一種、特有の霊気というか妖気の漂う神社だ。 参道を奥へ進みながら以前に一度訪れたことがある気がしたのだけどいつだったか思い出せなかった。中川区のこんなところまで来る用事があったとも思えず、来たことがあると思ったのは気のせいだったかもしれない。他の場所と似ていたせいか、遠い日の記憶なのか。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明かではない。『尾張志』に”サグジノ社中須村上之切という所にあり”と明治5年7月村社に列格した」
江戸期の書の中須村の項を見るとそれぞれこうなっている。
『寛文村々覚書』(1670年頃) 「社三ヶ所 内 神明 浅間 斎宮司 横井村祢宜 甚太夫持分 前々除」
『尾張徇行記』(1822年) 「神明社浅間社斎宮社界内四畝二十五歩前々除 府志云、神明祠三狐神祠倶在中須村 横井高野宮祠官二村長門書上張ニ、斎宮神社内一畝十歩備前検除、此社勧請ハ知レズ再建ハ寛文六午年也」
『尾張志』(1844年) 「神明ノ社 境内に浅間社あり サグジノ社 上之切という所にあり」
ここから分かることは、中須村には神明社、浅間社、斎宮社(サグジノ社)の三社があり、浅間社は神明社の境内に遷され、斎宮社は寛文六年(1666年)に再建されたということだ。 いずれも創建年は不明で、『寛文村々覚書』は前々除としているのに対して『尾張徇行記』は備前検除とする違いがあるものの、1608年の備前検地の際に除地とされたことは間違いなく、それ以前からあったということだ。 1666年に再建されたというのはその通りなのだろう。 中須村は本来、庄内川の右岸(西)に大蟷螂村と隣接してあった。1784年(天明4年)に庄内川が付け替えられて流路が変わったせいで庄内川を挟んで東西に分かれてしまった。本郷があったのは現住所でいうと大当郎1丁目だ。なので、大当郎1丁目にある神明社(大当郎)はもともと中須村の神社だったということになる。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、その頃の状況が見てとれる。 中須村の村名は川の中洲から来ているとされる。だとすると、集落はもともと庄内川の中洲にあったのかもしれない。
『尾張志』に「サグジノ社」とあり、『張州府志』では「三狐神祠」、現在は「齋宮社」で、祭神が猿田彦(サルタヒコ)になっていることからすると、ミシャクジ信仰と呼ばれる民間信仰の中で、道祖神的な要素を持った神社だっただろうか。 村の入り口に神を祀って村を守ってもらうという発想から来たものだ。 ただ、庄内川の流路が変わる以前は集落のどの場所にあったのかがよく分からないので、それ以上の推測は難しい。
それにしても昼なお暗いこの空間は何なのだと思う。 敷地の左手には打出水処理センターや打出処理場があり、木々が覆っているため昼もあまり日が差さないということもある。 午前中に訪れたらもう少し明るい雰囲気なのだろうか。 拝殿後ろの本殿は、倉庫のような建物に完全に覆われていて中を見ることはできない。木の扉は閉ざされており、鍵まで掛かっている。 やっぱりここ来たことあるよなぁという思いを残しつつ、神社を後にすることになった。
作成日 2017.11.2(最終更新日 2019.7.4)
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