六生社の「ろくしょう」は、おそらく六所明神の「ろくしょ」から来ているのではないかと思う。 祀られている塩土老翁命(シオツチノオジ)は、陸奥国一宮・鹽竈神社(しおがまじんじゃ/web)の祭神で、鹽竈神社はかつて六所明神と呼ばれていた。 六所というのは、鹽竈神社の縁起では、猿田彦命、事勝国勝長狭命、塩土老翁命、岐神(くなとのかみ)、輿玉神(おきたまのかみ)、太田命の六柱の神のこととする。 後にシオツチノオジが格上げされて主祭神になったということなのだろうけど、鹽竈神社の歴史も複雑で難しいところがあって、そう簡単には分からない。
『愛知縣神社名鑑』は六生社についてこう書いている。 「創建は明かではない。往古陸奥国の一宮より六分身の一を愛知郡栄村字松裏の社地に勧請したという。慶長8年(1603)今の境内に遷し祀り、栄生の産土神として崇敬あつく」 往古というくらいだから相当古いという認識で、栄村字松裏は現在地より4~500メートル北の美濃路に近い場所だ。現在の区割りでいうと西区になる。旧住所でいうと松前町2丁目、現住所でいうと栄生2丁目で、現在栄生稲荷社がある場所が六生社の旧地とされる。 六分身の一というのは、六所の六柱の神のうち、シオツチノオジを勧請して祀ったという認識でいいだろうか。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の栄生村の項を見るとこうなっている。 「社四ヶ所 社内年貢地 明神 天王 祢宜 熱田春大夫持分 天神 八幡 祢宜 名古屋若宮主膳持分」 このうち、明神が六生社だと思われる。 天神は土江神社、八幡は八幡社(栄生町)のことだろう。 天王は見当たらない。どこかに合祀されただろうか。 明神と天王が熱田社人の持分で、天神と八幡が名古屋若宮社人の持分となっている。 すべての神社が年貢地になっているのは気になるところだ。六生社については1603年に現在地に移されたということだから不自然ではない。
『尾張徇行記』(1822年)はこう書いている。 「熱田社家粟田春太夫書上帳ニ、六所大明神社内三畝村除、末社八幡神明白山石神古宮跡神木松一本境内十五歩村除、先年ハ氏神ココニアリシカ寛文八申年村中ヘ引移ストナリ」 「栄出町氏神天王社内十五歩村除也」 江戸時代は六所大明神と呼ばれていたことが分かる。 時代が進んで村で除地になったようだ。 「古宮跡神木松一本」というのは、六所大明神の旧地に大きな松があって御神木となっていたということだ。 現在の栄生稲荷社にそれらしい松の大木はないものの、第二次大戦で焼け落ちる前の名古屋城天守には「栄一本松」方向という表示板があったというから、戦前までは残っていたようだ。 六所明神が移された年を寛文8年(1668年)としている。 移ったのは神社だけでなく集落ごとだったともいう。 天王社は栄出町の氏神といっているので、別の場所で名前を変えて現存しているかもしれない。
『尾張志』(1844年)はだいぶ違うことを書いていて戸惑う。 「八幡ノ社 社人古川式部助 天地神ノ社 伊弉諾尊を祭ると云へり末社稲荷社あり 六所ノ社 是は神明八幡白山社宮司金毘羅役小角像と六軀あるを總いふ社號也 天王ノ社 境内に神明ノ社あり」 天地神ノ社が土江神社のことをいっているのだとしたら、祭神はかつて伊弉諾尊(イザナギ)だったようだ。今は少彦名(スクナヒコナ)を祀るとしている。 六所社については、シオツチノオジではなく神明、八幡、白山、社宮司、金毘羅、役小角の六神を祀ることから社名は来ているといっている。 これらの認識の違いをどう捉えればいいのかよく分からない。
江戸時代は六所大明神や六所社と呼ばれていたのは間違いなさそうだ。 六生社としたのは明治以降なのか戦後のことなのか。 祭神については六柱の神から来ていたのか、鹽竈神社の六所明神から来てるのか、判断がつかない。 そもそも栄生という土地にシオツチノオジを祀る必然が分からない。 栄生は縄文時代中期は海の底だったとはいえ、その後海面が下がって陸地になって以降は海から遠くなった。庄内川がすぐ北を流れている。 シオツチノオジは導きの神であり、製塩技術や潮の満ち引きに関係する神として祀られることが多い。イメージとしては老人だ。 鹽竈神社の縁起では、武甕槌神(タケミカヅチ)と経津主神(フツヌシ)が諸国を平定するとき先導して、タケミカヅチとフツヌシが去ったあと、シオツチノオジは塩竈の地に残り、そこで祀られることになったとしている。 天降ったニニギに国を譲った事勝国勝長狭神はシオツチノオジのことという説があったり、山幸彦が釣り針をなくしているときに舟を出して手助けをしたり、神武に東にいい国があるとアドバイスしたともされる。 導きの神という役割がサルタヒコと重なることから同一する考えもある。 シオツチノオジを祀る神社が安産に御利益があるとうたっているのは、潮を司る神とされるからだ。出産は潮の満ち引きに影響を受けるという説と結びついたと考えられる。 鹽竈神社からシオツチノオジを祀る神社として六所明神を建てたとしたら、それはいつで誰だったのか。 六所明神の旧地の250メートルほど北を美濃路が通っていた。整備されたのは江戸時以降でも古くからある道だったといわれている。 古東海道から分岐して、清洲を通り、尾張国の国府(稲沢市)を経由して、美濃国にあった東山道の不破関へとつながっていたと考えられている。 街道近くに建てられたということが何かを意味しているだろうか。
六所明神が移された1603年といえば、江戸幕府が開かれた年だ。しかし、名古屋城はまだ建っておらず、この頃の尾張の首府は清須だった。 六所明神とともに栄生の集落が西へ引き移ることになったのは、村を野武士が襲うようになったからだという。 後に名古屋城が建つ場所は戦国時代に那古野城があって廃城になっていた。そこには若宮や八王子、天王といった古い神社があり、今市場と呼ばれていた。 栄生のあたりは人家も少なくひとけのないところだったんじゃないかと思う。 美濃路を南下すると熱田の湊に出る。東海道が整備されたのは1603年なので、熱田の宮宿ができた頃だ。 野武士に襲われて村が移ったという話は栄生村でしか聞かないのだけど、当時はそういうこともよくあったのだろうか。栄生村に何か特別なことがあったのかどうか。
栄生は現在「さこう」と読ませるところが多い。町名や駅名がそうだ。 しかし、かつての栄村は「さこ」村で、今でも行政的には「さこ」町が正式な読み方らしい。 もともとは「砂処」や「砂子」などの字が当てられていたようだ。庄内川が運んだ砂が作った地、という意味だっただろう。 別の説として、狭い所(さこ)から来ているともいう。 どちらにしても、めでたい字の「栄」を当てて「さこ」と読ませるようになったと考えられる。 名古屋の繁華街である栄(さかえ)は、この栄村から発している。 江戸時代前期に、栄村の住人が後に栄となる場所に店を出したのが始まりだった。その際、「さこ」より「さかえ(る)」の方が縁起がいいだろうということで栄を「さかえ」と呼ぶようになった。 栄村が町になるとき、名前が同じでは紛らわしいということで、栄が生まれた町、栄生町とした。 現在は新幹線をはじめとした各種鉄道によってばっさり東西に分断されてしまっているけど、鉄道が通るまでは栄生や栄生町一帯はひとつの町だった。
境内社として金毘羅社、鹿島社、津島社、白山社、石上社がある。 『尾張志』がいう六柱の神が神明、八幡、白山、社宮司、金毘羅、役小角なので、ある程度共通項がある。 小山の上には大峯山大権現や役行者がいる。これも当時の名残といえそうだ。 特殊神事として虫封神事や赤丸神事が行われていると『愛知縣神社名鑑』にはあるのだけど、現在も続いているかどうかは分からない。
個人的な印象を記しておくと、なんだかそわそわして落ち着かない神社だった。なんとなく気配がするというか誰かに見られているような感覚があって、それがそわそわ感につながった。 いろいろな歴史が積み重なった古い神社という印象はあった。それなのにというかそれゆえにか、いまだ落ち着かずざわざわしている感じがした。
作成日 2017.5.17(最終更新日 2019.4.16)
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