土江神社

時は流れてスクナヒコナと園児たち

土江神社外観

読み方 ひじえ-じんじゃ
所在地 名古屋市中村区塩池町2丁目6-17 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 郷社・十二等級
祭神 少彦名命(すくなひこなのみこと)
アクセス 名鉄名古屋本線「栄生駅」から徒歩約14分
駐車場 なし
その他 例祭 10月4日
オススメ度

 土江と書いて「ひじえ」と読む。
 正式には土の中に点のある「圡」という字だ。
 土(圡)を「ひじ(ひぢ)」と読むのは、古語で水気を含む土のことを「ひぢ」と呼んだことからきている。「泥」も「ひぢ」と読むことから、のちに圡に泥の字を当てた例もある。
 名古屋駅の東にある泥江町は「ひじえちょう」と読み、中区に泥江縣神社(ひじえあがたじんじゃ)がある。

 土江神社は江戸時代の日比津村(ひびつむら)の神社だった。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、東の栄生村と西の日比津村を結ぶ道沿いにあったことが分かる。栄生村の方がずっと近いのだけど日比津村に属していたようだ。
 日比津村は古くは泥津(ひぢつ)とも表記した。その後、塩辛となり、現在は塩池町となっている。塩池は字池口前、池口西の池と字塩辛の塩を組み合わせて生まれた町名だ(昭和22年)。
 縄文時代までこのあたりは海の底で、その後は長く湿地帯だった。圡(泥)や塩辛、塩といった地名はその頃の名残といえる。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書く。
「創建は明かではない。『国内神名帳』に従三位土江天神と記るし、『尾張志』に”社地荒廃し狭少となりて、社伝詳ならず、天神と称する社号正しければ帳内神社の列に称え奉らん”とみえ上古は国司長官親ら参拝して着任を申告し又常に朔幣を奉りしお社なり。明治5年、郷社に列格する」

『尾張志』(1844年)はわりと詳しい考察がされている。書き写すと長くなるので要約するとこうだ。
『張州府志』(1752年)が本国帳の従三位土江天神は”おそらく”日比津村の天神だろうと書いているのを受けて、しかし本国帳(尾張国内神名帳)の中で土江天神と書いているのはひとつだけで、貞治の熱田本や元亀の国衙本には「入江天神」とあるとして疑問を呈している。私が知る伴信友校訂本や国府宮威徳院蔵本も入江天神はあるも土江天神はない。天王坊本では入海天神となっている。
 逆に、土江天神を載せている尾張国内神名帳には入江天神はなく、泥江縣天神はあると『尾張志』は書く。
 なので、土江と入江の混同があるのではないかとしつつ、土江(入江)天神と泥江縣天神は別だろうとする。
 泥津(泥江)は古くはもっと広い範囲を指す地名で、海の入り江だったことから入江の天神、土江の天神と呼んだのではないかと推測している。
 いずれにしても、江戸時代までに社地が荒廃していたことは確かなようで、縁起などが分からなくなってしまったことは惜しいと書いている。
 ちなみに、津田正生は『尾張国地名考』の中で、本当は土津天神だったのに津を草書で江と書き違えたんだと言っている。

『愛知縣神社名鑑』がいう「上古は国司長官ら参拝して着任を申告し又常に朔幣を奉りしお社なり」というのは社伝のようだけど、記録があるのか言い伝えなのか。
 一般的に上古といえば、古代から飛鳥時代くらいまでを指す歴史区分だ。狭い範囲でいうと大化の改新(645年)までをいう。
 この神社がそこまで古いかというとやや疑問だ。国司が着任の挨拶に来る神社であれば『延喜式』神名帳(927年)に載っていてもおかしくない。
 ただ、尾張国の国内神名帳は平安時代末に成立したといわれているので、その頃までにはあったと考えていいのではないか。
 国司というのは中央から派遣された役人で、文字通り国を司る役割を負っていた。今でいうと県知事と警察庁長官と裁判官長官を兼ねたような立場の役人で、祭祀全般も担当していた。
 朔幣(さくへい)というのは、毎月の朔日(ついたち)に神社に奉幣することをいう。
 鎌倉時代に入ると地方の行政は幕府が派遣した守護、地頭が担当するようになり国司は有名無実化した。実際に国司が訪れていたとすればそれは平安時代までということになりそうだ。

 土江天神がいつ誰によってどんな神を祀る神社として建てられたのかは今となっては分からないし推測することも難しい。
 現在の祭神は少彦名命(スクナヒコナ)となっている。最初からそうだったかどうかはなんともいえない。
 しかし、ここから南西約1.7キロにある油江天神社でもスクナヒコナを祀っていることからすると、古くからこのたりにスクナヒコナを祀る信仰があったのかもしれない。
 
油江(あぶらえ)も、江という文字が入っていることから土江や泥江と近い関係にありそうだ。

 スクナヒコナは大国主命(オオクニヌシ)が国作りをしているときに、天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗って波の彼方からやって来て、オオクニヌシを助け、国作りの途中で海の彼方にあるという常世国に旅立っていってしまったと日本神話はいう。
『古事記』ではカミムスビ(神皇産霊神)の子とし、『日本書紀』ではタカミムスビ(高皇産霊神)の子とする。
 オオクニヌシとセットで祀られることはあっても、スクナヒコナを単独で祀る例は多くない。
 後に医術の神、酒造りの神などとされたことで医薬品関係の神社で祀ることもある。中区丸の内の少彦名神社がそうだ。温泉の神とされたり、石の神だったり、穀物の神だったりもする。
 土江神社の由緒では、鳥や獣、虫の災害から農民たちを守る神として祀られてたとしている。
 油江天神社では昔から歯痛に霊験あらたかとする。

 もしこの神社が本当に『尾張国内神名帳』にある土江天神(入江天神)だとすると、時の流れというものを強く感じずにはいられない。児童公園の一角に鎮座するこの神社はどこからどう見ても古い歴史と格式を持つ神社には見えない。
 昔は鬱蒼とした森の中に鎮座していたようで、由緒書きには「北ノ所ニ始メテ祭レル」とあるから、創建されたのはもう少し北の庄内川に近いところだったかもしれない。
 今この神社に国司一行がやってきて、うやうやしく奉幣したりしていたら、それは滑稽な姿に映る。隣接する公園では園児たちが大声でしゃべりながら走り回っている。
 スクナヒコナがここに鎮まっているとしたら、毎日そんな光景を眺めながら、平和でいい時代になったものだと心穏やかに過ごせているだろうか。

 

作成日 2017.5.21(最終更新日 2019.4.19)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

土江神社の名前はかつての記憶

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