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八幡社(新福寺)


真福寺村と一緒に越してきた八幡社



新福寺町八幡社

読み方はちまん-しゃ(しんぷくじ)
所在地名古屋市西区新福寺町1丁目 地図
創建年不明
旧社格・等級等村社・十四等級
祭神應神天皇(おうじんてんのう)
アクセス地下鉄鶴舞線「庄内通駅」から徒歩約11分
駐車場 なし
その他例祭 10月7日
オススメ度

 江戸時代の真福寺村(しんぷくじむら)にあった八幡社。
 真福寺村は真福寺があったことから来ているとされる。ただ、真福寺と新福寺の表記が混在していて混乱する。江戸時代の書にも両方の表記があるので、どちらが正式というのでもなかったようだ。
 現在は新福寺、新福寺町など、「新」で統一している。ここでは江戸時代を真福寺、現在を新福寺としておく。



 真福寺村は堀越村、名塚村とともに、もとは庄内川と矢田川に挟まれた場所にあった。当時の矢田川は今よりももっと北を流れていた。1610年の名古屋城(web)築城にともなって庄内川堤防改築が行われることになり、そのとき3つの村は庄内川の南に移された。家だけでなく寺社も一緒に移ってきている。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「社伝に元庄内川岸に鎮座のところ、慶長十九年(1614)8月、大氾濫により社殿流□し、今の社地に遷座すと、『尾張志』に真福寺村に八幡社ありと村の氏神として崇敬あつく、明治5年、村社に列格した」
 前後関係が分からないのだけど、慶長19年は庄内川の右岸堤防の工事が行われた年で、そのときに3つの村は移されている。これは8月の庄内川の氾濫の後ということになるのだろうか。しかし、他の村の神社は氾濫で流されたといった話は伝わっていない。『愛知縣神社名鑑』のいうことが正しいのかどうか判断ができない。



『寛文村々覚書』(1670年頃)の真福寺村の項にはこうある。
「社壱ヶ所 八幡宮 社内年貢地 村中 支配」
『尾張志』(1844年)は「八幡社 白山社 二社ともに真福寺村にあり」と書く。どこかの時点で白山社が増えたようだ。ただ、現在の新福寺に白山社はない。
『尾張徇行記』(1822年)はこう書いている。
「八幡社豊後守書上ニ、界内二畝十一歩年貢地村除、慶長年今ノ所に引移セリ」
 3つの村はたびたび水害に遭っていたようだけど、慶長19年に氾濫が起きて神社が流されたという話は書かれていない。



 村名の由来となった真福寺(地図)について『寛文村々覚書』は、「天台宗 同郡野田村密蔵院末寺 稲生山真福寺 寺内年貢地 但、名塚村地之内 外ニ元屋敷八畝歩 堤外 備前検除」と書いている。
『尾張徇行記』によると、この地に移されてきたときに名塚村の土地を借りて建てたとある。今昔マップの明治期(1888-1898年)の地図を見ても、真福寺は真福寺村と名塚村の間にあったことが分かる。
『尾張志』はこんなことを書いている。
「新福寺 新福寺村にあり稲生山と号し本寺上に同じ 此寺開基久しくして二王門に立る木像の二王殊に古く其外古書幅等多けれど廃れ損してわつかに形の残れるのみ也をしむべし」
 仁王門に古い仁王像があるけど古くて朽ちそうになっていて残念だと。
 この寺は天平年間(729-749年)に行基が創建したともいわれる古刹で、全盛期は12もの伽藍を持つ大寺院だったという。
 野田村密蔵院(春日井市)が戦国時代に没落したことを受けて、名古屋の天台宗の寺は総じて荒廃してしまった。



 八幡社の道を挟んで北にある円福寺(地図)も村と一緒に引っ越してきた寺だ。平安時代創建とされている。
 もとは天台宗だったのが、1235年(嘉禎元年)に親鸞聖人が東国から京に戻る際、寺に2日間滞在したことから浄土真宗(真宗高田派)に宗旨替えしている。
 寺の入り口には「親鸞聖人御舊跡」の石碑が建っている。
 お堂はかなり古いもののようだから、寛永年中(1624-1644年)に再建されたものがそのまま残っているのだろうか。



 八幡社の創建について詳しいことは伝わっていない。天正年間(1573-1592年)以前にはすでに建っていたという話がある。近くにあった真福寺、円福寺がともに古い寺ということを考えると、その当時から集落ができていたということで、この八幡社も古い可能性がある。
 境内の由緒書きは天正年間に京都の石清水八幡宮(web)から勧請したとある。それが本当であれば、戦国時代の武将が創建した可能性もあるけど、そういう話はどこにも出てこない。
 近くで起きた稲生合戦が1556年で、本能寺の変が1582年。1573から1592年というと幅が広すぎてちょっとなんとも言えない。
 除地ではなく年貢地になっていたというのも少し気になる。
 江戸時代以前に建てられた神社については、1608年の備前検地のときに除地とされたか、それ以前から除地になっていたところが多い。除地とされるか年貢地となるかの条件の違いはどのあたりにあったのだろう。



 江戸時代の真福寺村の人たちにとって八幡神はもはや戦の神ではなかっただろう。農耕の神という性格となっていたか、村の守り神といった認識だったか。
 真福寺村にあったという白山社が、その後どうなったかも気になるところだ。何か分かれば追記したい。




作成日 2018.5.10(最終更新日 2018.12.18)


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