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松姤社

キラキラしている

松姤社

読み方 まつご-しゃ
所在地 名古屋市熱田区神宮2丁目10 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 不明
祭神 不明
アクセス 地下鉄名城線「伝馬町駅」から徒歩約4分
駐車場 なし
その他  
オススメ度 **

 なんてキラキラした神社だろう。細かい光の粒子が宙に舞っているみたいだ。優しくて、柔らかくて、暖かい。ちょっと他では感じたことのない感覚を覚えた。多くの神社を回ったけど、ここに似た神社とは出会っていない。私にとって特別な神社のひとつだ。

 松姤社は「まつご-しゃ」と読ませている。
「姤」は音読みでは「コウ」、「ク」と読み、通常「ゴ」とは読まない。
 訓読みでは「あう」、「みめよい」、「みにくい」と読む。
 あうというのは、理解できる人に会うとか偶然会うといった意味で、見目良いでもあり醜いでもあるという相反する意味を持った言葉ということになる。
 中国語ではすばらしいという意味だという。
 松は木の松のことだとすると、単純に美しい松を祀った社ということも考えられる。
 後世の当て字だとすると、「まつご」という呼び名が先かもしれない。それは松炬島(まつこしま)の松炬から来ているとも考えられる。松炬島といえば笠寺台地のことで、ミヤズヒメの母、真敷刃俾命(マシキトベ)は松炬島の豪族、大印岐の娘とされる。

 松姤の姤が会うということでいうと、ミヤズヒメとヤマトタケルが初めて会ったのがこの場所だったという話がある。
 この場所の地名の布曝女町(そぶくめまち)の由来として『尾張名所図会』(1844年)は「日本武尊ここに至り給へる時、川の邊にうるはしき一女子布晒(ぬのさら)して在しけるを見給ひ、其名を問ひ給へば宮簀媛と申すよしこたへ給へば、やがてめして淹留(えんりゅう)し給ひしよし、『熱田大神宮鎮座次第本紀』に見えたるは則ここにて、其命の女工なし給へるが地名に残りたるよしいひ傳へたり」と書いている。
 それとは別の言い伝えとして、ヤマトタケルが東征のときに川辺で布をさらしているミヤズヒメに、尾張氏の本拠のある火高への行き方を訊ねたところ、耳が聞こえないふりをしてミヤズヒメは無視をしたという話もある。
 どちらも史実ではないにしても何らかの事実を反映したものであるとすると興味深い。
 古代において本名(真名/諱)というのは秘すもので軽々しく教えるものではなかった。名前を知られると霊的な人格を支配されるという考え方があり、よほど近しい間柄でしか知ることはなかった。男女においては、名前を教えるということは結婚すると同じことを意味した。つまり、ここでミヤズヒメが名前を教えたか教えなかったのかは非常に重要なことで、もし教えたとすればそれは大きな意味を持つ。一目見てヤマトタケルを見抜いてヤマトタケルのものになると決めたということだから。事実がどうこうではなく、そういう話が伝わっているということはどういうことかを考えなければならない。
 ミヤズヒメは耳が聞こえないふりをしたというエピソードから派生した話として、後に聾神(つんぼがみ)といわれて、耳の病気が治るとされた。
 もうひとつ違う話として、ヤマトタケルに出会った後、ミヤズヒメは家の門を閉ざして誰とも会わず誰の声も聞かず、ひたすら神にヤマトタケルの帰還を祈ったというものがある。

 しかし、考えてみると、どうしてミヤズヒメは熱田のこんな場所にいたのだろうと不思議に思う。
 当時の尾張氏の当主は乎止与命(オトヨ)で、火高の火上山に本拠があった。氷上姉子神社の旧地に館があったと伝わっている。
 その頃は熱田社はまだ建っておらず、景行天皇の時代を4世紀とすると、熱田の断夫山古墳さえまだ築かれていない。熱田は熱田台地の南端で、海に突き出した岬だった。火高とは入り海を挟んで直線距離で7キロ以上離れている。用事もなくミヤズヒメがひとりでこんな場所にいたとは思えない。
『尾張名所図会』のいうところの女工は、古代においては染織や裁縫をする巫女のような女性のことをいった。ミヤズヒメが女工だったとも考えにくい。『古事記』はミヤズヒメ(美夜受比売)を尾張国造の祖と書いている。
 それに、ヤマトタケルは東征の途中で伊勢に寄って倭姫から草薙剣(天叢雲剣)を預かっているから、伊勢から来たことになる。火高の尾張氏のところに寄る予定だったとしたら熱田を経由したというのはルート的に不自然だ。陸路で大きく迂回してわざわざ熱田に寄ったのであれば、熱田に何か用事があったということか。

 まったく別の話として、建稲種命(ケイナダネ)の陵という話もある。
 オトヨの息子で、ミヤズヒメの兄に当たる人物で、ヤマトタケル東征のときには副将軍として従ったとされる。
 東征の帰り道にヤマトタケルとは別の海路で戻る途中、駿河の海に落ちて死んだということになっている。
 その知らせを内津峠で聞いたヤマトタケルは「うつつかな、うつつかな」と嘆き、タケイナダネを祀ったのが内々神社(春日井市)とされ、タケイナダネの遺体が流れ着いたところに祀ったのが幡頭神社(西尾市吉良町)とされている。
『尾張名所図会』も松姤社の由緒として「布曝女町にあり建稲種命(たけいなだねのみこと)を祭る。もとは建稲種命の陵墓であったが、のちに神社とした」と書く。
『尾張志』(1844年)は、「尊命記に舊説に十握ノ劔を祭るといふ俗に御塚(ミツカ)ノ宮といふをもて考ふれは是蓋」という伝説を紹介しつつ、古墳の様でもなく、「おほつかなき説」としている。

 十握ノ劔云々という話はかなり唐突に思えるのだけど、松姤社の本社の向かって左手の社は十握社というから、『尾張志』が紹介している旧説は無視できない。
 十握は「とつか」と読み、十束、十掬とも表記される。
 束(つか)は握り拳ひとつ分で、十束剣というと拳10個分の長さということになる。剣の固有名詞ではなく長剣の総称だ。
 日本神話においてイザナギがカグツチを斬り殺したのも十拳剣であり、イザナミを黄泉の国まで追いかけていって逃げるときに追っ手を振り払ったときも十拳剣を使ったと書かれている。
 このときの十拳剣を『古事記』は
天之尾羽張剣または伊都之尾羽張剣としている(『日本書紀』は固有名詞を書いていない)。
 後にこれは神名とされ、人格化される。
 武甕槌神(タケミカヅチ)の葦原中国平定の場面でも登場し、そのときの十掬剣は
布都御魂剣と呼ばれ、後に石上神宮(web)の御神体となった。

『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)は松姤社の創建を朱鳥元年(686年)としている。
 これは『熱田太神宮御鎮座次第本紀』がいうところの686年にヤマトタケル東征ゆかりの地に10社を建てたとあることから言っているのだろう。その10社の中に松姤神社が入っている(他の9社は白鳥神社、水向神社、日長神社、狗神神社、成海神社、知立神社、猿投神社、羽豆神社、内津神社)。
 686年といえば、668年に新羅の沙門の道行が熱田社から盗んで宮中にあった草薙剣が熱田社に戻ってきた年だ。天武天皇の病の原因が草薙剣の祟りだということになり、熱田社に送り置いたと『日本書紀』は書いている。
 返したのではなく送り置いたと書いたのはどういうことかという議論はあるのだけど、とにかく686年という年に松姤社が創建されたとしたら無関係とは思えない。十握剣を祀るということと、草薙剣が戻ってきたことはどうつながるのか。
 草薙剣が熱田社に来たとき、熱田社は妙に慌てている。受け入れ態勢が整っていないので修造するとして、いったん草薙剣を熱田社人の田島家が預かることになった。そのあたりの経緯は影向間社のページに書いた。
 田島家の屋敷に影向の間というのを作ってそこに祀っていたという。草薙剣が熱田社に移された後も影向の間では剣を祀り続け、後に影向間社が建てられたとされる。

 松姤社は、いつ誰が誰を祀るために建てたのか?
 本社と十握社との関係でいうと、ミヤズヒメよりタケイナダネの方が合っている気もするけど、両方なのか。あるいは、まったく別の人物かもしれない。
 江戸時代の地図を見ると、松姤社は今とほぼ変わらない場所にあり、当時は東に入り口があったようだ。社殿は今も昔も東を向いている。それは何か特別な理由があったのだろうか。
 位置関係でいうと、熱田本社が北にあり、その南に独立して八劔社があり、その南に松姤社がある。松姤社は今よりもだいぶ広い。
 松姤社の西には源太夫社(今の上知我麻神社)があり、東は道を隔てて北から南新宮社、大福田社、日割社、氷上遙拝所と並んでいた。
 古代、それらの神社がどうなっていたかは分からない。

 氷上姉子神社の元宮は非常に重い感じがした。それに対して松姤社は明るくて軽い。最初に書いたようにキラキラしている。娘時代のミヤズヒメのエネルギーかもしれない。
 そう考えると、ミヤズヒメとヤマトタケルがこの場所で出会ったという伝説を信じてもいいような気になってくるのだ。

 

作成日 2018.5.26(最終更新日 2019.9.13)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

強くて優しいエネルギーが降り注ぐ松姤社

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