金刀比羅神社(泉)

都会の真ん中にこんぴらさんがある理由は

久屋金刀比羅神社入り口

読み方 ことひら-じんじゃ(いずみ)
所在地 名古屋市東区泉1丁目14-5 地図
創建年 伝・元和年間(1615年-1624年)または1816年
旧社格・等級等 村社・十二等級
祭神 大物主命(おおものぬしのみこと)
アクセス 地下鉄名城線/桜通線「久屋大通駅」から徒歩約3分
駐車場 なし
その他 例祭 10月10日
オススメ度

 社伝によると、もともと清須にあった曹洞宗・溜琉光寺の山門鎮守として元和年間(1615年-1624年)に創建され、清須越しで名古屋城下の久屋町に寺社ごと移り、明治の神仏分離令で寺院が廃され金毘羅宮だけが残り、金刀比羅神社となった、とする(『愛知縣神社名鑑』は溜琉光寺としているけど正しくは瑠璃光寺か)。
 しかし、『尾張名所図会』(1844年)によると少し違っている。
「久屋町(くやまち)一丁目西側にあり。曹洞宗。僧桂安(けいあん)の建立にて清須に在りしを、元和年中ここにうつす。本堂の本尊薬師如来は、常安といふ者の守護たりし霊佛なり。又境内に近年金毘羅を勧請して繁昌す」
 元和年中(1615-1624年)に清須から移ったのは寺のことで、金比羅を勧請したのはその後、近年としている。
『尾張志』(1844年)は、「久屋町京町南の西側にありて醫王山全泉庵と号し永安寺の末寺也僧慶益建立して清須にありしを慶長年中今の處にうつし近頃今の寺号に改む」と書く。
 建立したのは慶益で、清須にあったときは全泉庵といっていて、慶長年中(1596-1615年)に名古屋城下に移して、近年(1800年代か)瑠璃光寺と改めたといっている。
『名古屋市史 社寺編』によると、清須にあったときは金泉庵(全泉菴とも?)と号して、清須から元和年中に久屋町に移り、万治三年(1660年)の大火で焼けて、その後再建されたものの寂れてしまっていたのだけど、文化十三年(1816年)に讃岐の金毘羅宮(金刀比羅宮/web)から勧請して境内に金毘羅宮を建てたところ、寺は復活し、名前を瑠璃光寺にした、としている。
 この経緯の通りとすると、金毘羅宮の創建年は江戸時代後期の1816年ということになる。
 瑠璃光寺の本尊は、空海作とも行基作ともいわれた薬師如来木像だったということで、その守護神として金毘羅が勧請されたということだろうか。金毘羅は薬師如来の十二神将の中の筆頭神とされている。
 この薬師如来木像はもともと、春日井郡阿原村の常安という人のものだったのが、誰かに盗まれてしまい、めぐりめぐって瑠璃光寺に寄付されたものなのだとか。
『尾張志』の話が面白くて、盗人がこの仏像を背負って逃げようとしたところ、仏像が声を発して常安を呼んだので驚いて盗人は仏像を置いて逃げたという。
 明治の神仏分霊で瑠璃光寺が廃寺になったとき、薬師如来木像は中区丸の内の誓願寺に移されたという。しかし、第二次大戦の空襲で誓願寺は本尊ごと焼け落ちてしまったため、その仏像は残っていない。

 金毘羅宮が金刀比羅神社として再出発をした明治初期は、広い境内の中に多くの境内社を持つ立派な神社だったようだ。
 大正十四年(1925年)に新愛知新聞(中日新聞の前身のひとつ)が選定した名古屋十名所のうちのひとつになっているくらいだから、相当立派な神社だったのだろう。現在の姿からその頃の様子を想像することは難しい。
 もとあった場所は、現在地の西北50メートルほどのところで、久屋大通の東部分を超えたリバーパークの中だった(地図)。今昔マップの大正時代を見ると当時の街並みや位置が分かる。旧地にはかつての石や御神木などが残されている。
 戦後の復興計画の一環として、テレビ塔が建てられ、久屋大通公園が整備される中で現在地に移されることになった。昭和33年(1958年)のことだ。
 名古屋テレビ塔が完成したのが昭和29年(1954年)で、同時に進められた久屋大通と久屋大通公園の工事は昭和24年に(1949年)に整備が開始され、昭和30年頃にはほぼ整った。名古屋を代表する100メートル道路のひとつ、久屋大通が完成をみるのは昭和38年(1963年)のことだった。
 久屋の町名は、尾張藩初代藩主の義直が命名したとされている。清須から町ごと引っ越してきたときは干物町といっていたらしく、義直がここを通ったとき、その名前はちょっとどうなんだということで、久屋町にするようにと言ったのだとか。
 現在は「ひさや」といっているけど、江戸時代は「くや」といっていた。

 こんぴらさんといえば香川の金刀比羅宮はよく知られている。金比羅系の神社は全国に600社ほどあるそうだ。意外と少ないように思うけど、単純に49都道府県で割ると一県に12社となるから、そこそこあるとも言える。
 象頭山に大物主命が営んだ行宮跡(あんぐうあと/仮の宮殿)に琴平神社を創建したのが始まりとも、役小角(えんのおづぬ)が象頭山で金毘羅神に出会って開山したのが始まりともいう。
 その後、神仏習合する中で金毘羅大権現などと呼ばれるようになる。
 海運関係の神としての性格を強めるのは江戸期に入ってからで、海運で取引を行う商人などが勧請して自分の屋敷に金毘羅を祀ったりした。
 明治の神仏分離令以降は、金毘羅大権現を祀っていたところは大物主神を祀る神社となったところが多い。
 崇徳天皇が祀られていることがあるのは、保元の乱の敗北によって讃岐に流され(1156年)、そこで崩御したからだ(1164年)。のちに怨霊化したため、その霊を鎮めるために合祀された。

 金比羅(金毘羅)はインドの神、クンピーラ神が元になっている。ガンジス川にすむワニを神格化したものとされる。
 それが日本に入ってきて、宮比羅大将(くびらたいしょう)と呼ばれるようになり、薬師如来の十二神将の筆頭守護神とされた。
 ワニではあるけど、海神、龍神といった性格も持ち合わせているため、海難を防ぐだとか、雨乞いの神ともされることもある。
 宮比羅(金毘羅)と大物主(オオモノヌシ)が同一視されたのは、オオモノヌシが海の向こうからやってきたということと無関係ではなさそうだ。
 スクナヒコナ(少彦名神)の助けを借りて国造りをしていたオオクニヌシ(大国主命)は、スクナヒコナが途中で帰ってしまって途方に暮れていた。そのとき海の彼方から光り輝く神がやってきて、自分が助けるから大和国の三輪山に祀るようにというのでその通りにした。それがオオモノヌシとされる。
 オオモノヌシ自身が蛇の神、水の神という性質を持っていたことも金毘羅と同一視された理由だったのだろう。

 どうして海とは無関係なこんな都会の真ん中に金比羅さんがあるんだろうと不思議に思ったのだけど、歴史を紐解いてみれば、なるほどそういうことだったのかと納得した。
 ビルに囲まれて小さく丸くなって鎮座している。それでも、よくぞこの場所に残ったものだ。

 

作成日 2017.4.17(最終更新日 2019.2.20)

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