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三輪社(榎津)

どうして三輪明神だったのか

榎津三輪社

読み方 みわ-しゃ(よのきづ)
所在地 名古屋市中川区富田町大字榎津字郷中1762 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 村社・十三等級
祭神 大物主命(おおものぬしのみこと)
アクセス 近鉄名古屋線「伏屋駅」から徒歩約20分
駐車場 なし(隣の空き地にあり?)
その他 例祭 10月5日
オススメ度

 三輪神社は、奈良県桜井市三輪にある大神神社(web/おおみわじんじゃ)系統の神社だ。
 大神神社は日本最古級の神社のひとつとされ、三輪山を御神体として本殿を持たない古い様式を保っている。三輪山の主が大物主(オオモノヌシ)ということで、祭神は大物主ということになっている。
 名古屋に三輪神社は二社ある。ひとつは中区大須の三輪神社で、もうひとつがここ中川区榎津の三輪社だ。かつてはもっとあったのかもしれないけど、現在残っているのはこの二社のみだ。

 大物主(オオモノヌシ)は別名、三輪明神とも呼ばれ、大穴持(オオアナモチ)の和魂(にきみたま)とされる。
 大穴持は大国主(オオクニヌシ)のこととされ、大己貴や大穴牟遅などとも表記される。
 このあたりの関係がややこしくてやっかいだ。大国主と大物主は別物だろうし、大穴持が本当に大国主のことを指しているのかどうか。
『古事記』によると、海の彼方からやって来て大国主の国造りを手伝っていた少彦名(スクナヒコナ)が途中で帰ってしまって大国主がこれからどうしたものかと途方に暮れいていると、海から光り輝く神が現れて三輪山に自分を祀るようにと告げる。それが大物主だというのだけど、どうして大物主が大国主の和魂とされるようになったのかはよく分からない。
 大神神社の由緒では、大国主が自らの和魂を祀ったとしている。
 大物主は出雲系の神には違いない。蛇神の色合いが濃いところにもそれは表れている。
 蛇はネズミを退治するということで五穀豊穣の象徴とされ、古くから日本人の信仰対象だった。
 大物主は他にも酒造りの神として信仰されている。造り酒屋の軒先に吊されている杉玉は、大物主がスギに宿ると信じられてきたからだという説がある。
 大国主の和魂でありながら強力な力を持つがゆえに祟る神ともされる。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではない。『尾張志』に”大明神ノ社、天王社の二社榎津村にあり”と前者が三輪社である。明治32年8月拝殿を改築する。昭和15年、村社に列格する。昭和58年社殿を改築した」

 江戸時代の書はそれぞれこう書いている。

『寛文村々覚書』(1670年頃)
「社弐ヶ所 内 大明神 天王 助光村 忠太夫持分 社内 年貢地」

『尾張徇行記』(1822年)
「大明神 天王社界内年貢地ナリ」
「助光村祠官二村式部書上帳ニ、三輪大明神天王相殿境内五畝年貢地 此社草創ノ年不知、再建ハ天和三亥年ノ由 天王社内二畝十五歩年貢地、草創ハ不知、再建ハ延宝三卯年ノ由」

『尾張志』(1844年)
「大明神ノ社 天王ノ社 二社榎津村にあり」

 大明神社と天王社が榎津村にあったことが分かる。相殿とあるから、江戸時代後期にはすでに天王社は三輪明神に移されていたということだろうか。
 大明神なのに境内が年貢地というのがちょっと引っかかる。除地になっていないのはどういう理由だったのだろう。
 どちらも創建年は不明で、大明神社の再建が1683年(天和三年)、天王社が1675年(延宝三年)とのことだ。

 榎津は現在「よのきづ」と読ませている。榎津村だった時代は普通に「えのきつ」だったようだけど、この地方の方言で「えのきつ」を「よのきつ」と言っていたのでそのまま村名になったともいう。
 現在、榎津西町もあって、そこは「えのきづにしまち」になっている。
『尾張志』にはこんなことが書かれている。
「榎津村 文和三年四月廿三日熱田神領目録に愛知郡榎墓郷とあるは此處なるへし 昔は愛智郡の内なりし地也隣村江松と殊に近くわづか八町計り隔たり昔は一村なりしを後世二村としえなつえまつによびわけし」
 文和三年は1354年で室町時代前期に当たる。その時代の熱田神領目録に榎墓郷が載っており、これが榎津村のことだという。榎墓はなんと呼んでいたのだろう。
 隣村の江松村とはもともとひとつの村で江奈津と呼んでいたものを、後世ふたつの村に分かれたときに江松と榎津にしたという説は津田正生も『尾張國地名考』の中で書いている。
 榎津村が榎墓郷のことならば、村としての成立はけっこう古く、大明神社も古い可能性がある。

 室町時代、三輪社のあたりに榎木津城(えのきづじょう)があったと伝わっている。
 尾張武田家の城で、城主は長田(武田)兵庫右衛門だったとされる。
 武田兵庫右衛門の名前が1456年(康正二年)の『造内裏段銭並国役引付』に出てくるというから、城があったのはその頃ということになる。
 ひょっとすると大明神社は武田兵庫右衛門と関わりがあるかもしれない。
 あるいは、榎津城が廃城になった跡地に建てられたのが大明神社だったか。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、榎津村は東を流れる新川にへばりつくように家が建っていたことが分かる。
 新川は江戸時代中後期の1787年に掘削された人口の河川だ。その東を流れる庄内川の洪水対策のために造られた。
 おかげで榎津村は川沿いの村になってしまったのだけど、新川の水害は大丈夫だったのだろうか。
 明治の地図にも現在地に鳥居マークが描かれているので神社は動いていないようだ。
 榎津の集落は家の数こそ増えたものの、昔からあまり変わっていない。今も西には広大な田んぼが広がっている。

 大物主と大神神社についての補足を少し。
 崇神天皇は即位後、都を三輪山の西の麓、瑞籬宮(みずかきのみや)に遷した。
 すると疫病が流行って多くの民が死んだ。崇神天皇は疫病を鎮めるため、宮中に祀っていた天照大神と倭大国魂神を宮中から外に出し、豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)に託して、天照大神を笠縫邑(現在の大神神社の摂社・檜原神社)に祀らせた。
 その後、倭姫(やまとひめ)に使命は引き継がれ、天照大神は各地を転々とすることになり、最終的に伊勢の神宮(web)に鎮まることになる。
 倭大国魂神は渟名城入媛命(ぬなきいりびめ)に命じて長岡岬(現在の大和神社/web)に祀るも、渟名城入媛命は弱って祀れなくなってしまい、国難はいっこうにおさまらない。
 巫女としての力があった皇女の倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめ)が神懸かりして大物主が現れ、自分を祀れば国は安らかになるというお告げが下ったため、
物部連(もののべのむらじ)の祖である伊香色雄(いかがしこを)に命じて磯城彦の後裔で三輪氏の祖とされる大田田根子(意富多多泥古)を探し出して大物主を祀らせた。するとようやく国は鎮まり、五穀豊穣となり民は喜んだという。それが今の大神神社とされる。
 倭大国魂神は
市磯長尾市(いちしのながおち)が祀った。
 倭迹迹日百襲媛命は未来を見ることができたため、その後も崇神天皇を助けることになる。そして、大物主の妻となった。
 しかし、大物主は夜にしか倭迹迹日百襲媛命のところに来てくれない。朝までいてくれるように頼んだところ、朝になると大物主は蛇に姿を変えたため、倭迹迹日百襲媛命は驚き、大物主は恥じて三輪山に帰ってしまった。
 嘆き悲しんだ倭迹迹日百襲媛命は陰部に箸を刺して(泣き崩れたときに箸が刺さったとも)命を落とした。
 人々は倭迹迹日百襲媛命を大市に葬り、いつしかその墓は箸墓古墳(はしはか)と呼ばれるようなった。
 箸墓古墳を卑弥呼の墓とするのは、倭迹迹日百襲媛命こそが卑弥呼ではないかとする考えによるものだ。
 ちなみに、隣の天理市にある石上神宮(いそのかみじんぐう/web)も、崇神天皇7年に創建されたと伝わる日本最古級の神社で、『古事記』、『日本書紀』の時代からすでに神宮と称されていた。
 祭神の布都御魂大神は布都御魂剣に宿る神とされ、布都御魂剣は武甕槌(タケミカヅチ)と経津主(フツヌシ)がニニギの天孫降臨に先立って葦原中国を平定したときに使った剣とされる。
 神武天皇が東征のとき熊野でピンチに陥って困っていると高倉下がその剣を与えて神武は無事敵に打ち勝ったと日本神話は伝える。
 その後、物部氏(のちの石上氏)の祖である 宇摩志麻治命(ウマシマジ)が宮中で祀っていたものを、崇神天皇が伊香色雄命に命じて宮中の外に出させて祀ったのが石上神宮の始まりという。

 榎津の三輪社に関しては、昭和58年に社殿が建て替えられていて、古い時代のものを見てないのでなんとも言えないのだけど、現在の神明鳥居と神明造の社殿を見ると、さほど古い神社とは感じられない。境内の空気感もそうだ。
 とはいうものの、名古屋で大物主を祀る三輪社は貴重だ。それだけでもよしとすべきだろう。
 それにしても、どうして農村地帯で三輪明神だったのだろうという引っかかりが残った。榎津村を作ったのが出雲や三輪から来た人たちだったのだろうか。

 

作成日 2017.11.29(最終更新日 2019.7.10)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

三輪社があっただけでよし榎津三輪社

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