六生社

塩土老翁命を祀る古社

六生社拝殿

読み方 ろくしょう-しゃ
所在地 名古屋市中村区栄生町23-21 地図
創建年 不明
社格等  村社・八等級
祭神

塩土老翁命(しおつちのおじのみこと)

アクセス

・名鉄名古屋本線「栄生駅」から徒歩約7分。
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 六生社の「ろくしょう」は、おそらく六所明神の「ろくしょ」から来ている。六という数字に意味はないと思う。
 祀られている塩土老翁命(シオツチノオジ)は、陸奥国一宮・鹽竈神社(しおがまじんじゃ)の祭神で、鹽竈神社はかつて六所明神と呼ばれていた。
 この六所というのは、鹽竈神社の縁起では、猿田彦命、事勝国勝長狭命、塩土老翁命、岐神(くなとのかみ)、輿玉神(おきたまのかみ)、太田命の六柱の神のこととしている。
 後にシオツチノオジが格上げされて主祭神になったということなのだろうけど、鹽竈神社の歴史もなかなかに複雑で難しいところがあって、そう簡単には分からない。
『愛知縣神社名鑑』では六生社についてこう書いている。
「創建は明かではない。 往古陸奥国の一宮より六分身の一を愛知郡栄村字松裏の社地に勧請したという。 慶長8年(1603)今の境内に遷し祀り、栄生の産土神として崇敬あつく」
 往古というくらいだから相当古いという認識で、栄村字松裏は現在地より4~500メートル北の美濃路に近い場所だ。現在の区割りでいうと西区になる。
 六分身の一というのは、六所の六柱の神のうち、シオツチノオジを勧請して祀ったということだろう。
 最初から六生という社名だったのか、六所が六生に変化したのかは分からない。

  栄村のこの場所に、いつ誰がシオツチノオジを祀る神社を建てたのか。どうして、シオツチノオジだったのか。
 一般的にシオツチノオジは名前に「シオ」が入ることから、製塩技術を伝えたとか、海の潮に関係のある神とされることが多い。老翁というからにはやはり、おじいちゃんのイメージだろう。
 鹽竈神社の縁起では、武甕槌神(タケミカヅチ)と経津主神(フツヌシ)が諸国を平定するとき先導して、タケミカヅチとフツヌシが去ったあと、シオツチノオジは塩竈の地に残り、そこで祀られることになったとしている。
 天降ったニニギに国を譲った事勝国勝長狭神はシオツチノオジのことという説があったり、山幸彦が釣り針をなくしているときに舟を出して手助けをしたり、神武にシオツチノオジが東にいい国があるとアドバイスしたともされる。
 導きの神という役割がサルタヒコと重なることから同一する考えもある。
 シオツチノオジを祀る神社が安産に御利益があるとうたっているのは、潮を司る神とされるからだ。出産は潮の満ち引きに影響を受けるという説と結びついたと考えられる。

 現在の栄生は海抜2メートルほどで、ずっと昔は海だった。名古屋台地の北西に当たり、海岸線が後退するとともに庄内川が運んできた土砂によって陸地化した。
 だから、海に関係が深いシオツチノオジを祀ることは不自然ではないのだけど、なんとなくしっくりこないような気もする。
 ここで製塩をしていたという話は聞かない。
 導きの神ということでシオツチノオジを選んだのか、陸奥国にゆかりの深い人物がここに住んでいたのか。
 後世、美濃路として整備される道は、かなり古くからあったとされる。古東海道から分岐して、清洲を通り、尾張国の国府(稲沢市)を経由して、美濃国にあった東山道の不破関へとつながっていたと考えられている。
 その美濃路沿いに建てられたというのだから、創建はかなり古い可能性がある。
 栄生は名古屋の難読地名のひとつで、「さこう」と読む。かつての栄村は「さこ」村だった。現在でも行政的には「さこ」町が正式な読み方らしい。栄生駅は「さこう」駅なのだけど。
 もともとは「砂処」や「砂子」などの字が当てられていたようだ。庄内川が運んだ砂が作った地、という意味だっただろう。
 別の説として、「さこ」は狭い所の意味というのもある。
 どちらにしても、めでたい字の「栄」を当てて「さこ」と読ませるようになったと考えられる。
 名古屋の繁華街である栄(さかえ)は、この栄村から発している。
 江戸時代前期に、栄村の住人が後に栄となる場所に店を出したのが始まりだった。その際、「さこ」より「さかえ(る)」の方が縁起がいいだろうということで栄を「さかえ」と呼ぶようになったのだとか。
 栄村が町になるとき、名前が同じでは紛らわしいということで、栄が生まれた町、栄生町としたという。
 現在は新幹線をはじめとした各種鉄道によってばっさり東西に分断されてしまっているけど、鉄道が通るまでは栄生や栄生町一帯はひとつの町だった。
 北にある枇杷島は文字通り島だっただろうし、少し西には塩地町など、かつてこのあたりが海辺だった頃の痕跡を残している。

 江戸時代初期の1603年に美濃路沿いから現在地に移された理由がちょっと変わっている。
 なんでも、野武士が襲うようになったからというのだ。そんなことがあるだろうか。
 1603年といえば、まだ名古屋城築城前で、尾張の首府は清洲にあった時代だ。美濃路のこのあたりもさほど整備されていたとは考えられないにしても、何を思って野武士がこの神社を襲ったのか。この神社に何か襲いたくなるような特別な理由でもあったというのか。江戸に幕府ができて、戦もなくなり、行き場を失った野武士たちが腹立ち紛れに神社を壊したということだったのかもしれない。

 境内社の祀り方に特徴があって、それぞれ小山の上に社を置いている。
 その顔ぶれは、金毘羅社、鹿島社、津島社、白山社、石上社で、なんとなく統一感がないというか、寄せ集め的な印象を受ける。
 鹿島の神はいるのに香取の神がいないとか、石上はどこから来ているのかとか、やや謎が残る。
 大峯山大権現や役行者もいたりして、積み重なった歴史の一端を見ることができる。

 古い歴史を感じつつ、どういう神社かと問われると答えに困る捉えどころのない神社、それが私の六生社に対する印象だ。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

なんかそわそわする栄生の六生社

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