右近が築いたとされる。
 代々、塙氏の居城となり、信長の時代に家臣として仕えることになる。
 直政の代に信長から九州の原田氏の姓を与えられ原田備中直政と名乗った。石山本願寺攻めに参加して討ち死に。
 塙氏はその後、織田家を離れ、江戸時代には塙宗悦を名乗り、医術をよくするということで将軍家お抱えとなり、四代将軍家綱の幼少時の侍医や大奥の侍医などを努めた。
 その塙宗悦が1682年に社殿を寄進した記録も残る。

  この神社が式内大乃伎神社かどうかの結論を出す前に、地理と位置について考えてみる。
 ここは庄内川の川筋が蛇行している右岸(北岸)で、東に洗堰の堤ができるまでは毎年のように川が氾濫して水に浸かっていた場所だ。どうしてあえてそんな場所に神社を建てることになったのかも不思議だけど、この場所に平安時代もしくはそれ以前から神社があり続けることができたかどうか。
 もしかすると庄内川の流路は今と違っていて、はかつてはもっと北を流れていた可能性はある。
 いつ建てたのかも気になるところではあるのだけど、誰が何のために建てた神社だったかの方が重要だ。
 歴史をさかのぼると、東には味鋺神社地図)や味美二子山古墳(地図)を中心とした物部氏の拠点、味鋺・味美エリアがあり、西には尾張地方を代表する弥生時代の大集落の朝日遺跡(地図)があり、南には尾張二大弥生集落のひとつ西志賀集落(地図)があった。大乃伎神社があるのはそのちょうど中心あたりで、遺跡的にはエアポケットのような空白エリアだ。周囲からはこれといった遺跡や古墳などは見つかっていない。
 それはつまり、ここにいた古い勢力が見えないということを意味している。平安時代以前に、誰が何の神を祀り、そこにどんな意味と願いを込めたのか。
 考えられるとすれば、水の神、もしくは農業の神、あるいは土地の守り神、氏族の氏神といったところだろう。北2.5キロほどのところには700年頃創建されたとされる式内の大井神社地図)がある(大我麻から現在の如意に鎌倉時代に遷座)。大井神社は産土神として罔象女命(ミツハノメ)を祀ったとされる。大乃伎神社はどうだったのか。
 意外とも思えるのだけど、大乃伎神社に遷座の記録や言い伝えは残っていない。こんなに危ないところに何故鎮座し続けたのか。実際、何度も洪水の被害に遭っているはずなのに移ろうとしなかったのは、あえてこの場所に在り続ける必然があったということか。

 ここまで考えてきて私の思考は停止してしまう。大乃伎神社が式内の大乃伎神社なのかそうではないのかも判断がつかない。今のところはこれでいったん保留とするしかない。
 六所社のベールは厚い。

 

作成日 2017.4.7(最終更新日 2019.1.17)

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