円頓寺商店街の中にある神社のひとつ。 江川線で東西に分断された円頓寺商店街の西側、西円頓寺商店街にあるのがこの多賀宮だ。東エリアには金刀比羅社(地図)がある。 円頓寺商店街は、圓頓寺(えんどんじ)などの門前町として発展してきた歴史がある。 圓頓寺は廣井村の八軒屋敷(国際センター付近)に日言上人が1654年に創建した寺で、普敬院といっていた。 1656年に京都立本寺から十界大曼荼羅の本尊が送られたときに長久山圓頓寺と寺号を改めた。 圓頓寺が現在地に移ってきたのは、1724年(享保9年)の大火の後で、近くにある慶栄寺や真宗高田派名古屋別院なども同じ時期に移された。それ以前は武家屋敷が建ち並ぶ場所だったようだ。 当時は圓頓寺筋または御本坊筋などと呼ばれていたという。いつ頃から円頓寺という地名が定着したのかはよく分かっていない。 なお、寺の円頓寺は「えんどんじ」といい、地名や商店街としては「えんどうじ」という。 これらの寺が集まる場所ということで、このあたり一帯が門前町として発展していくことになった。
境内の由緒書きによると、多賀大社(web)から分祀したのは明治の中葉とある。門前町の歴史を考えると江戸時代創建でもおかしくないのだけど、明治中頃というのもあり得る話だ。 ただ、何故、その時期に多賀大社から勧請したのか、その理由はよく分からない。 総本社の多賀大社は滋賀県犬上郡多賀町多賀にあり、『延喜式』の神名帳にも載っており、旧社格は官幣大社、現在は神社本庁の別表神社という格式のある神社だ。 中世には神仏習合して多賀大明神と呼ばれ、寿命を延ばす神様として信仰を集めた。秀吉も母の延命を願い、社殿を改修して一万石を寄進している。 「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」などとうたわれ(多賀大社で祀っているイザナギ・イザナミはアマテラスの両親だから)、伊勢参りや熊野詣で、金比羅参りなどとともに庶民の間で多賀参りが流行った。 なので、この神社が江戸時代創建であれば個人宅で祀ったのが始まりという可能性もあるのだけど、明治中頃に同じようなことができたかどうか。 考えてみると、多賀神を祀る理由や目的というのは意外と分かりづらいのかもしれない。イザナギ・イザナミが祀られていることから縁結びの御利益があるなどといわれるようになったのは近代のことだろう。明治時代の人たちが多賀社についてどういう思いを抱いていたのかはよく分からない。
境内社として薬力稲荷大明神と倶利迦羅大龍不動明王が祀られている。 薬力稲荷大明神は伏見稲荷大社(web)の中にある薬力社から勧請したものだ。薬力社の湧き水を飲むと健康で長生きできるとされている。 倶利迦羅大龍不動明王は、犬鳴山(大阪府泉佐野市)から勧請したもののようだ。 真言宗犬鳴派の本山、七宝龍寺(しっぽうりゅうじ / web)は661年に役小角が開いたとされ、修験の根本道場のひとつとされる。 秀吉の根来攻めのとき大部分が焼き払われて一時は廃寺同然となった。 秀吉が信仰した多賀大明神と犬鳴山の大龍不動明王が名古屋で同居しているということになる。そこに薬力稲荷もいるのだから、なかなかユニークな組み合わせだ。
アーケード商店街の並びの中にあって間口は狭いものの、奥行きが意外とある。 願いが叶うかどうかを占うおもかる石や、携帯ストラップを奉納するところがあったりして参拝者を楽しませる。 商店街の人たちによって大事に守られている様子も伝わってくるし、多賀宮は今も商店街の守り神として機能しているようだ。 名古屋で独立した多賀社はここくらいかもしれない。なかなか貴重な存在といえそうだ。
作成日 2018.3.31(最終更新日 2018.12.19)
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